酔っぱらい先生とわたし〜人生を変えた英語教室〜 「2.本気で学ぶときは、本気で教えるとき」
院長に急かされ、わたしは居酒屋で1時間かけて、関西学院大学の過去問を解いた。三年前に出題された英語の問題だ。
解いたというより、必死のパッチでなんとか解答を埋めただけだ。長文なんて、最初から最後まで、一体何について書いてるのか、まったくわからん。
わたしが頭を抱えて格闘している間も、院長はひたすらビールを飲み、母は気の毒そうな表情で、〆の釜飯を茶碗にペコンペコンとよそっていた。
「解けたか。ほな答え合わせや」
当然だが、点数は散々だった。
「お前、この一文、なんて訳した?」
問(1)の長文の中で、下線が引かれている英文を院長が指さす。
This tree bears no fruit.
「この木には……フルーツを食べたクマたちが……吊るされている……?」
わたしが答えると、院長がビールを吹き出した。毒霧のようだった。きたねえ。母のギャーッ!という悲鳴が机の対角線上で聞こえる。
「ヒーッヒッヒッヒッ!クマが、お前、クマが吊るされてるって、そんなん見たこと、グフッ、あるかァ?」
「笑いすぎやろ」
「あかん、アホや、お前はアホや!ヒャヒャヒャ、あっ、お兄さん、ちょっと聞いてや」
院長は、空のジョッキを下げにきた店員のお兄さんを捕まえてまで笑い転げていた。モラルゼロの酔っ払いによる暴挙にわたしは絶望する。
This tree bears no fruit.の正しい日本語訳は「この木は、実が一つもならない」だ。bearは「実をつける」という意味なのに、わたしは「クマ」だと勘違いしたせいで、荒ぶったマタギの見せしめみたいなシーンを練成してしまった。
毒霧男が「グフッ」「ブフォッ」と思い出し笑いをやめない様子と、ぷるぷる震えているわたしを、母が困りながら交互に見ていた。母だって、手塩にかけた上に錦松梅(有田焼容器入り)を乗せて育てた娘の頭脳が、無残な酒の肴になっているのを見るのは辛いはずだ。
「単語を知らんかっただけや、しゃあないやん!」
「そうか。ほな、お前が単語を覚えたら解けるんか?」
「それは……そうでしょ。」
えっ、ちがうの?
英語の勉強って単語からやるんじゃないの?
「クマじゃない方の“bear”はな、高校英語では習わんど!」
院長は、過去問の載った赤本をべらべらとめくる。
「これも、これも、これも。習わんど。俺だってわからへんような、マニアックな単語ばっかりや」
「いやいやいや!習わへんのに、どうやって解くん!」
「お前はどうやって日本語を喋れるようになってん?いちいちガキんちょのときから単語帳を渡されて、赤いシートで隠して、アホみたいに全部覚えてたんか?」
「そんなことは……」
「“せからしか”も“めんそ〜れ”も習ってへんのに、なんでお前は博多や沖縄の人と喋れるんや?」
英語の勉強で、なぜ博多弁と沖縄弁が出てくるのか、問われている意味がよくわからなかった。けれどうまく説明もできず、言い返せない。
「そんなこともわからんか。気が遠くなるで」
「やかましいな!」
「木に吊るされたクマやもんな、クマ。それも二匹……ブフォッ」
座敷にある座布団に倒れ込む院長を見て、お前を真っ先に木へ吊るしてやろうかと思った。母が「辛抱やで」という苦渋の目配せを送ってくる。
あかん。大人からアホアホ言われるのは、亡き父の存在以来である。悔しくて腹が立つのを通り越して、目尻に涙が浮かんできた。
ひとしきりゲラゲラと笑い転げた院長は、わたしに言った。
「……ふう。ええか、バカにされるこの悔しさを覚えとけ!」
言われんでも忘れるかい。序盤から清き青少年であるわたしに復讐心が芽生えた瞬間である。ハードなハリウッド映画の幕開けだ。
「バカにされたくなかったら、本気で学べ」
「……はい」
わたしは、ぶすっとした顔でオレンジジュースを飲んでいた。
「口で言うのは簡単やぞ。なかなか人は本気にはなれへん」
「言われんでもやるし……」
「あのな、人が本気で学ぶときはな、誰かに本気で教えようとするときだけや!」
院長の言葉は突拍子もなく、わたしはすぐに飲み込めなかった。これを書いている今のわたしは、この言葉こそが“勉強とはなにか?”という壮大な問いかけに答えるすべてだったと思う。
この日わたしは、生涯にわたる“勉強”の第一歩を、生まれたての小鹿より心もとない足で、踏み出したのだった。なんも知らずに。
「ほんなら、次はこれを解いてみい」
院長が一枚のプリントを取り出した。
問1.
She ( ) to school.
空白に入るのは「goes」か「is」か?
こんなん、簡単だ。goesに決まっている。中学レベルの英文だ。バカにしてんのか。
「goesです」
もちろん自信があった。
だから、院長の答えは、予想できなかった。
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