長いこと入院すると、母は知らない人になる
入院というのは、人をここまで豹変させるのかと、恐れ慄いたことがある。
15年前、母が大学病院で入院していた。
重たい心臓病をいきなり発症し、手術で一命をとりとめたものの、下半身に麻痺が麻痺し、さらには病院のベッドで床ずれを患ったため、1年半も入院が長引いてしまった。
明るくて温和な母も、さすがにこたえて溜め息をついていた。
「奈美ちゃん、ごめんなァ……。もうすぐ誕生日やのに、ご飯もなんも作ってあげれへんくて」
「ええねん。オカンとな、喋れるだけで楽しいから」
「お見舞いも毎日来てもろてるけど、しんどくないん?」
「帰りに本屋さんよれるし、ちょうどええよ」
ネガティブエンジンを搭載した母の質問に、なにかと理由をつけ、遠慮させないように返した。一応、本音ではあった。
「ごめんなァ……」
どこかホッとしたような苦笑いをしていた母。
「ほな明日、スタバでコーヒー買ってきてくれへん?」
お安い御用だった。
ところがやがて、聞いたことのない数々の御用が、繰り出されるようになった。
「どん兵衛が食べたい」
食欲がないのか、母は病院の食事を残しがちだった。白米の茶碗を食べきったのは見たことない。
床ずれは皮膚が弱るとなりやすいので、いっぱい食べて、尻に肉をつけなければならないというのに。
その母が、どん兵衛なら食べられるというのだ。
コンビニで買ったどん兵衛にお湯を入れて、持っていくと、母は「ギャーッ!これこれ!」なんて子どものような歓声をあげてズルズルいった。完食。
次の日も、その次の日も、母は涙目で言った。
「今日はどん兵衛、ある?」
母はもともと、栄養管理にはかなり厳しい方だ。体に悪いものや、油っこいものは苦手で、手を出さない。好物は、シソとゆず大根。
その母が、どん兵衛に侵されたのだ。
「どん兵衛を食べるのはええけど、病院の食事はどうするん」
「……奈美ちゃん、食べて帰ったら?」
病院の食事が母のベッドに運ばれてきたら、ジャッとカーテンを引いて、わたしが母の病院食を、母はどん兵衛を、コソコソと急いでたいらげる。そんで完食したら、ジャッとカーテンを開ける。イリュージョン。
太り気味だったわたしは、2キロほど健康的に痩せた。
それからも「リハビリするときに着るTシャツは、BEAMSのやつがいい」とか、「差し入れのおにぎりは、家で握ってきてほしい。具は梅とカツオね」と母は言った。
ようするに、ワガママになっていったのだ。
なにごとも遠慮がちだった母らしくないなァと思ってはいたが、
「はいッ。梅とカツオのおにぎり。題して、ウメミヤカツオや!」
と、わたしがせっせと握って持っていくだけで
「天才や……わたしは天才の娘を産んだんや……!」
などと母が泣いて大喜びするので、悪い気はしなかった。
もう二度と歩けなくなってしまった母が、生きるのをやめてしまうことが、なにより怖かった。病室で母を喜ばせられている間は、生きる希望を繋げられているようで、ホッとしていた。
わたしは高校の授業が終わってから、お見舞いへ行っていた。
高校から駅までは“白馬ジャンプ競技場か”と思うぐらい急な坂道を20分かけて歩き、座れない電車に40分乗って、得体のしれない黒くて大きな魚がミッチミチに群れている川沿いを歩き、やっと母の病院へ着く。
これをほぼ、毎日。
終わったら、1時間半かけて家に帰るのだ。
母を見舞うのは楽しかったが、一年も経つと「今日はちょっと、行くの面倒やな……」と思う日も増えた。申し訳ないけども。
だって、高校二年生なのだ。
忌々しい先輩どもが受験勉強で忙しくなった今、駅前のミスドを友だちと占拠できるようになったし。文化祭では屋台を出すし。なんか、サッカー部のイケてるくせに優しい茶髪の男子と、委員になれたし。
高校で一番、気楽で楽しいシーズンに突入した。
そんなとき、フッと、あの川にいるミッチミチの大魚の生臭さが、鼻をつく。病院の廊下をウーウーうなりながら徘徊する、知らない老人の暗さを思い出す。
15分、30分、1時間……。病室に着くのが遅れはじめた。
そして、ついに。
「ごめん。来週から試験もあるし、今日はそっち行かんでもいい?」
遅れに遅れたあげく、ドタキャンした。
母なら許してくれると思った。
だって母は、わたしが学校のことを楽しそうに話すと、安心したみたいに喜んでくれたから。試験のことも心配してくれていたから。
ところが、電話の向こうの声は重かった。
「ちょっとぐらい、来れへん?」
「いや……もう遅いし、家に帰る方の駅まで来ちゃったし」
「なんでよ。奈美ちゃんのこと、ずっと待ってたのに」
恨みがましい声に、なんだかカチンときた。
「こっちだって疲れてるんやから、わかってくれたっていいやん」
ふてくされて、強めに言い返した。
こういう時、折れるのは母のはずだった。いつもなら。
「奈美ちゃんは、どこにでも行けるから。わたしが今、どんなに悲しくて、ショックかなんて、わからへんよね。そうやんね」
「は、はあ?」
母はグスグスと泣いていた。こんな言い方をされるのは初めてで、わたしはびっくりしてしまう。
「わかってくれると思ってたのに!」
プツン、ツー、ツー……。
嘆いたような、怒ったような母の声を最後に、電話は切れた。
わたしは呆然としていた。戸惑いつつも、ちょっとイライラしていた。今まで母が、わたしを責めることなど滅多になかったのだ。
いつもわたしの味方でいてくれたし、わたしの悲しみにも寄り添ってくれた。父が亡くなってからは一層、わたしの体調には気をつかって、学校や習い事を休むのも甘めに見てくれた。
その母が、こんなヒステリックに取り乱して、わたしを責めるとは。
電車に揺られながら、山の向こうに落ちていく夕陽を見た。この夕陽を、母は今、たった一人で見ているのだ。無性に悲しくなったが、今さら引き返すのも、謝るのも嫌で、ずっとケータイを握っていた。
翌日は土曜で、昼から母の病室へ行った。おそるおそる。
ベッドの上で上半身を起こして座っていたのは、いつも通りの母だった。昨日の言い争いなどまるでなかったように、喜んで迎えてくれた。
テーブルの上には、マクドナルドの紙袋が置いてあった。
「だれか来たん?」
……聞きたかったが、やめた。
まだ気まずかったので、わたしの口数は少ない。
わたしはあらかじめ「お見舞いに行けない日」を決め、伝えるようにした。野暮用で遅れてしまう日もあるが、素直に謝った。
泣いて怒って取り乱す母をもう見たくなかったが、後にも先にもあんなことになったのは、あれ一回だけである。
一時退院するとワガママはピタリとなくなり、風邪をひいた時みたいにしおらしい母になったので、長期入院ってのは、家族であっても見たことない姿に豹変させてしまうんだなぁ……と震えた。
ところで、ある日を境に、母の病室にマクドナルドの紙袋が出現する頻度が増え、明らかに母が元気になっていったのだが、紙袋の出処をわたしが知ったのは15年経った今……というか、つい 4日前のことだった。
(真相は、明日のnoteにつづく)