誰もが小さな“自閉”を持って生きてる
ダウン症の弟が、いっそう流暢にしゃべりはじめた。
半年前までは
「あー、ええ、おうですね、あい」
だったのが
「あーあ、また雨や。東京は雪やって。いやんなるわ」
になった。
26歳にして魅せる急激な成長に喜ぶ一方、逃げ出したオウムが知らん言葉を大量に覚えて戻ってきた時の怖さもある。
理由は言わずもがな、春からグループホームで暮らしはじめたからだ。
実家の和室をアジトに、悠々自適をかましていた弟にとって、はじめての共同生活。同居人にマナーを注意され、ベソかいて電話をしてきた夜もあった。
そんな弟にも、大切な友だちができた。
彼もまた知的障害があるのでお互いうまく話せないが、一発ギャグを交えつつ、楽しんでいるらしい。
いま最もアツいギャグは、ダンディ坂野の「ゲッツ!」なのは置いといて。彼がいちばん好きなものは野球だという。
「あんな、野球、いきたいねん」
ある日、大谷翔平選手の形態模写をしながら、弟がぽつりと言った。
「よっしゃ、行こう」
その晩、わたしはWBC強化試合のチケットを買った。弟の友だちの分も。
グループホームから連絡してもらうと大喜びで、友だちに付き添ってお手伝いをしてくれるガイドヘルパーさんを予約してくれることになった。
いなくてもお出かけはできるけど、初めてだし、いたほうが安心。
しばらくして、グループホームから返事があった。
「実はガイドヘルパーさんが見つからず……もともと、なり手が少なくて、いつも募集してるけど集まらなくて。もうちょっと探してみますね!」
なるほど。
わたしは『ガイドヘルパーの資格 知的障害 神戸』で検索した。あった。43,450円払って、3日間の講義を受ければ、資格がとれるらしい。
つまりわたしがガイドヘルパーになれば良いのである。
その晩、わたしは「行動援護従業者養成研修」に申し込んだ。
新しい朝がきた。講義の朝だ。
会社員を辞めてから、朝に起きたことなど、片手で数えるぐらいしかない。8時台の電車に乗ると、りっぱな人間に生まれ変わったような気がする。
気がするだけで、まるでそんなことはなく、余裕で寝過ごした。
ゼイゼイハアハアで教室に着いたら、一番前の席になってしまった。
先生はあいさつがてら、わたしたちに聞いた。
「みなさんはすでに、福祉事業所などで働いておられますね?」
働いてない。
「ガイドヘルパーの資格も、取った人が多いですね?」
取ってない。
「中には、そうじゃない人もいるかと思いますが」
そうじゃない。
あたりを見渡せば、他の受講者は面構えが違う。歴戦の猛者たちである。どういうことだ。
オロオロしながら、わたしは先生に聞いた。
「この“行動援護従業者養成研修”っていうのを取ったら、知的障害者のガイドヘルパーになれるんじゃ……?」
「あっ、いや、事業所によってはガイドヘルパーとして働けるところもありますが、知的障害の中でも一番重くて難しい症状の人について学ぶ講座なので、ステップアップとして受ける経験者がほとんどですね」
なんと。
Google検索の申し子として「大体のことは検索すりゃなんとかなるっしょ」と、ナメた生き方をしてきたのが仇になった。検索して、一番上に出てきたのがこの講座だったのだ。聞け。人を頼れ。機械を疑え。
「でも僕としては、時代の最先端をゆく激アツの講座だと思います!」
激アツの講座に紛れこんだ素人と成り果てたわたしは、本当に最後まで講義についていくことができるんだろうか。不安と後悔が、寿司特急ほどの速度で頭をよぎる。
呆然としているわたしのような者にも、テキストが配られた。
ゼクシィぐらい厚い。ズンッ。両手に伝わる重みがプレッシャーをかける。
ここで学ぶのは、自閉スペクトラム症について。個人差がかなり激しい障害だが、その中でも、特に重い症状のある人について教わるそうだ。
先生が話しはじめた。
「自閉スペクトラム症のある人の中には、強い不安を感じると服を破いたり、大声を出したり、腕を噛んだりして、自らを傷つけてしまう人がいます」
うん。いつだったか、電車で見かけたことがある。
「そういう危険な行為のことを、強度行動障害といいます。なぜ強度行動障害が起きるか。いくつかの理由のひとつに、自閉スペクトラム症の人が持つ強いこだわりがあります」
強いこだわりね。
これも聞いたことがある。
「……ですが」
パタン。
ここで先生は、手にしていた分厚いテキストを閉じた。
どうした。
「わたしは“こだわり”という表現が、好きではありません」
えっ。
「だって、“こだわり”なんて、誰でも持ってるし。いざとなればガマンできるじゃないですか。命を捨てて“こだわり”を守る人なんておらんでしょ。そんなの想像できへんでしょ」
……たしかに。
「わたしは、自閉スペクトラム症の人たちが持つその感覚を“儀式と呼んでいます」
あっ!
これは神講座や!
神講座の始まりである。もちろん先生はテキストに書いてることをちゃんと踏襲した上でエゴの話をしたのだが、そのエゴの濃度がえぐい。なんか、すごく新しいのに、腑に落ちる話が始まる気がする。
わたしはペンを取り、机へかぶりついた。
平日は毎日、7時に起き、7時10分に朝食をとり、7時30分に顔を洗い、7時45分の天気予報を見て、8時に右足から靴を履き、8時15分のバスに乗るという自閉症の人がいる。
この時間が1分でも、順番が1度でもずれると、混乱して動けなくなる。ひどいときは、自分の腕を血が出るまで噛んでしまう。
こだわりが強いんだな……。
そう考えてしまえばどこか、わたしたちには理解ができない変わり者の話で終わってしまうけど。
これが儀式だとしたら、どうだろう。
やっと入れた憧れの高校の入学式で、先輩たちが赤ラークをほぐしては投げ、ほぐしては投げてきたら。亡くなった親のお葬式で、手を合わせる前に棺ごとキャンプファイヤーにくべられて燃やされたら。
む、むちゃくちゃ嫌だ。
大切にしてる思い出、ここで生きている証明を、踏みにじられてしまう感覚に陥る。反撃する前に頭が真っ白になる。
「やれやれ、まったく」で、済ませられる話ではない。
バスが2分遅刻しただけでも。ある人にとっては、愛しき世界の破滅と絶望が同時に訪れるのだ。
「大声を出したり、腕を噛んだりしてしまう行為のはじまりには、本人にとって耐えがたい苦しさやつらさがある。それすらも周りの人に言葉で説明できないって壮絶ですよ。暴れることでしか伝えられないのもわかる。彼らは困った人ではない。困ってる人なんです」
困った人ではない。困ってる人。
テキストには、こんな手記が載っていた。
書いたのは、自閉スペクトラム症の人だ。
完ぺきに想像できるだろうか。
部屋の中にいる人間が、ごみに見える世界を。
頑張って目をこらせば、透視できる世界を。
自分に向かって投げられる言葉が、どうでもいい世界を。
映画やマンガでは描かれてきたかもしれないが、この目や手に同じ感覚を再現することはむずかしい。再現はできない。
ここで、わたしが思ったのは。
人は誰でも、小さな“自閉”を持っているんじゃないか?
先生の話を聞きながら、机の上に眼を向けていた。
三本とも、わたしのだ。お茶が二本、ほうじ茶ラテが一杯。すべて、ちょっとずつ中身が入っている。飲み終えてないのに、しかも同じお茶なのに、わたしはいつも買うのを止められない。
一瞬でも、喉が渇くのが怖いのだ。
なぜかと聞かれても、わからない。
喉が乾くとむずむずして、じっと座っていられなくて、猛烈に機嫌も悪くなる。わたしはそのときのわたしが怖いから、余分に飲みものを買って、いつも持ち歩いてる。リュックの底から多いときは5本もボトルが発掘される。
みなさんにも、ないだろうか。
我慢しようと思えばできるけど、イライラすることが。
つい他人に押し付けてしまい、口ゲンカになることが。
うまくわかってもらえなくて、悲しくなったことが。
小さな“自閉”は幸いなことに、なんとか耐えしのぶことができる。社会のルールにあわせて、自分の大切な世界をちょっとだけ柔軟にねじ曲げることができる。
でも塵のように積もりつのったら、いつかどこかで埋もれて爆発する。泣いたり、叫んだり、飛び出したり。
わたしたちは日々、小さな“自閉”を、他人とうまくやっていくためだけに押し込めて、生きてる。
いつか、なにも言わなくても、わかってくれる誰かに会いたい。
心のなかでそう願いながら、大切な宝物がちょっとずつ踏み潰されていくのを味わい、寂しく生きてる。
あの人も。あの人も。
先生は言った。
「儀式はやめさせない方がいい。そんな権利は誰にもない。僕たちがやるべきことは、儀式にあえて入っていくこと。言いかえれば、受容と共感です」
わたしたちは、三日間かけて、受容と共感の練習をしていく。
「でも、ひとつ覚えておいてほしいのは……障害のある人はともに生きる人を自分で選べないことがほとんどです。ヘルパーさんも、グループホームの同居人さんも、誰かから勝手に決められて、ハイッ!この人と生きてね!……って押しつけられるんです」
言われてみればそうだ。
人見知りのわたしは、想像するのもしんどい。
「感じている世界が全然違う宇宙人みたいな他者と、同じ時間を共有して、同じ場所で生きてる。それってすごいことなんです。生きてるだけで、ここにいてくれるだけで、すごい」
生きてるだけで、ここにいてくれるだけで、すごい。先生の語尾には力がこもっていた。よく見れば、手は腰のあたりでグッと握られている。
「一緒にいさせてもらえる。それだけで彼らは僕たちのことを、肯定してくれている。先に受容してもらったのは僕たちなんです。優しくて、暖かくて、大きな一歩はもう始まっている」
神講座である。
朝9時集合で夜6時までみっちり座りっぱなしだったが、圧倒されてしばらく動けなかった。大作映画を観たような心地。
目的と手段を間違えた愚かさは横に置いておいて、全人類、知るべき講座の気配がプンプンしている。あと二日。わたしの情緒はいったい、どうなってしまうのか。
書籍「国道沿いで、だいじょうぶ100回」に収録した連作エッセイです。