げにすばらしきプロフィールの世界
書きとうない。もうプロフィールを書きとうない。
イベントに出演するたび、どこかへ原稿を寄せるたびに聞かれる。プロフィールをくださいと。
はいはいちょっと待ってね、プロフィールね。ええっとどこにあったからしら、はいはい、これね。あらまっ、ちょっとこれ古いわね。新しい本も出したし、こういう賞もいただいたし、そうだそうだ、この役職は変わったんだったわ。
いろんなことが気になって書き直すのだが、
「わたし、これ、調子に乗ってない……?」
と思った瞬間に手が止まる。頭を抱えたくなる。普段、アホなことやバカなことをパッパラパーに書いてるだけなのに、つらつらと真面目で完結な肩書や活動を文字にして見ると、なぜか恥ずかしくなってくる。受賞歴なんてドヤ顔もドヤ顔でどやさどやさ(今くるよ師匠)以外のなにものでもない。
ヘヘッ、マァ、おもんないことをヤイヤイと言うてますけども、ジブン、中身はこんなひょうきなんで、ウッス……とか付け加えたいのにそれができない。
「神戸出身」すらも、なんか鼻につくんじゃないかとすら思えてきた。北区なのに。海も船も見えやしない、北区の民なのに。しかし「神戸市北区出身」とまで書くのもどうなんだ。森に囲まれた国の住人としての強めの思想を感じさせてしまう。悲しみと〜怒〜りに〜ひ〜そむ〜真の心〜を知〜る〜は〜……。
そもそも名乗りというのは、平安時代から鎌倉時代までの作法だ。
「やあやあ、我こそは」
から始まるアレだ。
幼かった岸田少女は、祖父が見る時代劇の合戦シーンを見るたびに「なんでこれを言うとる隙に矢で射たへんの、アホちゃうか」と言っていた。祖父は目の玉をひん剥きながらわたしに失望していた。
その祖父がアニメ・美少女戦士セーラームーンに「は〜、こんな大層な変身しとる間に攻撃されるで。パッと着替えんかい、パッと」と言って、今度はわたしが祖父と同じ表情をした。理解と無理解は紙一重である。
合戦で名乗りが必要だったのは、誰が誰を討ち取ったかを明らかにするためと言われている。討ち取った相手が大物だと、東京フレンドパークでいうところのパジェロ並の恩賞がもらえるので、「俺やぞ!ここ仕切ってんのは俺やからな!みんなわかったか、俺やぞ!」と示しておくのだ。パジェロのために。
つまり、誰が誰であるかを示すには、最低限名乗りと同じ要素があればいい。「出身・名前・来た動機・目的」だ。「我こそは〜の住人、〜なり!〜なので、〜しに参った!」という文脈になる。
わたしであれば
「やあやあ我こそは、神戸の住人、岸田奈美なり!呼ばれたので喋りに参った!」
イベントやらなんやらの前にマイクを引っ掴んでこれを言えばいい。しかし現代には情報があふれすぎた。あふれすぎた結果、人々が求める情報の量も多くなった。これだけではポカーンとされてしまう。誰やねんと言われてしまう。名乗っとるがな、話のわからんやつやな。ちくしょう、ここが令和でなければ。
わたしが苦手なのは、自分のプロフィールを書く行為だけではない。他人のプロフィールを書くのだ。
他人の場合「恥ずかしい」という気持ちはなくなるが、「気持ち悪いと思われるんではなかろうか」という不安にさいなまれる。
相手のことが好きであればあるほど、あれも、これも、と栄光を詰め込んでしまう。わかりやすい栄光だけでは足りず「ファン垂涎ものの細かすぎる魅力や小ネタ」なども引っ張り出して書いてしまい、もちろん文字数を500文字近くオーバーするので、泣く泣く削るがどこから削ったらいいかがわからない。これは気持ち悪い。好意とプレッシャーの狭間で判断力がお亡くなりになる。
もういやや。
プロフィールなんか書きとうないし、読みとうない。
魂の練度が低い嘆きをこの世に放ち続けていたが、
ヘラルボニーのWEBページを見て、脳天に雷撃が落ちた。
ヘラルボニー 公式オンラインストア https://heralbony.com/
ヘラルボニーについては何度もnoteで書いているし、もうあかんわ日記の表紙に採用させてもらったし、あらゆるメディアで見かけまくるのでご存知の人も多いだろうけど、障害のあるアーティストの“異彩を放つ”アートプロジェクト会社だ。
プロダクトもいいし、代表の松田兄弟(このnoteのサムネイル写真が松田崇弥氏)のストーリーも熱いし、なんせ関わるスタッフのみなさんの魂の練度が高すぎるので、わたしはヘラルボニーを愛してやまない。
今日も今日とて、新製品のアートボトルをせっせと買い込もうとしていた時である。
「うわっ、これカラフルでええなあ!この人の作品のやつ、持ってないし……へえ、岡部さんっていうんや。おっ、下にプロフィールもあるやん、どれどれ」
「えっ」
「なんて?」
なんだかよくわからんけど、すごい……すごいパワーを感じる言葉が並んでいる……気がついたらこの「削り残したカス」であるアートボトルをカートに入れていた。
もっと……もっと見たい……。
それからはもう、止まらなかった。
これは佐々木早苗のアートがプリントされたエコバッグ。びっしりと呻く尽くされる黒い丸は、すべて手書きで、ひとつして同じ形がない。
そんな佐々木さんのプロフィールを見ると。
怒涛の集中力とスピード感に納得である。「不意にやめるんかい!」と言ってしまうけれど、同時に超かっこいいオチまでついている。
これは小林覚さんのアートスカーフ。よく見れば数字になっていて、見ているだけで楽しい。
プロフィールの冒頭からこんなにも「好きなもの」が並ぶことがあるだろうか。思わずニッコリしてしまう。そして、プロフィールのはずが「重要な登場人物」が出てくる。学校の先生である。学校の先生のムーブがナイスすぎる。
言葉では表現しづらい独特なアートの世界を、アーティストの感性とともに美しく表現しているプロフィールもある。
これは、GAKUさんのアートスカーフ。ビビッドなピンクがヘラルボニーが扱ってきたプロダクトの中ではかなり珍しい色使い。
言語を介さない独自の特殊な世界観、左脳を排除した右脳だけの世界で……!
障害の説明になっているのだが、とてつもなく端的でかっこいいし、なにより作品への納得性と深みが増す。アートに疎いわたしですら、彼のメッセージを絵のなかに探しはじめてしまう。
これは工藤みどりさんの作品の扇子。この形の扇子、スタイリッシュでいいよね。
工藤みどりさんのプロフィールについては、文才が大爆発している。もはや詩である。
文章を書く人間として嫉妬してしまう。何度も声に出して読みたい。
「心を満たす幸福なイメージが浮かぶのか。それとも痛みや悲しみを心に映さないようにするためなのか」
これは、本人が語った言葉ではない。これを書いたヘラルボニーのスタッフが憶測で書いた言葉だ。プロフィールに「本人の断定がない説明」を書くなんて、前代未聞である。
でも、同じクリエイターとして、これほどまでに作品とアーティストへのリスペクト、深い洞察をもらえたら、そりゃあもう嬉しいよなと強く思う。
愛しくなる。
プロフィールを見ていると、彼ら彼女らが歩んできた人生、関わってきた人々、そしてアートが生まれた必然の運命が、まぶたのスクリーンに映し出される。愛と知性がある人ならば、拍手喝采をこらえずにいられない。
ヘラルボニーと契約しているアーティストのみなさんは、自分で自分のことをうまく説明できる人もいるし、できない人もいる。まったく喋らない人がいるとも聞いた。
だから、基本的に、スタッフが代わりに書いている。
プロフィールを他人が書くことは、とても難しい。先述のわたしのような事態になる。しかも、障害のある人について書くときは、なおさら難しいとわたしは思う。
障害や病気についての表記は、どうやったってセンシティブな印象がつきまとう。「◯◯できない、という言葉はよくないかも」「これを書くと傷つけてしまうかも」「気を使いすぎてもふわっとして伝わらない」など、様々な考えと行き過ぎたリスクヘッジが駆け巡る。
ヘラルボニーのアーティストのプロフィールは「最低限の必要事項」と「最大限の不必要事項」からできている。
不必要というのは、「作家の身元を示すため」にはいらないとされるデータだ。どそれこそ、彼らにとって「最高の必要事項」などだと思う。
身元を示すとか、権威を示すとか、そんな常識で彼らは動いていない。
ただひとつの彼ららしい基準は。
「愛すべきアーティストが愛されるために必要かどうか」だ。プロフィールの常識なんか関係ない。
知らんよ。わたしこれ、勝手に言うとるのよ。でもそうだと思うんよ。
スタッフは、アーティストの生き様を、異彩を、作品を、心から尊敬して、愛している。愛しているから、その愛を世に広げ、相応の対価と賞賛を求める。
わたしのような、アートに疎い人間もいるなかで、どうすればアーティストの魅力が伝わるのかを考える。
魅力を作ってるんじゃなくて、伝えてるわけ。
そのためにまず、アーティスト自身のストーリーや、視点を知る必要があって。これって超絶に根気のいる作業なのです。
わたしだって、大多数の人間とはちょっと違う視点と感性と習慣のなかで生きている弟について知るのに、20年以上かかってる。弟が余すことなく自分で喋ってくれる存在だったら、1分でわかったことを、20年かけて気づかされている。
じっくり、じっくり、アーティストさんのそばにいたんだろうなと。あるいは、そばにいる人の、そばにいたんだろうなと。プロフィールを読むだけでしみじみと思う。
ただ、
「削りカスをあつめてできた塊こそが本当の作品」
は、そばにいるだけで見えてくる個性じゃない。なぜならば、人はリラックスしている状況じゃないと、没頭できないから。「笑われない、馬鹿にされない、戸惑われない」という絶対的な信頼がないと、のびのびと癖を出せないから。
弟もそうだ。気に入らない人がいるところでは、いつものようにおどけず、地蔵のようにじっと黙って座っている。
ヘラルボニーのアーティストさんも、自分も押し殺さず、さらけ出している。魑魅魍魎が跋扈するこの世界で、それは何にも代えがたい福音である。
言葉で語られないものを見せる人がいて、それを言葉で伝える人がいる。この関係性がプロフィールから透けて見えて「こんなもん、好きにならん方がおかしいやろがい」と涙ながらに一生推すことを決めた。
いいプロフィールを書ける人は、いい関係を築けている人だ。
プロフィールを読めば、それがわかる。自分について書くときも、自分といい関係を築けているか。そこに少しでも「実物以上によく見られたい」という自分への不信感があると、ガッタガタになってしまう。
いい関係を築けているプロフィールは、たかが100文字であろうと、100年ものストーリーを想像させる。愛があふれてくる。
それに気がついたとき、わたしが始めるべきは、合戦を始める名乗りでも、絶妙に鼻につかないラインを騙し騙し探る文章制作でもなく、しょうもない恥じらいを持つわたしも含めて、きちんとわたしを見ることだと知った。プロフィールは魂の修行だ。なにを言うてるのかわからんくなってきた。とにかく頑張る。
以下、キナリ★マガジンの読者さんだけに先に公開するマル秘プロジェクト…
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新作を月4本+過去作400本以上が読み放題。岸田家の収入の9割を占める、生きてゆくための恥さらしマガジン。購読してくださる皆さんは遠い親戚…
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。