お金では手に入らなかったもの(姉のはなむけ日記/第22話)
しゃべりが、達者になった。
週末、実家へ帰るごとに、おどろいてしまう。弟のしゃべりが、目を見張るほど達者になっているのだ。
弟との会話を文章にするときは、読んでる人がわかりやすいように、少し翻訳をして書いているが、実際はもっとわかりづらかった。
「こんにちは」は、本当は「おんいいわ」に聞こえる。
母とわたしでも、三割も聞き取れていないと思う。何日も、何日も、弟の同じ説明を繰り返して聞いて「なあんだ、そういうことね」とようやくわかる。それを何年も繰り返してきた。
ところが。
母とわたしと弟の三人で、夕飯をかこんでいるとき。
「いややわ……打田さんとこの漬物、めっちゃ美味しいやないの」
「漬物とお茶で締めはじめたら老婆のはじまりやと思ってたけど、全然いけるわ。むしろ漬物とお茶だけでええわ」
「あんたがこっちの世界に来てくれて、ママは嬉しい」
そんな風に母とご飯を食べていたら。
「なーにをいうてんねん、いややわ、ほんま」
箸が止まる。
いま、オバチャンおった?
母が驚愕しながら、となりに座っている弟を見た。
「……いま、良太がしゃべった?」
弟がニンマリと笑って、首をかしげる。
「いうてたやん、もう」
オバチャンがおった。
翻訳もなにもなく、本当にこの通り、はっきりと発音したのである。オウムみたいに、文脈関係なく誰かの口ぐせを繰り返していているだけかと思ったら。
「なみちゃん、カギ忘れてる、ほんまにあかんで」
カギを置いたまま出かけようとするわたしを呼び止めた。しゃべれている。はっきりと。26年間、ずっと、うまくしゃべれなかった弟が。
たった二ヶ月やそこらで一体なにが。駅前留学でもしたんか。
もちろん、ボキャブラリーには限りがあるが「やったー、ハンバーグや!」「またまた、こんど会おね、ほなね」など、日に日に増えている。
さらに、言葉だけでは飽き足らず。
わたしが風呂から上がると、弟がリビングに立っていた。片手にタオルを持っている。
「良太、お風呂……」
弟は振りかぶり、タオルを前に投げる。そして帽子のつばを持ち上げるようなふりをした。
野球の投球ポーズであった。
弟は野球にまったく興味がない。ルールだってわからない。試合を見たこともない。なぜ、とつぜん、野球を。
弟は投げたあと、右手をおでこあたりの高さに持ってきて「パシッ」と口走ると、手のひらを閉じた。キャッチャーから投げ返されたボールを、マウンドで受け取る素振りだ。なんて、細かいんだ。
「えっ、うそやろ、野球?」
気がついたら、母がいた。わたしと同じようにびっくりして、口を押さえたまま絶句していた。
「なあ。いきなり野球して、どうしたん」
弟に話しかけると、こっちへ歩いてくるが、途中でしゃがみこんだ。なにかを左手で拾うふりをする。それも二回。
あっ。
世界のショウヘイ・オオタニ……?
米大リーグ、エンゼルスの大谷翔平選手だ。どうして神戸に。いや、どうして弟に。思いもよらなかった形態模写に、リビングは騒然とした。だからなんだというのだ。
「だれから教わったん、それ」
「まことくん」
「そっか、まことくんか」
誰や。
「グループホームの人?」
「うん」
「いつも誰としゃべってるん?」
「まことくんと、おいちゃん」
「おいちゃんかあ」
誰や。
弟はふんふんと鼻で歌いながら、風呂場へ消えていった。
まことくんとおいちゃんの正体は、しばらくして判明した。
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。