自動車教習おかわり列伝-最終日「ドライブ」
「まさか、こんな日が来るとはねえ……」
助手席で、母が言った。
同じことをこの日、五回は言った。
待ちに待った週末。わたしは、弟をグループホームまで送迎するという大役を喜び勇んで、買って出た。
とはいえ、お目付け役の母を乗せて。
ボルボV40。
3年前、印税と全財産をはたいて買った、母の車を、わたしが運転するのだ。
「よっしゃ!ほな行くで!」
指示器で合図を出した。
ウィーン!ウィーン!
ワイパーが動いた。
静まり返る車内。振り返る通行人。
ボ、ボルボくんったら外車だから、何もかも逆だった。指示器は左だ。知らなかった。キミ、そんな感じやったんや。
気を取りなおして、出発する。
滑るように、スルッスル動き出すぞ。ハンドルは太くて重いけど、ブレーキの効きがよくて、運転しやすい。キミ、そんな感じやったんや。
「うまいやん!」
「せやろ。教習所では最後まで神童やって……」
赤信号で止まり、母を見た。
浮いてた。背中が。
「はっ!?」
いつもはお飾りと化している天井の手すりを、野生のチンパンジーみたいに握りしめている。浮いてる背中もプルプルしてる。
「なになになに」
「腹筋……つりそう……」
「なぜなぜなぜ」
「ドキドキしてもて」
母はおへそから下が麻痺しているので、背中を浮かせると、夜の東京湾に逆さ吊りされて頭から二度漬けされている時とほぼ同じダメージを、腹筋にくらうのである。
わたしが進路変更するたび、母が露骨に前のめる。
「いやそんなんせんでも大丈夫やって!」
「ちゃうねん、助手席の景色に慣れてへんだけやねん。めっちゃ怖い。左左左!左が激突する!ギャーッ!」
「せえへんわ!見とれよ!」
華麗に左折をやってのけた。
ブッシャアアアアァァァァ!
華麗にウォッシャー液を噴いた。もともとキレイなウィンドウが、瞬く間に、キレイキレイ。
そんな目で見るんじゃないよ。
「あああああ、怖いよォ」
ついに母が本音を吐きやがった。教習所での成績がどうあれ、32年間ながめ続けた娘の私生活が私生活なもんで、信頼を勝ち取るまでの道のりは遠い。
助手席で母がギャーギャー言うておる。
これでは、弟がつられて、不安になってしまう。
チラッ。
ミラーで、後部座席を見た。
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。