酔っぱらい先生とわたし〜人生を変えた英語教室〜 「3.青木くんと親しくする理由」
高校3年生の夏といえば、受験の天王山。わたしは天王山を知らず、馴染みのある天保山だと思っていた。二度見するほど低い。
それなのに、第一志望の大学の模試で、E判定を取ってしまった。
院長を信じ、居酒屋でどんなクソダルいケンカを売られようが、文法を完ぺきに覚えたというのに。あんまりだ。
院長に会う日まで、わたしは不安で仕方なかった。
すでに学校では、半袖のポロシャツに身を包んだ同級生たちが……!
どいつもこいつも一様に、同じ本と赤いシートを持っていた……!
旺文社のターゲット1900である。
さっきまで知らんかったけど、年々、ちょっとずつ表紙の犬の顔がアップデートされていた。目つきがやる気満々だ。昔はもっとポリゴンっぽくて、憎たらしい顔をしていたし、あさっての方にそっぽ向いて愚かなアホとは目すら合わせてくれないような雰囲気があった気がする。
廊下でターゲット1900を開いて、これ見よがしにスキマ時間で勉強している同級生たちを見るたびに、犬と目が合って「お前はまだやってないのかワン?(笑)」と煽られている気がした。いま思うと、強い不安による被害妄想だったかもしれない。
“単語帳を持つな。
単語を覚えるな。”
院長の教えだった。
でも、本当にこのままでいいのか。文法覚えても、模試の長文英語は、うまく訳せなかったのに。
来る日も、来る日も。
学校で、犬と目が合った。
ごくり。
ついに帰り道、ダイエーの本屋にこそこそと寄って、わたしはターゲット1900を買って帰った。
教材が増える分には、いいじゃん。勉強を頑張るってことだし。単語を覚えておいて損なことなんて、なにもないはず。
昔から、漢字や単語の暗記は大嫌いだったので、はかどらなかったが。あのコンパクトな本と、赤シートを、制服のポケットからサッと出すだけで、勉強している感があってかなり落ち着く。
はずだった。
居酒屋で院長に会うと、一瞬で取り上げられた。
「二度と買うな、こんなもん!」
犬が座敷の宙を舞った。さよなら、犬。短い付き合いだった。
「文法を覚えたからって、すぐに成績は上がらへん。せやけどな、文法を覚えんかったら、これから何をやってもあかんのや」
院長は、自分が持ってきたカバンをごそごそとあさった。
「ほれ。次はこれや」
院長から渡された本は、ターゲット1900よりずっと薄かった。薄い分だけ、不安になる。
ぱらり、と開いてみた。
一行ぐらいの短い英文が、9つずつ並んでいる。
左のページに英文、右のページに和文が載っていた。
こんな具合にだ。
「ここに載ってる英文を、全部覚えろ。和文を見ただけで、英文を書けるようになれ」
「全部……」
わたしは、表紙をまじまじと見る。なんど見たって、題名は『新・基本英文700選』だ。
「700……」
「おう。冬までや」
「冬までに、700……」
「意味が合ってるだけじゃあかん。一字一句、まったく同じ英文を暗記するんや。お前の夏は、この本に賭けろ」
「国語の古文と、世界史は……?」
「世界史は秋からでええ。いま覚えてもどうせ忘れるから、ギリギリで詰め込め。古文は、知らん」
「知らん!?」
「俺も教えられへん。まあ夏休みの終わりぐらい、英語の暗記に飽きたタイミングで気分転換にやったらええわ」
まだ犬の方が頼りがいがあったような気がするが、わたしはこの殺風景な本と一緒に、この夏は心中することになった。
700文、という単位が大きすぎてピンとこなかったが、これがまあ、えらい大変だった。人間の頭は700もの何かを暗記できるようになってない。
ポケモンで言うと、赤・緑・青の第一世代から、X・Yの第6世代までのモンスターを全部覚えるようなものである。いまだに第2世代のサンタの格好してる寝不足の赤いペンギンみたいなやつの名前、思い出せないのに……。
「奈美、なにやってるん?」
学校の休み時間で、友だちに声をかけられた。
「これ覚えてるねんけど……」
わたしは参考書の、一文を指さして見せた。
「青木くんってだれ」
「わからんけど、わたしはこれを覚えなあかんねん」
友だちは困惑した表情を浮かべて、なんと言うべきか迷ったあとに「奈美ならできるわ」と言って、立ち去っていった。
できるというか、やらなければいけないのだ。
目で見て書き写して、目を閉じて復唱して、見た目でも響きでも覚えようとした。一日9文がノルマだ。
一字一句同じに書く、というのが難しい。
たとえば「ためになるような友人」は、そのまま英語にすると“ためになるような”の表現を知らないので、つまづいてしまう。だから“ためになる”を“利益をくれる”に言い換えて、英語にするのだ。
日本語を、そのまま英語にするんじゃない。
日本語を、頭の中で知ってる英語に置き換えて、訳すのだ。この置き換えるという作業に慣れていかなければ。
それにしても、覚えたはいいが、いつ使うんだ。
いやほんまに、いつ使うんだ。
東京でボロ雑巾のようになる未来に備える語彙力である。もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にするように、もしも英語ができたなら思いのすべてを英語にするのである。してる場合か。
けれど、わたしに課されたのは“覚えろ”というただ一点のみ。
やるしかない。
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