思いやりに気づくのはいつでも手遅れだ
わたしのエッセイをドラマにしてもらう時、NHKからディレクターさんや脚本家さんがやってきて、家族の話を聞いてもらった。
わたし、母、ばあちゃんだけでも、あわせて6時間ぐらいは聞いてもらったはずだ。
あまりの聞き上手っぷりに、エッセイでは書いたことのなかった、中学時代の陰鬱すぎる胸の内までぶちまけてしまった。
そういうわけで、ドラマ『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』の主人公・七実は、すこし暗くて繊細な中学校生活を送ったのかもしれない。わたしは嬉しかったけど。
まあ、だから、岸田家というのは。
かなりの濃さと頻度で、思い出話を共有してきた家族だ。
もう今さら、知らない話などないはずだと、わたしは思い込んでいた。
「あれ?」
わたしと母の間で、記憶の食い違いが判明したのは、数日前のことだった。
ドラマが地上波で再放送されることになり、岸田家も茶の間に集結して、第1話を見守っていた。
「うわっ、なつかしいなあ」
「この、病院の集中治療室に入るまでの演出、すごすぎんか?」
「でもホンマにこんな感じやったよなあ」
「あの時は、ばあちゃんは一緒やなかったで。病院のどっかで道に迷って、はぐれてん」
「……えっ?」
「えっ?」
ドラマを見ながら、わたしと母は思い出を語り合っていたはずが、なんかおかしい。
「あんた、なんの話してんの?」
「こっちのセリフじゃい!」
母と決定的に記憶が食い違ったのは、母が大動脈解離を起こして、かつぎ込まれた病院で、緊急手術になった夜の話だった。
わたしの記憶では、こうだ。
あの夜、母は勤め先の忘年会へ出かける準備をしていて、洗面所でとつぜん胸を押さえて倒れた。
救急車で運ばれた市民病院で、母が急性大動脈解離を起こしたとわかると、そこでは手の施しようがないと言われた。
そのあと、心臓外科で有名な大学病院に搬送された。
「お母さんはもういつ心臓が止まってもおかしくない状態です。大学病院まで30分の道のりを、持ちこたえられるかもわかりません」
搬送用の救急車に乗せられる時、わたしと弟に先生が言った。
あわあわしながら、弟の手を引いて、救急車に乗ろうとすると、隊員から止められてしまった。
「申し訳ありません!おとなの、成人のご家族おひとりだけ、同乗してください!」
高校生のわたしにそう言うのは、隊員もかなりつらかっただろうなと思う。わたしはボーッとしながら、母に付き添うばあちゃんの背中を見ていた。
当時は意味がわからなかったが、救急車の中で亡くなる可能性がかなり高かったので、色んな処置の同意ができる成人が同乗ということだったらしい。
母は、大動脈が裂けていく激痛に耐えて、なんとか大学病院まで持ちこたえた。
先生の説明では、手術の成功率は2割以下、手術中に出血多量で亡くなる可能性も高い、とのことだった。
手術の同意書にサインした。
はよ!はよ手術!
はよ、はよ、はよ!
……と、思ったが、大学病院では日夜バンバン手術しまくってるらしく、手術室がなかなか空かない。
手術室が空くまで、なんと、2時間も待った。
カラオケとちゃうんやぞ。
生死さまよっとんやぞ。
待ってるうちに、叔父や叔母も続々と到着した。わたしは、先生から聞いた内容を、朦朧としながら伝言する係になった。
深夜の病院の廊下で、ベンチに座ってひたすら待っていると、
「娘さんと弟さん、ちょっとこちらへ」
処置室のドアがゆっくり開いた。看護師さんが手招きした。
処置室に入ると、
「あー、奈美ちゃん。良太ぁ」
母がベッドに寝かされていた。
「えらいことになってなぁ、ごめんなぁ」
眉がハの字の、( ´ㅁ` )みたいな顔で、母が言った。さっきまでほとんど喋れなかった母は、モルヒネをガンガン注入され、痛みが飛んでいた。
「ようわからんけど、いまから手術いくらしいわぁ」
他人事みたいに、母が言った。
すぐさま、看護師さんたちがワッと集まってきて、母がストレッチャーに移された。
「このまま手術室へ向かいます。娘さんと弟さんも、一緒に来てくださいっ」
言われるがままに、ついてった。
ガラガラガラガラ!
ストレッチャーは、点滴ごと母を、処置室の裏の出口へ連れていく。右に曲がって、左に曲がって、途中で、ものすごい大きなエレベーターにも乗った。
手術室までは、迷路みたいな道のりだ。
ダウン症の弟は、歩くのがとても遅いから、わたしが腕を引っ張った。いつも嫌がる弟が、この時は、黙ってた。
早足で歩きながら、母に喋りかけた。頭の片隅で、これが最後になるかもしれない、とわかっていた。
「がんばるんやで。だめって思ったら、がんばるんやで」
「がんばるわあ、でも、がんばるんは、先生やけど」
「死んだらあかんで」
母はびっくりした目で、弱々しく笑った。
「死なへん、死なへん」
かまへん、かまへん、の響きと同じやった。
わたしが家族で食事に行くと、いつも服のそでを引っ掛けてジュースをこぼしてしまった時と、同じノリだった。今にもおしぼりを持ってきそうな母のノリだった。
すげえな、と思った。
死ぬかもしれんのに、なんて肝が座った人なんだ。
でも、すぐ考え直して、
母の強がりかもしれない、とも思った。
母はいつだって、わたしや弟のためなら、ガマンをしやがる。
「あー、全身麻酔、怖いわァ」
真っ青な顔で、母は笑ってた。でかい動脈が裂けてるのに。
そこは寒くて、静かで、緑色のランプにぼうっと照らされている暗い廊下だった。近づいていくと気づいた。手術室のランプだった。
なんで、ここにばあちゃんたちがいないんだろう、と思った。
もしかして、道に迷ったんかな。
いきなり出発したし、迷路みたいやったもんな。
今ごろ、母のこと、探しとんちゃうやろか。
これが最後かもしれないのに。呼びに戻るべきか悩んだけど、ストレッチャーは止まらない。ここが何階のどこかもわからない。
「おふたりは、ここまでです」
手術室の、むちゃくちゃ怖い金属の扉の向こうに運ばれていく母を、わたしと弟は見送った。弟の肩を抱きながら、涙がボロボロ流れた。母みたいにガマンできなかった。
ここまでが、わたしの記憶だ。
そのあと、母は重い障害は残ったけど、命は助かった。
わたしは、たまたま母が運ばれるタイミングで処置室にいて、たまたま手術室までくっついていけたのだと、不幸中のラッキー幸いだと思っていた。
しかし、母の記憶では、違った。
「たまたまちゃうで。あんたらが処置室に入ってくる前、先生が看護師さんに叫んでたんやで。『子どもさんらは、ギリギリまで一緒におらせたって!』って」
えーっ!
「深夜やったし、普通やったら先生たちしか入ったらあかん廊下やったみたいやで。看護師さんも心配しとったけど、『そんなんかまへん!ええから、手術室まで連れてきてあげて!』って先生が言うてたん、聞こえた」
当時、母はモルヒネのせいで視界もかすんでいたけど、なぜか音だけはハッキリ聞こえていたらしい。
ほかの親族が見たら、全員が立ち入り禁止区域までついてきてしまうから、わたしと弟だけがこっそり処置室に呼ばれたというわけだ。
先生は、わかっていたのだ。
わたしと弟は、心臓病で父も亡くしていたことを。とつぜんで最後の会話すらできなかったことを。子どもだから救急車には乗れなくて、今日も、乗れなかったことを。
先生は、きっとわかっていた。
食い違いは、それだけではない。
母が、戸惑いながら、わたしに言った。
「あの時、わたし、自分が死ぬかもしれへんなんて、知らんかったんやけど……」
えーっ!?!!?!?!!!
なんということでしょう。
母は手術の成功率が2割以下ということも、救急車で搬送中に力尽きるかもしれないということも、知らされていなかった。
だから、手術室前で、他人事みたいやったんか。
苦笑いしてたんか。
そら、肝座ってるわけやわ!
知らんねんもん!
ちくしょう、こっちの気も知らないで。
これに関しては、先生の意図はよくわからない。手術前に母を不安にさせたくなかったんだろうか。
でも、知らせなかったおかげで、あの妙にとぼけた母との会話に、救われたような気もする。こんな人が死ぬわけないって、どっかで思ってた。
あの時の先生も、看護師さんも、すごいなあ。
病院では、患者や家族は、当たり前だけどみんなしんどくて、痛くて、自分のことに必死で、ドン底にいる。苦しんでない人が、敵に見えてしまう。
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。