自動車教習おかわり列伝-10日目「救命教習24時」
「自動車免許をとるために避けては通れない関門、それが応急救護研修です」
教官が仁王立ちしながら、言い放った。
女性だったが雰囲気も口調もガチでエグい強さだったので、ガチエ教官と呼ぶ。神妙な顔でうなずいてしまったが、教習生たちの心はたぶんひとつ。
(いや、他にも関門あるやろ)
むしろ避けて通れる道の方が少ないだろ。
しかし、この研修室というバトルフィールドは、ガチエ教官の支配下にある。ガチエ教官の発言こそすべて。
「もうこの研修までくれば、免許取得はあっという間ですよ」
「おお」
体育座りした研修生たちが声をもらす。
そんなこと、ないんだよなあ。
「免許まであと一歩、がんばりましょう」
そんなこと、ないんだよなあ。
「じゃ手分けして、ジャミーくんを持っていってください」
ジャミーくんとは、救命練習用のマネキンだ。
ずらっと並んでいる姿は、ちょっと怖い。
わたしはジャミーくんを抱きかかえて、小走りで戻り、ブルーシートの上に毛布を折りたたんで、床に敷く。ピッ、ピッ、と四隅をぴったり揃える。
ジャミーくんをそっと横たわらせた。
着ているパジャマがはだけていたので、ボタンを留めてあげる。曲がっていた、首の位置をやさしく整える。
「……早くない?」
ガチエ教官の声。
バッ、と教習生たちが振り返る。
その時まで気づかなかった。リアルすぎるジャミーくんの質感にビビって、ヤングな教習生たちは運ぶことすらままならない。
そこへ来ると、もうわたし、手慣れすぎてた。
一人だけ“おくりびと”みたいな手つきだった。死にかけホヤホヤの状態で、ジャミーくんを整えていた。
言えなかった。
応急救護研修受けるの、人生で五回目です。そのうち三回は、前の教習所です。
言えなかった。
応急救護研修受けても、免許取得、ぜんぜん遠いです。
「大丈夫ですかー、わかりますかー、大丈夫ですかー」
ジャミーくんの肩をバシバシ叩く。意識なし。
ガチエ教官が他のチームへ怒号を飛ばす。
「そんな声じゃ聞こえません!もっと大きく!堂々と!必死で!」
「だ、だいじょうぶ……ですか」
「ダメダメダメ!必死さ足りない!」
怒られた女の子は、涙目になっていた。
「はあ。岸田さん、やってみてください」
嫌なパスが飛んできた。おくりびと仕草により完全に“できるやつ”だと思われ、お手本に利用されてしまった。
「大丈夫ですかー!わかりますかー!大丈夫ですかー!」
叫ぶ。喉に猪木を宿す。
力の限り叫ぶ。怒られたくない、その一心で。
「意識、ありますぇん!」
声が裏返り、猪木が鉄矢になった。ひるんじゃだめだ。もう一度裏返せ。裏の裏は表だ。猪木に戻せ。
「あなたは救急車を呼んでください!あなたはAEDを持ってきてください!」
勢いでやってみると、意外と覚えてるもんである。教習生という名のオーディエンスが「おおっ」と、わたしに注目している。
これ、たぶんわたし、医龍みたいな。
医龍の坂口憲二、みたいな。
そういう感じになってる。おくりびとからの華麗な転身。絶体絶命の患者、頭を抱える医師、そこに颯爽と現れて斬新なオペをする、空前絶後の天才医師……!
「では心臓マッサージを開始!」
猪木と鉄矢が融合して、憲二になった。
もう誰も、わたしを止められない。
「胸骨圧迫ね」
普通に止められた。
「へ?」
「心臓マッサージって、開胸だから。アナタがそんなことしたら死んじゃうでしょ。正しくは胸骨圧迫です」
前は心臓マッサージって教えられたのに。この数年で時代が変わったというのか。
「で?」
で?
「で、どこを圧迫すんの?」
ガチエ教官、さっきまで敬語だったのに、完全にタメ口。お手本なんかじゃない。これは試す者の目つきである。
この女、わたしが経験者であることを見抜いて……?
恐る恐る、記憶を頼りに手を置く。
「違うでしょ。乳頭と乳頭を結んで、真ん中を圧迫」
にゅ……なんて?
早口で聞き取れない。胸骨を圧迫するどころではなく、教官に圧迫されている。
「わかんない?」
悔しい。教習なのでわからなくて当然なのだが、衆人環視の中で鼻を明かされたみたいで悔しい。
その時だった。
「乳首!」
ひとり、躍り出た。
「乳頭は、乳首!」
霹靂のような一閃だった。
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