ボケ続ける世界で生きてゆく(姉のはなむけ日記/第10話)
課題がポンポコと出てくる新しいグループホームに、弟を送り出してよいものか。
どんだけ悩んだって、朝はやってくるのである。
別府の朝だ。
ところで、別府の夜に巻き戻すと、こんな感じだった。
日本中のキッズたちを別府へと駆り立てる!夢の楽園!
杉乃井ホテルだ!
その設備のワンダーランド具合からそこそこお値段が張るのであるが、キナリ★マガジンの購読料をブッ込ませてもらった。やっててよかったキナリ★マガジン。腹が減っては車は買えぬ。
このブッフェの目玉は、カニ食べ放題。あまりの出血大サービスに、カニだって勘弁してくれと願ってる。
800席近い巨大なブッフェ会場には、どこもかしこも、家族たちが目を血走らせてカニを食べている。カニ以外のものを腹に入れてなるものかという己に課した制約すら見える。言っちゃ悪いけど、あんたらは本当にそこまでしてカニが食べたいのか。
「お食事中、すみませ〜ん!ちょっとお写真、いいですか?」
こ、こいつは……!
陽気なカメラマンだ!
「見て楽しんでいただくだけでも大丈夫でェ〜す!気に入ったら3,000円でご購入いただけます!」
陽気な営業カメラマンだ!
観光地によくいる、陽気な営業カメラマンだ!
カメラマンは、わたしたちの隣の卓にいる家族に声をかけていた。例に漏れずその家族も、無言でカニにありついていた。
皿には無数のカニ殻がうず高く積まれ、そびえ立っている。ひと仕事終えた海賊の見せしめのようだ。
「ハイッ!お写真はあす、朝食会場の前にてご覧いただけますので〜!」
メモのようなものを家族に渡すと、カメラマンは次の卓へと旅立っていった。
明日の朝、朝食会場の前に、貼り出されているのであろう。散らばった大量のカニ殻を前にし、引きつったポーズをとる家族の姿が。タイトルはさしづめ“欲の後先”だ。カニに飲まれし者は朝に絶望する。
その点、うちの弟はそこまでカニにお熱ではない。
陽気な営業カメラマンが来る頃には、きっとお育ちの良さがにじみ出るようなバランスの取れた一皿が……。
茶色ッッッ!
弟は茶色い食べ物をとにかく好む。欲望のままに取っていた。
母が弟の代わりに取っていた頃は、もうちょっとサラダの緑や、フルーツの黄色が添えられていた気がする。しかし母の思いやりむなしく、弟が目指した究極の一皿はこうだ。
「エビフライは一本でよくない?」
「いやっ!二本!」
かたくなに譲らなかった。
弟のなかには、海老フライはつがいで皿にのせてやらなければならない制約があるのだ。
いつかわたしがYoutuberよろしく弁当屋とコラボする時は、この皿を再現してやるからな……お前ひとりだけを不健康にはさせねえぞ……!
陽気な営業カメラマンに写真を撮られながら、誓った。
タイトルは“茶色い夢”。
買わなかった。
そして、腹いっぱいになり、ひとっ風呂浴びた、朝。
弟の独り言で目がさめた。
「……オネガイシマスッ……コレハ……ユルシテハイケマセンッ……」
えっ、なに?
「ツミヲ……ツグナイ、ナサイッ!」
なになに?
ずっと独り言をいいながら、服をたたんだり、手を洗ったり、準備をしている。脈絡なく飛び出てくる単語がものすごく怖い。
あまりに怖すぎて母にテレフォン使ったら
「あー、それ、午後のサスペンスドラマのセリフやわ」
弟が“湯けむりドクター華岡万里子の温泉事件簿”の熱心な視聴者であることを初めて知った。なぜサスペンスを。
「ハンニンハッ、アナタデスッ」
そういえば弟は、昔からよく独り言をいっていた。もがもがして、なんて言ってるかはほとんどわからなかったけど。いまはわかる。
あれはテレビドラマのマネだったんやね。ずっとそうやって、誰かと喋りたかったのかね。
今日は夕方まで、別府の街を散策することにしていた。
海地獄だ〜〜〜っ!
青い!眼を見張るほど青い!人工着色料は不使用!自然由来の成分です!
この湯けむりがすごいのである。
どこまで回り込めるのかなと気になって進んだら
「ナミチャーーーーーーーーンッ!」
と焦り散らかした様子で、弟が叫んで追いかけてきた。湯けむりドクター華岡万里子。姉はここにいるよ。
湯けむりドクターは、続いておとずれた、かまど地獄にて
手練の案内人のおじいさんから、手動で湯気を立たせる魔法を習った。
おじいさんからドライヤーと線香をうけとり、湖に向かって煙を送ると、ブワッと湯気が立つのだ。すごい。
あまりにすごいので、どこからともなく陽気なおばあさんがやってきて、カメラで写真を撮ってくれた。うれしいなあ。
写真は一枚1500円だった。
弟は「なんでやねんっ!」と笑った。
もちろん買わずに立ち去ることはできたが、いまもなお現役で動いているパソコンの遺物感に圧倒され、喜んで買ってしまった。
うれしいなあ。
「ごはんや虎太郎」さんのとり天定食。1,000円。安い。ちなみにカレーとカツカレーがどちらも1,000円だったので「これはお肉が違うんですか?」と聞くと「いんや。サービスでカツ乗せてるだけですわ」とおっしゃられたので、ある程度の徳を積んだ者しかたどりつけない慈悲の宮殿だと思う。
弟を見ると、
とり天にレモンをしぼっていた。
「レレレレレモン!?」
レモンをしぼる弟なんて、生まれてはじめて見た。弟はそういう酸味のあるものは、苦手じゃなかったか。どっちかっていうと、マヨネーズやラードなんかをかけたいやつじゃなかったか。
「姉ちゃんも、レモン、やる?」
しかも、相手の分までレモンをしぼっていいかを、ちゃんとたずねている。飲み会スキルが高い。一度も飲み会など行ったことがないはずなのに。
どこで覚えたんやろか。
「ビールほしいとか言わんよな?」
「ビール、おねがいしまっす」
「飲めんの!?」
「なんでやねん!」
弟が笑った。
さて。
別府駅の近くに戻ってきたら、やりたかったことがある。
竹瓦温泉の砂風呂だ。
温泉で蒸されたアッツアツの砂に埋められて、ドバドバと汗を出したい。
しかし、弟はサウナが苦手なのだ。
「あついけど、行く?」
「うん」
「お風呂じゃないで?」
「うん」
めずらしく弟が付き合ってくれるというので、これは弟の気が変わらないうちにとやってきた。
入浴料1500円を払い、浴衣に着替えて、砂場へいく。ビビるほど古い木造りで天井が高い建物の中に、真っ黒の砂が敷き詰められている。
浴衣のまま寝転ぶと、アッツアツの砂を、砂かけさんがワッシャー!とかけてくれるのだ。
わたしと弟は、並んで寝転んだ。
弟は険しい顔をしていた。
まず、わたしが埋まった。あったか〜い!きもちい〜い!
想像の20倍くらい、おも〜い!
「じゃあ次、お連れ様、砂をかけますね」
砂かけさんがスコップみたいなやつで、弟の上に砂を乗せる。
「アーーーーーーーッ!」
弟の断末魔が響いた。
弟は経験したことがないものを、言葉で理解することが難しい。そして、やってみるのも恐ろしい。遊園地の乗り物でも、直前まできて、乗れないと引き返すことが多々あった。
アツアツの砂をどっさりかけられるなんて、わかんねえもんな。
「すみません、かけるのはお腹だけにしといてください」
怯える弟の様子を見て、申し訳ないなと思いつつ、砂かけさんに伝えた。
弟が固まった。
ウンともスンとも言わなくなった。湯けむりドクター華岡万里子の温泉事件簿でいうところの死体役である。
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。