
しげると、すすむと、折れない鶴(前編)
忘れかけていた、というより、忘れたかった記憶がフッと戻ってきた。
弟がまだ幼かったときのことだ。
「プールな、いくねん、プール!」
何時間でも水で遊ぶのが大好きな弟が、週末に出かけるという。
ガイドヘルプという福祉の制度をつかうと、ヘルパーさんが付き添ってくれるのだ。それなら弟につきっきりだった母も、家でゆっくり休める。
それはそれはもう大喜びの弟は、水着とタオルの入ったビニールバッグを抱え、サンバのリズムで踊っていた。
迎えにきたのは、初めて見るヘルパーさんだった。21とか22歳ぐらいの、おとなしそうなお兄さん。
ルンルンで出かけたはずだったのに。
思ったよりもはやく帰ってきた弟の顔は、ズーンと曇っていた。今にも泣きそうにうつむいている。母は戸惑いながらも、弟のビニールバッグの中を見た。
水着とタオルは、キレイにたたまれたままだった。
「あの……プールに行ってくださったんじゃ……?」
「行きましたよ」
ヘルパーさんは、ぶすっとした顔で答えた。弟はなにも言わず、もたもたと靴を脱いでいる。
これはおかしいと勘づいた母は、水着を取り出した。まったく濡れていないのだ。
「いや行ってないですよね、これ」
「……あー、はあ、えっと……プールには行ったんですが、良太くんが言うことを聞かないんで、入らずやめました」
ウソがバレると、途端に視線があちこち泳ぎまくるヘルパーさん。
「言うことを聞かないって、息子はなにをしたんですか」
「いや……べつに……」
母がたずねても、答えは煮え切らない。この頃の弟は、だいぶ行動がおっとりしていて、人が多くて見知らぬところでも大慌てすることはなかった。それでも何かあったのかもしれないが、その場で母へ連絡がないのはおかしい。
この数時間、弟はどこで、なにをしていたんだろう。
待ちに待ったプールへ着いたのに、入ることはできず、重いだけのビニールバッグをぶら下げ、どんな気持ちで帰ってきたんだろう。
弟の落ち込みようを見れば、つらい時間だったように思う。
めったに他人に怒らない母の顔が、ぎゅうっとゆがんだ。
子の悲しみを想像するとき、親の心は傷つくのではない。押し潰れるのだ。必死に絞り出されたような母の声を聞くまで、知ることもなかった。
彼の事務所に母が報告を入れると、上司と一緒に謝りに戻ってきた。上司も困り果てているように見えた。弟たちは、プールの建物の前で、ずっと座って時間を潰していたようだ。
「なんかもう、どうしたらいいかわかんなくて……」
口にこそしなかったが、母とろくに目も合わそうとせず、キョロキョロと視線を移している彼の表情は、そう物語ってるように見えた。
それから彼と会うことはなかった。同じようなことを他の人にも繰り返していたと、うわさで聞いた。