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おもしろい文章を書くには、病まないとダメなのかー 村上春樹「海辺のカフカ」を読んで

以前、エッセイ「猫を棄てる」で、村上春樹さんの作品をはじめて読んで、「風はいつか雨になるし、親は子どもに傷を託す」という読書感想文をnoteで書きました。

村上春樹さんという、書いても書いても書ききれないくらいすばらしい作家についてもっと知りたいだけじゃなく、わたしは好きな人が読んでいる好きな本を教えてもらうことで、仲がずっと深まると思っているので、今回はその両方を欲張りヴァイキングしたくて。

デデ〜〜〜〜ン!


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広告クリエイティブの株式会社カラス・代表 牧野 圭太(まきの けいた)さんに登場してもらいました。

「ブランドと社会を紐づける」コミュニケーションを広げるために、スクールを企画したり、深夜にハッピー爆薬庫みたいなツイートをしていらっしゃる、意外とローテンションでおもしろい人です。(好きがあふれておかしな説明になっておりごめんなさい)

牧野さんが選んでくれた本は「海辺のカフカ(新潮文庫)」。

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「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」そう言われた少年・カフカくんが、家出して知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らしながら、不思議な世界の交錯に巻き込まれていく話。

もちろん、わたしははじめて読みました。「猫を棄てる」以外、村上作品を読んだことがないので、これはわたしの村上作品をめぐる物語でもあります。

マッドハルキストという恐ろしい自称をする牧野さんと、たっぷり一時間ほど話したので、ぜひVoicyを聴いてみてください。聴いてくれ。お願い。再生回数少なかったら、連載終わっちゃう。頼む。もっと読みたい。


noteでは、Voicyで話したような、話さなかったような、ちょっとした内容を少し。


海辺のカフカ、展開がさっぱりわからんかったが心にブッ刺さって抜けない

海辺のカフカを読み終えて、わたしが思ったことは「よくわかんね〜〜〜〜〜!!!!!!」でした。

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いや、書いてあることはわかんのよ。

ただ、なんでそんな展開になるのか、さっぱりわからん。急にヤッベエサイコパスな紳士が死ぬし、カーネルサンダースが喋りだすし、口からデッケェ生き物がニュルンッて出てくるし、主人公はめちゃくちゃ勃起してる。ただひとつ確かなこと、それはナカタさんがカワイイということ。

「海辺のカフカ」を読んだあと、あらすじ教えてって言われてわたしの口から説明しても、なんかもう「風邪で高熱出てるときに見る夢」の話にしか聞こえない。わたしの読解力のなさが物語に致命傷を負わせている。メタファーに翻弄されている。


わたしが説明するとそうなるんだけど、村上春樹さんが言葉にして書くと、なんかこう、物語としてスルッスル読めるんだわ。本当にすごいよ。


だけど、本全体としてはよくわかんなくても、行単位あるいはページ単位で、心の奥の奥にブッ刺さって、脳天がしびれるほど「わかる!!!!!!!!!!!!!!」ってなる一撃が、この本にはたくさん含まれている。

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ちなみにわたしは、こんだけブッ刺さった。このたった二ヶ月間でも、折に触れて、何度も何度も読み返している。

これ、村上作品を読んだ人には共通している感覚だと思うんだけど、どうかな。


物語は乗り物だから、いま自分が欲している言葉に目がいく

村上春樹さんは「職業としての小説家」で、こんなことを言っている。

僕は思うのですが、小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではないようです。

ある種の小説なり物語を理解できない――あるいは理解できたとしても、その理解を有効に言語化・論理化できない。

つまり物語というスローペースなvehicle(乗り物)に、うまく身体性を合わせていくことができないのです。

物語を理解しきれなかったわたしは頭が切れるっていうか、ここんとこずっと「わかりやすい物語」に触れすぎていたんだな、って愕然としたのだけど。

村上さんは小説における物語を「乗り物」と言っていて。これは、なるほどなあって。

作者が思ってることや伝えたいことといった「行き先」は、運転している作者にしかわからない。わたしたち読者は、乗り物に乗って、どうなるかわからない疾走の旅路に混乱しながらも、思い思いに窓から見える景色へ意味をつけたりするのかなって。そこにこそ小説の楽しみ方があって、物語を正しく理解できるかは重要じゃないのかもしれない。

ほら、その時の感情によって、窓の外を見て目につくものって違うじゃないですか。お腹減ってたらケンタッキーの看板が目につくし、都会に疲れていたら遠くの森林が目につく。

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そんなわけで、「海辺のカフカ」を読んでわたしにブッ刺さった箇所っていうのは、いまのわたしが心から欲していた言葉なんだろうなと思った。

牧野さんも「読むたびに感動するシーンが変わる」って言ってたから。

村上作品を読むってのは、自分が本当に悩んでいることに気づける、心の試薬みたいなもの。もうライフハックじゃん。


静かな怒りと苦しみが刺さって、源泉にたどりついた

「海辺のカフカ」を読んだ人なら、誰もが好きになるであろう登場人物・図書館司書の大島さん。

彼はとある理由から差別や押しつけを嫌っているのだけど、3ページにもわたって綴られる、彼の静かな怒りに圧倒される。

差別されるのがどういうことなのか、どれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。

ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う「うつろな人間たち」だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回ってる人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押し付けようとする人間だ。

過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。

もう、これ、日本中の空間に刻みたい。特殊な塗料で常に人間の目線の高さへ浮かべておいてほしいし、Twitterでも常時表示させてほしい。

大島さんの語りは「僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやりすごしてしまうことができない」で締めくくられる。大島さんの怒り、美しい矜持、それを保つために抱えてしまう生きづらさ、すべてが込められている。


大島さんの言葉が刺さるってことは、わたしも、怒っているんだろう。


以前、編集者さんから言われたことがある。

「岸田さんのエッセイは、おもしろおかしく語られているけど、それは耐えようのない怒りや苦しみから始まっているよね」

無自覚だったけど、図星だった。

きっとわたしは、怒って、苦しんでいるのだ。障害のある家族を持ち、父を亡くし、模範的な社会人として必要な才能を持ちあわせておらず、運の悪いことばかり起き、それゆえにぶち当たってきた、思い込みや押しつけといった社会の壁に。

怒りや苦しみをそのままぶつけることは性にあっていなかったので、心のままにおもしろおかしく書いていた。でも源泉はたしかに、怒りと苦しみだ。


おもしろい作品を書く人は、病んでなければならないのか

怒りや苦しみは、創作を生み出す強烈なエネルギーだ。伝えたいことが多いほど、伝わらない人が身の回りに多いほど、言葉にしようともがく。そうして生まれた言葉や物語は、息を飲むほどに鮮やかな色彩を放つ。

「作家が病んでいる方が、作品はおもしろい」なんて言う人もいるくらいだ。わかりたくないけど、ちょっとだけ、わかる。

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なら、作家としてわたしは、このまま病み続けた方がいいんだろうか?

なんとなく、ちょっと、違う気がしている。わたしの書く原動力が、怒りと苦しみのままじゃ、長く続かないはずだ。だって、怒りと苦しみは、いつか疲れて枯れてしまうから。

「怒っていないとだめ」「苦しんでいないとだめ」
そんな重りを、これから先も一生、自分の肩に乗っけてしまうから。

最近ですらわたしは、もっと病まないと、もっと追い込まないと、だれもわたしの言葉を読んでくれないんじゃないかという偽物の恐怖に追われた。


わたしが文章を書きたい理由は、怒りを理解してもらうことじゃない。自分を含めた好きな人たちに、好きのおすそわけをしたいのだ。


やらなくちゃならないのは、ゆるすことなんだ

「海辺のカフカ」には、そんなわたしを救う言葉がまだ散りばめられている。


主人公の僕は、自身に呪いともいえる傷を残した母親や父親に、戸惑いと怒りを感じている。っていうか主人公、最初からほぼ最後まで、家族にメチャクチャ翻弄されて、精神的に参ってる。普通にかわいそう。

根負けしそうな主人公は、佐伯さんという信頼のおける女性に、こんな強さを願うのだ。

「僕がほしいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解――そういうものごとに静かに耐えていくための強さです」

ちなみに佐伯さんからは「それはたぶん、手に入れるのがいちばん難しい種類の強さでしょうね」とド正論で返される。つらい。泣いちゃう。


わたしだって、それくらいの強さがほしい。わたしが今までおもしろおかしい文章を書いているのは、耐えているとも言えるかもしれない。


でも、耐えるというのは、いつか限界がきてしまうのだ。この世のすべてがそれを証明している。どんな結界も最後には破られる。


耐えたいと願う主人公を、彼にずっと寄り添って旅をする少年・カラスが、まっすぐ諭してくれるのだ。

「そうだな、君がやらなくちゃならないのは、たぶん君の中にある恐怖と怒りを乗り越えていくことだ

カラス、よく言ってくれた。その言葉がほしかった。

カラスってチェコ語でカフカって言うんだよ。だからこの小説のタイトルはカフカなんだ。さすがタイトルになってるだけあるよ。

わけのわからん物語の最後で、「恐怖と怒りを乗り越えていく」という、最高にわけのわかる言葉を、カラスは残してくれた。

じゃあ、どう乗り越えたらいいのか。カラスは、主人公の怒りにこうして寄り添う。

「いいかい、君の母親の中にもやはり激しい恐怖と怒りがあったんだ。今の君と同じようにね。君がやらなくちゃならないのはそんな彼女の心を理解し、受け入れることなんだ。彼女がそのときに感じていた圧倒的な恐怖と怒りを理解し、自分のこととして受け入れるんだ。それを継承し反復するんじゃなくてね

「言いかえれば、君は彼女をゆるさなくちゃいけない。それはもちろん簡単なことじゃない。でもそうしなくちゃいけない。それが君にとっての唯一の救いになる

カラスッ………!!!!!!!!


わたしは、ゆるさなければいけないのだ。ゆるすためになら、文章を書き続けていられる。自分の文章に、救われ続けることができる。



芸術家は病みながらも、健常でなくてはならない

村上春樹、河合隼雄に会いに行く(新潮文庫)」という対談集で、村上さんと河合さんは、こんな言葉を残してくれている。

河合「人間はある意味では全員病人であると言えるし、またいわゆる病んでる人であっても、それを表現するだけの力がないと形になってこないんです。病んでる人の場合は、疲れとか恐ろしさとか、そういうのがダーッと出るばかりで、物語にまでなかなかなってこないということもあります」

村上「芸術家、クリエートする人間というのも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?」

河合「もちろんそうです」

村上「それにプラスして、健常でなくてはならないのですね

河合「それは表現という形にする力を持っていないとだめだ、ということになるでしょうね。(中略)芸術家の人は、時代の病いとか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう。ですから、個人的に病みつつも、個人的な病いをちょっと越えるということでしょう。個人的な病いを越えた、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで、その人の表現が普遍性を持ってくるのです」

そもそも、人間は作家に限らず、誰しもが病んでいる。この対談では、病んでいる人の言葉にはやはり迫力があり、健常な人が書くものは逸脱がないと書いてあるけど、だからって、作家自身が病み続ける必要はないと言っている。

自分のなかに、怒りや苦しみがあっても、それをゆるさなければ、きっとわたしは幸せになれない。だけど、ゆるした先では、見えてくる景色も、書きたくなることも、違ってくるんだろう。

それはゆるせたからこそ見定められる時代や文化の病いであったり、幸せのなかで見つけられたものであったりするのかもしれない。


「海辺のカフカ」を読んで、牧野圭太さんと語って、最後にはまた編集者さんと話した。

彼は「本当に幸せな人が書く文章こそ、人を幸せにできる力が宿ると思うんだよね。岸田さんにはそうなってほしい」と言った。わたしもそうなりたい。


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岸田奈美|NamiKishida
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。

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