酔っぱらい先生とわたし〜人生を変えた英語教室〜 「5.雪山を滑り落ちゆく受験生」
高校三年生の、冬がきた。
10月の後半からは、院長から送りつけられた『ドラゴン桜』を読み、英熟語、古文、世界史、とにかく暗記に時間をつかっていた。
特に苦手だった世界史は『ドラゴン桜』7巻に書いてあった、メモリーツリー勉強法という、ノートを使った連想ゲームみたいな覚え方がわたしには合っていた。
学校の、ただ写すだけの板書は、苦痛でしかなかったのに。
思えばこの頃から、おもしろいと思った話をメモして、納得いくように編集しなおすことが、わたしは好きだったのかもしれない。
とにかく、この頃のわたしを支えていたのは、自信だ。
700文もの英文を覚えた。英単語ではなく英熟語を覚えた。それだけで英語の長文が、みるみる解けるようになった。
このまま、あとは、2月7日の試験日まで、過去問をやり切るのみ!
……と、意気込んでいた、12月の冬休みのことだった。
夜、酔っ払った院長から、急に電話がかかってきた。
電話に出た母が、戸惑いながら、わたしに告げる。
「なんか……明日の朝、あったかくて動ける服装と、車を準備して待っとけやって」
なんだろう?
あっ。
もしかして、神社に合格祈願とか?
そういうのは性に合わんって言ってたけど、やっぱり、院長もソワソワしてるんかしら。ふっふっふ。
わたしは当日、玄関に現われた院長を見るギリギリまで、激励だと信じていた。
「おはようさん」
不審者かと思った。
朝っぱらから院長は、ニットキャップにゴーグル、つなぎ姿だった。
「ほな行くで」
「どこに?」
「雪山」
雪……山……?
聞き間違いに決まってる。受験生だぞ。受験生の12月末だぞ。みんな机にかじりついて勉強してるんだぞ。
きっと、なんかの比喩や!
そう!受験の天王山、的なやつ!
「車のタイヤはちゃんとスタッドレスやろうな」
シンプルに雪山だ。
「なにをするんですか?」
院長がでっけえ、でっけえスノーボードをかついできたのが見えていたけれど、見えていないフリをした。見たら負けだと思った。
「滑りにいくに決まってるやろ」
受験生だぞ。
目まいがした。アカン、どっから突っ込んでええかわからん。
スノボなど生まれてこのかた、やったこともないし、やりたいと思ったこともない。唐突すぎて、母も言葉を失いながら、乾いた笑いを浮かべていた。飲まれやがった、この悪夢に。
言われるがままに、院長とわたしを乗せ、母が車を運転した。
院長は助手席で、ローソンで調達したイカみりん煎餅を食べながら、とにかく上機嫌だった。鼻歌を歌っていた。
わたしは後部座席で、まだ、信じていなかった。
2時間半後、雪山へ到着するまでは。
「うそやろ……?」
目の前には、真っ白の雪で覆われた、バカでっかい坂。ところどころ赤く錆びて、ギィギィいってるリフト。そばに煙突の突き出た山小屋が一軒。
今にも倒れそうな看板には、広河原スキー場、とある。
ド平日で、誰もいない。
超怖い。
「奈美夫のは、ここにある」
トランクをごそごそやった後、院長が新品のスノーボードとスノーブーツをくれた。BURTONという、ズブの素人へ渡すにはかなり良いメーカーで、白色の板に赤色と黄色とピンク色の羽根が散りばめられたデザイン。
「大学合格の、前祝いや」
「正気か?」
声に出てしまった。
院長のボードはと言うと、異常に長くて、異常に鋭い。カッターの替刃みたいな板に、KATANA(刀)と渋い刻印をしてある。どう見ても、玄人にしか扱えない代物。
ここで初めて知った。
院長は熱狂的なスノーボーダーなのであった。
一緒に行く友達がいないだけの。
「……えっ、受験勉強はどうしろと?」
あと一ヶ月後には、大本命・関西学院大学の試験が迫っているのである。ここに受からなければ、進学を諦めて働くつもりで、滑り止めは受けてない。正真正銘の一発勝負なのだ。
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