酔っぱらい先生とわたし〜人生を変えた英語教室〜 「1.ケンカと勉強は居酒屋で」
「いまからユニバに連れてったるから、用意せえ!」
生意気が炸裂している中学二年生の春、父がわたしに言った。
な、な、な、なんやて!
青春の万年床と化したソファから飛び起きて。ケータイで作った『ホムペ』の一言に自慢を書き込んで。嬉々として車に乗り込んだら。
連れて行かれたのは、関西学院大学のキャンパスだった。
「どうや、このスパニッシュ・ミッション・スタイル建築!」
「ユニバは?」
「こういうのをな、美しさというねん」
「ユニバは?」
「ここがユニバ〜シティ〜(大学)や」
トンチというのは一休さんがやるからギリ許されるのであって、現代で親にやられるとシンプルに殺意が沸くのだと知った。
建築プロデューサーをしていた父は、反抗期を迎えてまったく勉強をしない娘を嘆いていた。
誕生日には『13歳のハローワーク』というお仕事図鑑を買い与え、わたしがそこに載ってた“検事”に憧れたら「アホか!そこに載ってない仕事を作れ!あと20年もしたらな、そこに載ってる職業はぜーんぶ機械がやっとんねん」と言い放った父のことである。
父はわたしに、勉強をして、いい大学に入って、安定した企業に……などという希望は持っていなかったはずだが、変人の父はおそらく「知性と美学を共有しあえる娘」を切実に望んでいたのだ。
ちなみに20年経った今でも司法は余裕で人間に委ねられているので、父はいつも飛躍している。
「俺は関西大学しか受からんかったから、キャンパスが美しい大学にあこがれてたんや」
娘をだまし討ちしてまで関西学院大学を見せた父は、つぶやいた。
その夏、父は急病で亡くなった。
喪失感から心をいれかえて勉強に励むかと思えば、まったくそんなことはなく、わたしは学校が終わるとケータイのホームページをひたすらチマチマと作っては遊んでいた。
学力レベルはちょうど真ん中ぐらい、フツーの公立高校に進学した。
そして高校1年生の冬、今度は母が病気で倒れた。手術の後遺症で歩けなくなり、車いすでのリハビリに奮闘する母を見舞う日々。
さあ、やっと母が退院して、もとの生活に戻ったと思えば。
再びホームページをひたすらチマチマ作っては遊ぶようになった。当時大好きだったマンガのキャラクターと、天使の末裔として羽根が生えている上に記憶喪失となったわたしが結婚する長編小説を書いていた。
高校3年生になったばかりの春。
寝ても覚めても、ケータイかパソコンばっかいじってニヤニヤしているわたしに、夕飯の席で母は言った。
「あんた、進路どないすんの?」
「んー」
「大学行きたいんやったら、勉強せな……」
「あー」
「このままやったら塾も通わせてあげられへんねんよ」
父の保険金が諸事情で消失したため、岸田家は困窮していた。
「なあ、聞いてるん?」
「うひひ」
突如、目の前を音速のイタチのようなものが横切った。母の手であった。わたしのケータイが奪われた。
「人がマジメに話しとるねんから、聞きい!」
ケータイがストレート速球150km/hで空気を裂き、壁にめり込んだ。
なにごとも温厚な母がバチギレしたのは、人生で3度ほどしかないらしく、うちの貴重な1度がこれである。今でも夢に見る。
びっくりしたのと、気まずいのと、素直になれないので、その日はお互い無言のまま夕飯を片づけた。
翌朝。
「昨日はごめんな。奈美ちゃんにも、ちゃんと考えがあるもんな。今夜は、美味しいご飯でも食べに行こ」
母が申し出てくれた。
「……おん」
まだ昨日の気まずさをひきずってるわたしは、ビミョーな返事をして、家を出た。
学校から帰ってくると、母はいなかった。このとき母は平日はいつも、夜までアルバイトをしていたのだ。
20時すぎになって、アルバイト終わりの母が、車で迎えにきてくれた。
着いた先は、なんてことない近くの居酒屋だった。
わたしも母もお酒が飲めないので、不思議なチョイスだなあと思っていたら。ヌルッと通された個室には、先客がいた。
「この人が、あんたを合格させてくれるから」
母が突然、言った。
そこにいたのは母がアルバイトをしている整骨院の、院長であった。座っていてもわかる高い身長、ギョロッとした丸い目に、1980年代を思わせるテクノカットの妙なおじさん。
うちには、娘をだまし討ちするっていう家訓でもあるんか?
「お前、関学(関西学院大学)に入りたいらしいな」
藪から棒に言われて、腹が立った。
だまし討ちされたことも、関西学院とかいう忘れかけていた響きを思い出されたことも、それを母が話したことも。
「まあ、今の成績やと絶対に無〜〜理ィ〜〜、やな!うひゃひゃ!」
彼がすでにビールをおかわりしまくって、酔っ払っていたことも。
なんやねん、このおっさん!
「べつに関学行きたいとか、思ってへんし!」
「あんた、パパに連れてってもろてたとき、行きたいって言うてたやないの!」
「何年前の話やねん。そんなんもう忘れたし、いまさら勉強してもあかんわ。うちは塾も行かれへんねんから」
塾も行かれへん、というのはあてつけだった。母がアルバイトを頑張って、いざという時のために少しずつ貯金をためてくれていたことを、わたしは知っていた。むしろそのお金を、塾代に使う気にはなれなかった。
わたしはそもそも、学校の勉強についていけてない。
かろうじて国語の現代文だけは平均点を取れていたが、それ以外は散々な成績だった。特に数学Ⅰなど、高校創設以来はじめて「一年生で単位を落とした生徒」になってしまった。
留年ギリギリで、夏休みも冬休みも、補習に呼ばれていたほどである。
無理、無理。
わたしには無理。
やる気なんか出しても、いまさら無理。
最初から諦めていた。諦めていれば、楽だった。受験失敗でプライドをへし折られることはないから。父が死ぬ間際に託してくれた思いを、直視せずに済むから。
できるだけイージーに、自分を守って、生きていたかった。
わたしと母の攻防を見ていた院長は、ジョッキを一杯飲み干して、ぽつりと言った。
「お前、友だち少ないやろ」
「……ハア!?」
図星だった。
高校では女8人のグループに属していたが、いつもわたしはみんなの会話についていくのに必死で、仲良くするどころじゃなかった。
「いらんことばっか考えて、早口でまくしたてて、人の話を聞いてへんな」
「いや、なんでそんなこと言われなあかんのですか」
わたしの顔は真っ赤だったと思う。否定されてとても悔しくて、でもそれはたぶん本当で恥ずかしかった。
自分で言うのもあれだが、わたしは「父を亡くし、母が入院し、弟に障害がある子」というデンジャラスな境遇が広まっていたので、まわりの大人はみんな、不自然なほど優しかった。
こんなふうにズカズカと言われるのは初めてで、とまどった。
「あのな」
院長は手羽先の唐揚げに食らいついたあと、ニヤリとして言った。
「口ゲンカが達者なヤツはな、勉強できるぞ」
ポカーン。
褒められてるのか、けなされてるのか、わからなかった。
適当に言っているのだと思ったが、素性を聞いてみると、院長は整骨院を開業するまでは、有名な進学塾で講師をしていたという。
見込まれてる、ということはわかった。
そして、わたしも似ているからか、直感で理解した。この人も口ゲンカが達者なのだ。言ってくることは失礼だが、節々に頭の回転の速さを感じる。
ポン、ポン、ポン、と会話のラリーが卓球みたいに小気味よく続いてゆくのが、ちょっと心地よかった。基本的にわたしはこのテンポが、人とズレているというのに。
そういうわけで、いつの間にかわたしは、焚き付けられてしまった。
「そんなに言うんやったら合格させてみい!」
売り言葉に買い言葉で、ふんぞり返って好戦的な態度もとっていた。母は視界の片隅でホッと安堵を浮かべている。
何杯目かもわからないビール、からあげ、だし巻き、一夜干し、が運ばれてきて、あっという間にテーブルがいっぱいになった。育ち盛りのわたしは、片っ端からがっついていく。
「俺から出すルールはなあ、3つやあ。これをなあ、絶対に守るんやぞォ」
以降、わたしの人生を変えた、絶対的な3つのルール。
一.
夏の終わりまでの4ヶ月は、英語だけを勉強すること。
(関学の文系受験科目は、英語・国語 + 地歴数のどれか)
二.
週2回、この居酒屋へ通って、院長に教わること。
(送迎と防犯のため、母も同席する)
三.
なにがあっても、院長のやり方に文句を言わないこと。
「わかったかあ」
院長は完全にできあがっていた。ベロベロだった。ベロベロなのに、3つのルールがやたらとハッキリしているのが逆に不安だった。
大丈夫なのだろうか。
母を見る。
母も「大丈夫なのだろうか」という顔をしていた。
しかしこの男、妙な説得力だけはあるのだ。
「わかりました、やります」
わたしが言うと、院長は満足げにうなずいて、足元に置いてあった自分のバッグをとった。
「ほな、さっそく今からや」
「今!?酔ってるやん!」
「ええねん、俺はなんも教えへんから」
バサッ。
テーブルの上に投げられたのは、いわゆる赤本だった。過去の大学の入試問題が載っている、分厚い本。実物をお目にかかったのは初めてで、その威圧感にビビってしまう。
「そのだし巻きを食い終わったら、すぐにこれを解け」
「えっ」
箸でだし巻きを掴んだまま、わたしはフリーズした。
「はよ食え、はよ解け」
「いやこんなん、解けるわけ……」
「文句言うな、食って解け!」
しばいたろかと思いながら、わたしはだし巻きを噛み締めた。
この受験物語を、わたしの人生を変えるだけ変えといて、いまはどこでなにをしてるんかもわからん、憎らしき偉大な院長に捧ぐ。会ったら面倒なので、別に会いたくはない。