車を使わずにドライブスルーしはじめた時、母は希望を掴む
このnoteは、ひとつ前に書いたnote↓の後編です。
十五年前、母が長期入院をしていた話の続きである。
入院生活が長引けば長引くほど、母はちょっとずつ、ワガママになっていった。そして、お見舞いをドタキャンしたわたしに嫌味をぶちまけ、怒って電話を切ってしまったのだ。
ふだんは温和な母からは、考えられない豹変ぶり!
どうしてそんなことになってしまったのか、今になってやっと、当時の母の心境を知ることができたので、書いていく。
この曲がラジオから流れてきたとき、母は「そうそうそう!これこれこれ!この気持ちよ!」と大興奮した。かなしい大興奮だった。
十五年前に大動脈解離を起こし、開胸手術で一命をとりとめた母。
アジの開きみたいに成り果てた体の痛みを麻酔で散らしながら、生きているのがやっとの日々だった入院と。
そのあと床ずれで尻の傷が化膿したせいで、傷が塞がるまで安静を強いられた入院では、大きな違いがあった。
「なんでわたしはこんなに元気やのに、なんもできへんのやろう……」
そう、母はすこぶる元気だったのだ。
尻の傷はひどかったが、母は手術の後遺症で、下半身が完全にマヒしていた。痛みなどまるで感じない。麻酔すら使っていない。
傷がふさがるまでは、尻を圧迫することを固く禁じられた。
お見舞いやリハビリのちょっとの時間をのぞいて、座るのもダメ。車いすに乗るのもダメ。仰向けに寝るのもダメ。
一日中ずっと、横を向いたまま、尻を浮かせて寝ているだけ。
たまに看護師さんがドタドタとせわしなくやってきては「はいっ、せーの」と、競りにかけられた冷凍マグロのように母を右から左へ転がし、パタパタと走り去っていく。マグロはただ、腐るのを待つように転がるのみ。
今ならスマホがあるので、横になっていても映画やら、本やら、まだ気を紛らわせたかもしれないが、当時はガラケーである。パケ死、必至。
「テレビでも見よかな……」
おもしろくもなんともないが、ないよりはマシだ。母がテレビをぼんやり見ていると、突然ブツッと画面が暗転した。
プリペイドカードの残高が切れたのだ。
テレビを見るのにも金がいる。そして、すごい勢いで残高が減っていく。これは地味にきつい。母は観る気をなくしてしまった。
人類は原始から、洞窟の奥で焚き火を囲み、石槍を研ぎながら、おしゃべりをして暮らしていた。そうだ!おしゃべりだ!おしゃべりを楽しもう!
母は決して派手な人ではないが、猛烈な聞き上手なので、どこへ行ってもよく話しかけられる。おしゃべりに困ったことはない。
「あのう、今日はいい天気ですねえ。お布団がいらないくらい」
隣のベッドのおばあさんに、母は話しかけた。
「ほにゃろっぱ」
ほにゃろっぱ。
方言かと思ったが、何度聞いても、何を聞いても、ほにゃろっぱであった。おばあさんの頭には、でっかいボルトのようなものが横に貫通し、ヘルメットで固定されていた。
おばあさんはここではないどこかの楽園に意識を飛ばして生きているようで、夜になるとうなりながら、病室をルンタッタと歩き回っていた。
おしゃべりどころではない。
母は溜め息をついた。
頭もはっきりして、気分もいいのに、病室から動けなくて、やることもない。そのことがこんなにもしんどいとは、母は想像もしていなかった。
「わたしは過労で倒れたのに、休むのがこんなにシンドイなんてなあ」
ほにゃろっぱのおばあさんですら、リハビリに出かけていくのを見ると、なんの努力もしてない自分が、ものすごくダメな存在に思えてくる。
「あかん、あかん!わたしはいま、体を治すのが仕事なんやから……」
母は何度も思い直したが、着実に心が腐りかけていた。
そんな母が待ち望む、唯一の希望が。
娘、つまりは、わたしのお見舞いだった。
看護師さんは母を患者として見るし、おばあさんは母をほにゃろっぱとして見る。わたしだけが母を、変わらず母として見る。
毎日、自尊心をゴリゴリに削られてる母は、辛うじてそれで自尊心の削りカスをかき集め、取り戻していた。
わたしがお見舞いに来る日は、朝5時ぐらいにワクワクして、目が覚めたらしい。わたしが座るパイプ椅子をチラチラと、何度も確認して。
やがて、高校の授業が終わったわたしが、制服のまま病室にやってくる。
その姿は母にとって、菩薩の降臨のごとき眩しさだった。菩薩がアツアツのどん兵衛を持ってくるものだから、宗教画として保存されうるほどの感激である。
食が細くて毎日のように看護師さんから
「きーしーだーさーん!あーっ、また残してはるうー」
などと間延びしたお小言を散々いわれる母だったが、わたしの前では
「奈美ちゃんが来てくれた日はな、なんぼでも食べれるねん」
と大見得を切って、どん兵衛を、それはもうズルズルいった。
しかし、楽しい時間は一瞬にして過ぎ去る。
わたしが「ほな、また来るね」と席を立つと、母は精一杯の笑顔で見送る。本当は行かんといてと、泣いて叫びたかった。
その瞬間から、母の地獄の幕が上がる。
少し開いた窓から、ドブ川の生臭さが漂ってくる。さしこむ夕陽の明るさが、憎らしさのピークだ。ゆっくり日が落ちていくと、ドン底の底まで気分もつられて落下する。気づかないうちに流れる涙が、枕に染み込んでいき、張り付いた髪の毛が気持ち悪い。
声をあげて泣きたくとも、おばあさんの唸り声や歯ぎしりに押し負ける。
翌朝の採血を迎えるまでの10時間が、母にとっては永遠だった。
冒頭の歌は、こう続く。
まさに母は、地獄でわたしを待っていた。
夜の間に、自分の心にたまったヘドロのような孤独は、昼に家族へ向けて噴出する。けれど、出しても、出しても、追いつかない。
蓄積された孤独が、母を変えていった。
「今日もどん兵衛が食べたい」
「リハビリの時はBEAMSの新作Tシャツを着たい」
「みかんのいっぱい入ったゼリーをいっぱい買ってきて」
わたしにとっては日に日に増えていくワガママだったが、母にとっては外と繋がっていたい、大切にされたいという切望だった。
頼まれたなにかを探している間、病院の外でもわたしは、母のことを大切に考えているのだから。
残念なことに、人は甘えれば甘えるほど、慣れて転じて「もっともっと!」と相手に求めるようになってしまう弱い生き物なのだ。
「ごめん。来週から試験もあるし、今日はそっち行かんでもいい?」
わたしが母に何気なく告げたドタキャンは、母の頭を真っ白にさせた。
電話で言い争いになり、わたしがついに吐き出してしまった
「こっちだって疲れてるんやから、わかってくれたっていいやん!」
という言い分を聞いて、母は思った。
“わたしだって悲しいんやから、わかってくれたっていいやん……”
悲しさを紛らわせる他の手段を、ベッドの上で寝転がるだけの母は持ち合わせていなかった。たったひとつの手段を、無残に握りつぶされたのだ。
それで母は泣いて怒って、わたしとの電話を切ったというわけである。
大喧嘩に終わったその晩、母は、地獄の底で考えた。
「わたしはもう一生、歩かれへん。料理もできへん、仕事もできへん。それだけでも生きてる意味ないのに、最愛の娘にまで当たり散らしてしまった。もうあかん……!」
ワガママになっているのは、母も頭のどこかでわかっていた。だけど止められなかった。抱えている孤独が大きすぎて。
最初はお見舞いに来てくれるだけで、母は嬉しかったのに。
いつの間にか心待ちにしすぎて、ちょっとでもお見舞いの到着が遅れるだけでも悲しくなってしまった。自分を蔑ろにされたような気がするからだ。後ろ向きな思考に、母は支配されていた。
「奈美ちゃんに“希望”を寄せすぎたんが、よくなかった。そんなん背負わされたら、あの子もかわいそうや。わたしはわたしで“希望”を作るんや!」
期待は、裏切りの始まりである。
相手に悪意がなくとも、自分の期待レベルが上がれば上がるほど、思うような結果が返ってこないだけで「裏切られた!」と、勝手にガッカリさせられてしまう。
相手が「ウッカリしてた」ぐらいのミスに、吐血するほどの大ダメージをくらってしまう。
余裕がないときほど期待は大きくなり、ガッカリも大きくなる。
もともとわたしは、だらしなくて、飽きっぽくて、気分屋である。そんなわたしの行動に、生きるか死ぬかの一喜一憂をゆだねていては、みんなが不幸になると母は悟ったのである。えらい。とてもえらい。
翌日から母は、自分で希望を作ることにした。
誰にも左右されない、自分だけの希望を。
結論から言うと、車いすのままマクドナルドのドライブスルーに行った。
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