ただここで暮らしたいだけなのに(姉のはなむけ日記/第3話)
ようやくたどりついた、良さそうな気配のするグループホーム。弟もノリノリだったが、思わぬ落とし穴にドボンするのであった。
「ごめんなさい。ここ、アクセスがめっちゃくちゃ悪いんですよ」
管理者である中谷さんは、申し訳なさそうに言った。
最寄り駅まで、徒歩40分。
近くにバス停はあるが、弟が働いている福祉作業所まで行ってくれるバスは、1時間に1本。しかも午前中だけ。
福祉作業所に通うには、バスと電車を乗り継がなければならない。
この、乗り継ぎというのが、弟にとって、天に向かって高々とそびえ立つハードルなのだ。
知的障害のある人は、ルーティーンを大切にする。
わたしの弟なら、7時30分に起きて、火曜サスペンス劇場のセリフを練習しながら着替え、アルトバイエルンと白飯を食らい、腕時計を右腕にまいて、犬を適当に撫でて、8時30分のバスに乗り、終点で降りる。
何年もかけて、弟が作ってきたルーティーンだ。こだわりとも言う。
大きな音に敏感な弟は、車のクラクションや、人の騒ぎ声が聞こえる道を歩くだけで、そわそわする。次々と生まれる、あいまいでハッキリしない暗黙のルールに、振り回される。当たり前のように淡々と情報を知らせるアナウンスや電光掲示板が、頼りにならない。
そんなとき、ルーティーンは、弟をなぐさめてくれる。
まるで、ずっとそばにいた友だちみたいに。
「大丈夫。良太くんの世界は、今日も良太くんを歓迎しとるよ」
と言ってくれる。いつもと同じことを、いつもと同じにやっていくと、襲いくる不安はやがて馴染んでいく。
それでいうと、ルーティーンは、複雑になればなるほど、友だちじゃなくなっていくのだ。電車とバスの乗り継ぎはやばい。
だって、30歳になった姉でも派手に失敗するもん。
何度、梅田から南方に行きたいのに、十三で特急に乗ってしまい、会社に遅刻してコッテリ絞られたことか。次は淡路〜、淡路〜、という絶望のアナウンスがこだまする。
あかんのよ。
いつものバス停から乗って、終点で降りる。それだけのことが、弟の友だちになるまで、一年はかかった。
今でも、バスが定刻より10分くらい遅れると、弟は「今日はもうあかんわ」と家までアッサリ戻ってくることがある。せやな、あかんな。やめとき。ついでにそのメンタルを姉にわけてくれ。
「バスと電車の乗り継ぎは……息子にはちょっと、難しそうですね……」
母は渋い顔をした。
「そうですよね。他に見学へ来られた方も、福祉作業所への通勤がネックで入居できないっておっしゃってて」
そりゃあ、そうだろうなあ、と思った。
「ってか、なんでこんなとこにグループホーム作ったんですか?」
母は思いきって、中谷さんに聞いてみた。
グループホームに入居したい!という障害のある人には、自立の意思がある。ずっと家にこもってるんじゃなくて、日中は福祉作業所にいって、仕事や交流をしている人がほとんどだ。
だったら、こんな辺境のニュータウンじゃなくて、もっとアクセスが良くて安い土地もあったのに。
「ここしか借りられなかったんです……」
いったいどういうことか。
中谷さんが代表をしている会社はもともと、高齢者や障害者への訪問介護や宅食サービスを提供していた。
それで、ずっと夢だった知的障害者向けグループホームをつくるために、資格をとって準備をしたらしい。
グループホームをつくるには、土地に新しく家屋を建てるか、空いてる一軒家を借りる必要がある。
いくつか不動産屋をまわったら、断られまくったというのだ。
「えっ、なんでですか」
「えーと……うん、そうですねえ、なんというか……」
なんか気まずい話がはじまる予感がしたので、母だけで続きを聞くことにした。
「障害者の施設に土地や家を貸してくれる大家さんって、少ないんですよ……ホントに……」
中谷さんは「なんとなく聞いてはいたけど、いざ探してみたら、こんなに難しいことだとは思わなかった」と、苦い顔をした。
「マジですか。どんなふうに断られるんですか?」
「いや、もう、“なんの事業で使うんですか?”って聞かれて、“障害者のグループホームです”って言ったら、うちでは無理ですねって。あっさりしたもんですよ」
この話を母づてで聞いたとき、わたしは言葉を失った。
が、理解はできた。
なぜなら、わたしたちにも経験があった。
2017年、会社員だったわたしは東京に転勤することになった。母も同じ会社に勤めていて、東京での仕事も多かったので、母が上京するときにも泊まれるところを借りようと思っていた。
当時、大手の不動産屋に行き、わたしは言った。
「エレベーターがあって、できるだけ段差が少なくて、トイレが広いところがいいんですがありますか?」
「……失礼ですが、どうしてですか?」
「車いすに乗っている母が、上京するからです」
「あー、それ、入居のときは大家さんに隠しといた方がいいですよ」
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。