大いなる愉快な第一歩の巻(ドラマ見学5日目)
ダウン症の役者さんの撮影がはじまるとき、プロデューサーが「ライブ感のある現場ですよ」と、意味深なことを言っていた。
その深い深い意味が、やっとわかった。
岸本家が車で出かけるシーンの撮影前。
ここはミニ草太を演じる小倉匡くんの見せ場だ。
あまりの愛くるしさに、心臓をワシッと掴まれていたら、
「……あれっ?」
ピタッと凍りつく、匡くん。
靴を履き替えなければいけないのだが、足があがらない。やむを得ず、カメラが止まった。
匡くんのお母さんが、一喜一憂しながら見守っている。
「車のドアを閉める大きな音が苦手で、そっちに意識がいくと……次にやることがわからなくなっちゃうみたいで」
デカ草太を演じる吉田葵くんの撮影でも、似たような話を聞いた。葵くんも、匡くんも、演技経験はない。
慣れない現場で、知らない大人がたくさんいる中で、何時間も待機して、演技を覚えて……
あらためて、とてつもなく、すごいことをやってる。
同じくダウン症のわたしの弟なら、たぶん無理だ。30分で脱走してるよ。
助監督やディレクターが、匡くんのところに駆けよる。
「クツ、かっこいい。グッド。これ、足、はく。……バッチグー!」
アメリカン。
なかなかアメリカンな演技指導である。
肩をすくめ、表情を押し出し、親指を立てる。何度かやるうちに、匡くんの気分がノッてくる。
何度か繰り返したのち、匡くんが靴を履いた。
スタッフが高らかに拍手を捧げて「オウ、イエーッ!」と歓喜する。ヌートバーが初球ヒット打ったときのベンチかな。
今度は、匡くんがキュッと耳をふさいでしまった。
あっ……。
大きな音が、苦手……っ!
車への乗り込み方も言葉じゃなくて、行動で匡くんに伝える。
ディレクターが、天井にゴンッと頭をわざとぶつけるように乗っては
「これは、アウト!」
と言う。
次は、小さく体を丸めながら乗って、
「これは、セーフ!」
と言う。
こうやってひとつずつ、現場で覚えていくのだ。
一生懸命に集中してもやっぱり、気が散ることがちょっとでもあると、匡くんの演技が止まってしまう。だれも予測はできない。
早朝の地下駐車場は、グッと冷え込んでいる。もう2時間が経っていた。
……どうするんだろう?
不穏な空気がいつ漂うかしらと肝を冷やしていると、演出の大九さんのよく通る声が響いた。
「草太をずっと追いましょう!」
えっ。
わけもわからず、キョロキョロしているのはわたしだけだった。
すぐにカメラマンが声を張り上げる。
「えー、本機は今をもちまして、草太を永遠に撮るカメラになります、よろしくお願いします!」
草太を……
永遠に……
撮るカメラ!?
極限の現場すぎて人格が壊れてしまったのかと思ったが、スタッフさんたちは早々に合点したようで「永遠に」「永遠に」と、口走りながら配置についてゆく。ジオン公国のような。
草太を永遠に撮るカメラが、とつぜん用意された。
まさに文字通り、草太を永遠に撮っていた。演技が始まってようが止まってようが、匡くんがそわそわしてようが、まったく構わず。
ジーッと撮っていた。
そのうち待機バスの中から、河合優実さん、坂井真紀さん、錦戸亮さん、美保純さんがズラーッと降りてきた。
岸本家そろっての撮影が、ようやくはじまる。
これから撮影するのは……
家族で車に乗って出かけようとし、
忘れものをしたことに耕助が気づき、
草太がミラクルで忘れものを持ってきていた。
というワンシーンだ。
匡くんは、トントンと錦戸さんの肩をたたいて、手を差し出し、忘れものを渡すことになってる。
でもやっぱり、最初は手を差し出すことなく止まってしまった。
「カット!もう一度やりましょう!」
撮りなおし。
わたしの立っている場所からは“草太を永遠に撮るカメラ”のモニターが見えていた。匡くんの、ちょっとこわばった、困ったような顔が映っている。
どうなっちゃうんだろうか。
カメラはずっと、草太こと匡くんを捉えていた。
そして、三度目。
あれっ、と思った。
美保純さんのセリフが、ちょっと変わっている。セリフというか、間の置き方とか、視線の配り方とかが。
文字に書くと難しいのが演技なんだけど、あえて書くなら「あんたら、大丈夫か?」っていう家族への問いかけが、自然に強調されていた。
これは、フリだ。
“フリが効いている”のフリ。大阪人ならお馴染みのあれ。思わず声と体が動いてしまうあれ。草太に向けられてるフリ。
ちょっと時間があって。
トントン、と匡くんが錦戸さんの肩を叩いた。
やった!
叩いた!
「草太、持ってきてくれたんか!」
錦戸さんが、よろこびっくりな声を上げて、振り向く。カメラからは、錦戸さんの背中しか見えない。
草太はにんまりと笑って、得意気にうなずく。
あとは、忘れ物を渡すだけ。
渡しますように、渡しますように、渡しますように……!
わたしは祈った。
ふと、なにかの念を感じ取り、大九さんを見た。
声を押し殺しながら、大九さんが手をぐるぐるしていた。
「渡しますように、渡しますように、渡しますように……!」
祈りを捧げる壮大な踊りのようで、おもしろかった。
祈り。
おそろいの緊張と祈りで、この空間は満たされていた。
あっ。
匡くんが、忘れ物を、ゆっくり、ゆっくりと渡した。
錦戸さんの手のひらが、しっかり受け取る。ワッと岸本家の女性陣が、草太を取り囲んだ。
「草太、すごい!」
「この家で大丈夫なんは、草太だけやなあ〜」
「ほんまや、ほんま!」
それはもう、台本なのか、自然なのか、まったくわからなかった。固唾を飲んでいたのが、フッとほぐれて、おそろいの喜びに包まれる瞬間。
草太を永遠に追うカメラは、一秒もこぼすことなく、捉えていた。
わたしは、これがドラマの撮影だというのを忘れてしまった。
あとから教えてもらって知ったけど、錦戸さんはカメラに背を向けながら、草太以外にはわからないように「ちょうだいね」とほんの少し手を差し出していたらしい。美保純さんと同じ、即興のフリだ。
匡くんを子どもあつかいや素人あつかいしているのとは、ぜんぜん違う。だってそれは家族同士の、持ちつ持たれつで当前の、ささやかな手助けに見えたのだ。
岸本家だ。
これをできるのが、岸本家なんだ。
盛大に褒められてニコニコしている匡くんを見ながら、匡くんのお母さんが
「車のドアの音、大丈夫になってる。できることがこんなに、増えていくんですね……」
わずかに声を震わせていて、わたしも間もなく、そうなった。
撮影が終わったあと、七実こと河合さんと話した。
ぶっちゃけ、待ち時間やリテイクが多くなってしまうことを、どう思ってるのかを聞いた。だってずっと集中するのは、どう考えたって、しんどいから。
河合さんはまっすぐな眼差しで、即答した。
「いい演技が出る一瞬を、みんなで待つ。それでいいと思ってるし、この作品は、それがいいと思ってます」
言葉に、迷いがなかった。
「草太は……葵くんや匡くんは、どんどん良くなってるから、みんな甘えてる。わたしがいちばん甘えてるかも」
ぺろっと舌でも出しそうな茶目っ気で、河合さんが言った。そしてスキップで戻っていった。愛のある現場で、愛そのものが飛び跳ねている。
プロデューサーも、草太やミニ草太の役では、あまり演技やセリフを作り込みないようにしたそうだ。
「演技の上手さも大切だけど、それ以上に、“その人らしさ”が魅力なので……どう引き出すかは、僕たちが楽しく悩めるところですね」
彼らは“ダウン症らしい演技”で、選ばれたのではない。“その人らしさが放つ良さ”で、選ばれたのだ。
ダウン症の役者さんが、長く現場にいることで。
カメラの向け方が変わる。
演技の捉え方が変わる。
時間も手間もかかるだろうけど、良い空気が引き出され、二度とないライブ感にみんなが夢中になっていく。
ドラマ界における、第一歩。
大いなる、愉快な、第一歩だ。