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酔っぱらい先生とわたし〜人生を変えた英語教室〜 「最終話.合格発表の日」

勉強がまるで苦手だったわたしが、むちゃくちゃな先生に英語を教えてもらって、大学受験に挑戦する話。

目次

1.ケンカと勉強は居酒屋で
2.本気で学ぶときは、本気で教えるとき
3.青木くんと親しくする理由
4.土下座だけはできない
5.雪山を滑り落ちゆく受験生
最終話.合格発表の日

酔っぱらい先生と出会って、10ヶ月が過ぎた。

大学受験の日がやってきた。

関西学院大学に入学願書を出した。

滑り止めの学校は、受験しないと決めていた。

模試の結果は、最後までB判定とC判定(合格可能性50〜60%)だったけれど、これで受からなければ、働こうと思っていた。

わたしの目的は、大学に進学することではなくて、父との思い出に報いることと、そして、母を助けることだったので。

関西学院大学の中でも、わたしは『人間福祉学部 社会起業学科』の受験を選んだ。福祉と経営を同時に学べる、日本にひとつしかない学科だ。

そこで学べば、病気の後遺症で歩けなくなった母を、年がら年中悩ませる“階段”だって、ブッ潰せる人間になれるはずだと、信じていた。

院長にはギリギリまで、内緒にした。

「滑り止めはどこにすんねん」

「受けません」

「おいおいおいおい」

院長が、めずらしく、驚いていた。驚かされてばかりのわたしが、受験の直前になって、やっと院長にひと泡吹かせられた。

「知らんで、俺は。どうなっても」

「はい」

「俺は勉強法は教えてと言われたが、受験法は教えてとは言われてない。だから滑り止めの受験について、ちゃんと教えてなくても仕方がない。したがって俺の責任ではない」

「はい」

「よっしゃ!言うたからな。言うたからな」

それが受験前、院長との最後の会話だった。責任という言葉から逃げ回りながら、居酒屋でスルメをかじる男だった。


受験の当日。

緊張したり、浮足立ったりするかなって思ったけど、なんか、いつもどおりだった。試験会場の講堂の装飾に、舞い上がったくらいだ。

一時間目の英語の試験を終えて、昼休憩。

サトシにとってのピカチュウであるように、わたしには『新・基本英文700選』がいつもそばにいたが、それを見返すこともなかった。

院長が、

「大切な試験前は、参考書や単語帳は見返してはいけない。あせるだけや。人はどこまでいっても自分のことがアホに見えるんや。あわてるな。お前がやることはそれだけや」

と言っていたのを、守っていた。

母が“ちょっとええ日”にしか作らない三色そぼろ丼弁当を、もそもそと食べながら、わたしはただただ、院長との日々を思い出した。

ああ、本当に、居酒屋で、勉強したんやな。

本当に、700文のわけのわからん例文を、覚えたんやな。

本当に、受験直前まで、スノボしてたんやな。

なんでやねん。

ツッコミどころが多すぎるが、わたしは本当に、院長を信じたのである。

わたしはずっと、わたしのことが信じられなかった。夏休みの宿題はいつも出せなくて、部活はいつも補欠の補欠で、バイトはいつも遅刻でクビになって。

なにやっても、目先の楽なことに逃げていた。父が亡くなったから、母が歩けなくなったから、大きな事件が降りかかると、それで有耶無耶にして、根気が必要な面倒くさいことは諦めてた。

初めてだった。
たった10ヶ月でも、最後までやり遂げたことは。

わたしのことは信じられなくても、わたしを信じてくれる院長のことは、信じられた。謎の上から目線で、信じてあげたいと思った。


国語と世界史の試験も終わって、家に帰った。乗り換えする大きな駅まで、母が車で迎えに来てくれた。

ドアを開けると、当然のように、院長が後部座席に座っていた。

「飯や、飯」

結局、試験当日までも、わたしたちのアジトは居酒屋なのである。

しばらく黙って、運転していた母が、

「どうやったか、聞いてええもんなんかな」

こらえきれずに聞く。

「……鉛筆が全部、折れて」

「そ、それでどうなったん」

「一文字も書けんかった」

「なんでやのォ!!!!!」


阪神高速北神戸線の急カーブを、母が絶叫しながら、ハンドルを切った。すごかった。マリオカートみたいな動きだった。

「うそやってば」

「こんな時にやめてえや!あんたは!あんたは!」

「ほんまは……犬が……教室に乱入してきて」

「犬が!?」

「解答用紙、全部食い破られてしまってん」

「なんでやのォ!!!!!!!!!!!」


極限状態まで心配した人間は、何を言われても信じてしまう。母がまさにそれだった。今にも泣きそうな絶叫である。

院長はゲラゲラ笑っていた。わたしと知り合ってから、この時が一番、おもしろい瞬間だったらしい。

母は今でも、この時の話をすると、わりとナチュラルにキレる。

わたしは、恥ずかしかったのだ。

受験の感想はというと、やりきった。合格するかはわからないけど、今までやってきた知識と、ちゃんと再会できて、うれしかった。

やりきった。うれしかった。

そんな意外性のかけらもない、カンタンな感想は、わけのわからん受験生活に見合わないと思った。受験でスベることより、笑いでスベることの方が、なぜか恥ずかしかった。

本当に思ったことは、まだ本当に言えない。それが高校生のわたしだった。今からすれば、正反対である。


二週間後、合格発表の日。

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