家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった
私が住んでいる東京という大都会に、母と弟が来た。
ひろ実と良太が来たとも言う。
母からのリークによると、新幹線の中で、弟は何度も「奈美ちゃんは?奈美ちゃんは?」と、母に聞いていたそうだ。
なるほど、なるほど。
それはそれは猛烈な歓迎を受けるに違いないと、相応の準備をしていたら。
弟に真顔で「よう」と言われた。
ちょっとちょっと。話が違うじゃないか。
弟心は、秋の空ほど移り変わる。
さて、目ざとい皆さんは、お気づきだろうか。
写真が、ことごとく、ばかみたいに泣ける。
私と母は、これらの写真を3回は見て、ばかみたいに泣いた。
写真家の幡野広志さんに、撮影してもらった。
私は今日まで、幡野さんに会ったことはなかった。
ただ、幡野さんが「奈美にできることはまだあるかい?〜赤べこ姉弟は滋賀に来た〜」を読んでいた同時刻に、私が「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んでいた。
きっかけは、それだけだった。
それだけの偶然の重なりを、Twitterで知って、メッセージを重ねた。
幡野さんには、血液がんがある。
がん患者さんに会うのは、初めてだった。
ひらかたパークの子どもプール並に思慮の浅い私は、行きの山手線でずっと「病気の人が、かけられて嫌だった言葉」の体験談を読んでいた。
「がんの治療をしている人に、食べ物のお見舞いは注意すること」と書かれていた。
さっと、血の気が引いた。
私のリュックには、ちょっとお高い蜂蜜の瓶が2つ、入っていた。
幡野さんに渡そうと、買ったものだった。
緊張しながら待っていると、幡野さんが「岸田さん!」と声をかけてくれた。
「あっ、これどうぞ!今さっきそこで売ってて。大阪にあるかもしれないけど。美味しそうだったから」
そう言って、幡野さんはどら焼きをくれた。
3人なのに、5個もあった。
笑ってしまった。
そこにいたのは、見たこともない病気の患者さんじゃなくて、ただの幡野さんだった。
「それじゃ、あの、私もこれを」
蜂蜜を渡すことへの迷いは、もう無かった。
幡野さんは、ぱあっと彩度と明度を一気にあげて、笑ってくれた。
私たちは、どら焼きと蜂蜜を、物々交換した。
どうぶつの森みたいな世界観だなと思った。(やったことないけど)
16時30分の東京駅には、すぐそこまで、夕暮れが迫っていた。
いつもは夜が好きだけど、今日は夜から逃げるように、歩き出した。
「あのな、appleのAirpodsってすごいねん。ケースにしまう時な、ちゃんと右の子か、左の子か、わかるようになってんねん」という、最近の母の発見に、私は耳を疑った。
イヤフォンに対して、母性がにじみ出とる。
母の車いすは、私が押したり、弟が押したりした。
実は、押してる方が、足腰的には楽だったりする。
世界一見栄えの良い横着、だと思う。
私も弟も、脆弱な足腰を持つ民なので、われ先にと押し合ったりする。
姉弟と言えど、早いもの勝ちである。
私が小学生で、弟が保育園生だった頃。
今は亡き父が、東京ディズニーランドへ連れていってくれた。
家族全員で行ったのは、あれが最初で最後だ。
飛行機でもなく、新幹線でもなく。
車だった。
8時間かけて、神戸から向かった。
モスグリーン色のボルボの後部座席が、その日だけ平らになった。
わっせわっせと、家からお布団を持ち込んだ。
弟と二人で寝転がると、そこはたちまちリッツ・カールトンホテルより、気分が高揚するベッドルームになった。
父と母が、かわりばんこで運転する姿を、後ろからずっと眺めていた。
とんでもなく、ワクワクした。
ディズニーランドより、ワクワクしたかもしれない。
車で行った本当の理由は「知的障害のある弟が、新幹線や飛行機で長時間移動すると、パニックになるかもしれないから」だった。
でも、車を走らせながらZARDの「君に逢いたくなったら」を大声で歌う父と母は、そんな理由など関係なく、心底楽しそうに見えた。
今、弟は飛行機でも新幹線でも、なんでも乗れるけど。
私はあんな夜が過ごせるなら、8時間かかる車に、また乗りたいよ。
父の口ぐせは「アホちゃうか」だった。
「アホちゃうか」だけで、賞賛も、憤怒も、悲哀も、ありとあらゆる感情が表せられると言っていた。ミツカンのめんつゆに匹敵する万能さだ。
東京ディズニーランドに着いた父は、テンションが上がりまくって「よっしゃ!なんでも好きなもん乗ったろ!」と言った。
その言葉の通りに、私と弟は大人気アトラクションのプーさんのハニーハントを指さした。
3時間待ちという表示を見て、父はやっぱり「アホちゃうか」と言った。
何を今さら。ここは夢の国なのだ。
誰もがアホに、ならいでか。
父はしぶしぶ、3時間並んだ。
プーさんを見て「これはいいつくり、しとるわ」と感心していた。
父は亡くなる少し前から、東京で仕事を始めた。
平日は東京で過ごし、週末は神戸に帰ってくる生活が続いた。
一度だけ、私は父をたずねて、一人で東京に行ったことがある。
幼心にも、はっきりと東京の物価が高いことはわかった。
父が連れて行ってくれた中華料理店のチャーハンの値段は、神戸で食べるチャーハンの2倍もした。
その時、私は、「遠慮すること」が「喜ばせること」だと思っていて。
本当はエビチャーハンが食べたいけど、普通のチャーハンを頼んだ。
父は「エビ、頼みいや」「ほんまにエビいらんの?」と何度も聞いてくれた。
バカだったなあ。
今だったら、エビチャーハン、頼んじゃうよ。
なんならホタテも乗せちゃってよ。
母が入院時代、さんざん通い詰めた、BEAMSの光に照らされて歩いた。
あれは、神戸の三宮にあるBEAMSだった。
お見舞いに、母がリハビリの時に着るTシャツを買っていたからだ。
夜になった。
なんだかもったいなくて、泣きそうな気持ちで幡野さんを見た。
幡野さんは「大丈夫、ちゃんと写るから」と言った。
その後に「たぶん」とも言った。
ちゃんと、写ってた。
やったぜ。
母と弟は滞在2日目なので、今日の新幹線で、神戸に戻る。
新幹線の中で、二人が食べるお弁当を選んだ。
大混雑のお店で、弟は「う〜ん、う〜ん」と悩んで、チャーハン弁当(¥682)の前で立ち止まった。
その隣には、浅草今半の黒毛和牛重ねすき焼き弁当(¥1944)があった。
私はふと、父と食べたチャーハンを思い出した。
弟に「こっち食べてええよ」と、どや顔で、すきやき弁当をすすめた。
弟は、私を一瞥して。
「あっ、いいです」と言った。
完全に、プロの職人が、わかってねえなコイツ、と新人に投げかける目線だった。
「なんでそっちのお弁当なん」と良太に聞いてみた。
身振り手振りで、「こっちの方が(量が)多いから」という意図を示された。
そうか、そうか。
それやったら、別に、ええんやわ。
実は、東京駅にはこんな部屋がある。
車椅子待合所という部屋だ。
誰と待ち合わせているわけでもないけど。
中のインターフォンで、駅員さんに連絡する。
すると、新幹線まで車いすのサポートをしてくれるという、ハイカラな仕組みだ。
「いや、インターフォンの音、ちっさ!」と、思わずツッコミを入れにくる姉弟。
弟は、胸にポケットがあるシャツをよく着る。
新幹線の切符をしまえて、とても便利だ。
私なんて3枚に1枚のペースで失くすので、ここにしまえて、さらに便利だ。
ほれ、この通り。
覚えていない、話がある。
私が小学生の時だ。
悪さをして母に叱られた私は、大泣きした。
「ママは、私のことなんか嫌いなんやろ。いらんのやろ」と言ったそうだ。
母はびっくりして、理由をたずねた。
「なんでもかんでも、良太のことばっかり。良太の方が大切なんやろ」
それが、私の答えだった。
母は、頭をガーンと殴られたような、衝撃を受けたらしい。
だって母は、私と弟を、同じくらい愛していたのに。
その頃の弟は、本当に手がかかった。
急に走り出したり、泣き出したりを繰り返していた。
障害があるから、もちろん、他の子どもより成長も遅かった。
「ゴメンね。ママはな、奈美ちゃんが良太を守れるように、しっかりしてほしくて、叱っててん。でも、それが奈美ちゃんを寂しくさせてたんやね。ゴメン」
母は今でも、あの時の自分が本当に情けなかった、と苦い顔をする。
それから母は、目に見えるように、私に愛情表現をしてくれた。
それこそ、オーバーリアクションも辞さなかった。
事あるごとに抱きしめてくれ、事あるごとに「大好き」と言ってくれた。
奈美ちゃんの家はアメリカの家みたいだね、とか、言われてたと思う。
それからだ。
私が弟に優しくして、二人で仲良く遊ぶようになったのは。
「人を大切にできるのは、人から大切にされた人だけやねんな」と、母はしみじみ言った。
ちなみに、私はこの時の話を、本当に覚えていない。
物心ついた時から、弟は大切な存在で、仲が良いと思っていた。
なぜか、なんて、考えたことがなかった。
どうして今になって知ったかと言うと、幡野さんが尋ねてくれたからだ。
「奈美さんと良太さんみたいな姉弟のあり方って、めずらしいと思うんですけど、いつからそうなんですか?」
最初は、質問にピンと来なかった。
「障害のあるきょうだいを持つ人って、我慢したり、憎んだり、不仲になったりしてしまう人も多いように思うんです」
ははあ、なるほど。そういう人たちもいるだろう。
だって私も、あの時母に泣いて訴えなければ、弟のことを嫌いなまま生きていたかもしれないから。
今の結果は、偶然の産物だ。
私も知らなかった話を引き出してくれた幡野さんに、心からお礼を捧げたい。
三連休を終え、重い足取りの人たちが多いホームの上を、母の車いすが軽やかに滑っていく。
実は、N700系Aにある1323座席の内、車いすに対応する座席は2席しかない。11号車の12Bと13Bという席だ。
だから、切符はいつも争奪戦だ。
それなら今日も泊まっていったら良いのにな、と思う日に限って、切符は簡単に取れてしまう。
母と弟を見送って、幡野さんと別れて、帰路についた。
蜂蜜が美味しかったと、幡野さんから連絡があって、すごく嬉しかった。
家に帰ると、母の車いすが通れるように、すべてのモノというモノを片付けた廊下が、部屋の向こう側まで突き抜けて見えた。
そのせいかな。
部屋ががらんと広い気がして、静まり返った音がうるさくて、私は少し泣いた。
「アホちゃうか」と、記憶の中にいる父が言う。
やかましわ。
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