自動車教習おかわり列伝-7日目「原付をなめるな」
仮免許証を手に入れた。
二つ折りの厚紙に顔写真を貼り付けて、ハンコをポンと押しただけの代物が、それはそれは輝いて見えた。
「仮免許証があれば、教官や経験者をとなりに乗せれば路上で練習できるようになります。その前に、原付講習を受けてもらいます」
そうだ。
普通免許をとると、オマケで原付も運転できるようになるんだった。原付とバイクの違いをつい最近まで知らなかったのに、急に視界が開けていく。
「ところが、今年は猛暑です。この気温で原付に乗って練習すると」
「練習すると?」
「死にます」
「死ぬんだ……」
そんなこたないのはわかっていたが、ヒヨコに等しい教習生は黙って従うほかない。
「一時間で操作方法を教えます。チャンスは一時間。それで覚えてください」
混戦の中で急に操縦桿を任された新人パイロットのような気迫でわたしたちは、クーラーの効いた倉庫に集められた。
待ち構えていたのは、どこからどう見てもバイク乗りの男であった。
骨ばった細身の体は、プロテクター付きの黒いライダースーツで引き締められている。首に巻いている保冷剤が赤いせいで、スカーフに見えた。アルミフレームのメガネの奥で、鋭い目は輝きを放って。
こち亀に出てくる本田を思い出したので、本田教官と呼ぶ。
革手袋をキュッとしながら、
「これが原動機付自転車、略して原付。スーパーカブです」
これが、スーパーカブ……。
たった二人の受講生であるわたしとヒヨ夫はその堂々たる佇まいに「おお……!」と感嘆をもらした。新聞屋が乗り回す原付も、本田教官が横に立っていると、ナナハンのバイクに見えてくる。
「操作は自転車と似て単純ですが、事故が多いのです。甘く見てはいけません」
本田教官が目をつりあげた。
「僕の友人に、濱本くんという男がいました……」
これは。
ただならぬ話が始まる。
背中に手を組み、カブの周りをゆっくり歩きながら、本田教官は続けた。
「高校生だった僕は、バイトをして原付を買いました。バスが一時間に一本の狭い田舎町です。これでどこにでも行けるような気がして、僕はうれしくてうれしくて、夜になるとわざわざコンビニまで走っていったものです。ある日、コンビニでしゃべっていた濱本くんが言いました。『原付、ちょっと押させてや』と。濱本くんは原付にあこがれてました。気持ちはわかります。乗っちゃだめだよと念を押して、僕は彼に愛車のハンドルを預けました……」
ごくり。
「濱本くんは『うわっ!かっこええ!僕も免許とろかなあ』と言って、原付を押しながら並んで歩きました。ライトをつけるため、原付のエンジンはかけたまま。それで僕と語らいながら、濱本くんは、なにを思ったのか……」
本田教官は立ち止まり、わたしたちを見た。
「ハンドルのアクセルを、全力でひねりました」
どうして……。
「濱本くんは、アホでした」
アホだった……。
「ブオオンッ!と馬が暴れるような音がしたと思ったら、僕の愛車はミサイルのように夜の田んぼへと飛んでいきました。棒立ちの濱本くんを、置き去りにして」
倉庫の中が静寂に包まれた。ヒヨ夫を見た。目を伏せながら震えていた。やめろ、ヒヨ夫。こらえろ。まだわからん。
「田んぼに愛車が突き刺さっていました」
「ぶふっ」
ヒヨ夫が声をもらした。だめだってば。まだわからん。わからんから。
「……まわりに人がいなかったから助かったものの、原付を甘く見ると、取り返しのつかない大事故につながります!」
ほら見ろ!だめだった!
こっち方向に着地する話だった!
目をひん剥いた本田教官は、傷みと憂いを帯びていた。ヒヨ夫の崩れかけた顔が、スンッとギリギリのラインの神妙さに戻る。
「いいですか。原付をなめるな!」
「はい」
原付をなめるな。わたしたちは心の中で復唱した。濱本を憎んだ。いや、憎むべきは濱本なのだろうか。
誰しもが持ち合わせる若気の至りと無知を、自覚することではないか。
言っていいのかどうかわからないが、書き残せる機会も今しかない。わたしは一度、警察に補導されたことがある。
恥ずべき過去である。
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