静寂とサイレン@宮城県気仙沼市
キナリ☆マガジン購読者限定で、「小説現代1月号」に掲載している連載エッセイ全文をnoteでも公開します。表紙イラストは中村隆さんの書き下ろしです。
無音というのは地球上にいる限り、ありえないらしい。
まぶたが閉じる音とか、着ている綿の服がすれる音とか、靴底が地面につく音とか、さらにいうと流れる空気にも音がある。地球は思いのほか、うるさい。
無音。
本当はありえないはずの無音に、限りなく近い状態を、わたしは感じたことがある。
二〇二〇年三月十一日、午後二時四十六分。
気仙沼の港町のどこにいたって聞こえるくらい、鳴り響いていた、追悼のサイレンだ。
気仙沼をおとずれるのは、はじめてだった。
「あの街に住む愉快な人たちとの、愉快な時間を、愉快な岸田さんが言葉にしてほしい」
父について連載している「ほぼ日」の編集チームから、依頼があった。
愉快さを見込まれることってあるんだなあ、と嬉しくなり、ふたつ返事で引き受けた。
「毎年、震災の追悼日は、糸井重里さんの家族と、編集チームで行くんですけどね。今年は、若い三人にも来てもらおうと思って」
若い三人ということで集められたのは、わたしと、全国の市町村を原付バイクでめぐった写真家のかつおくんと、サッカーボールひとつでニューヨークの路上をわかせたパフォーマーのりゅうくん。
三人とも二十代だけど、そろいもそろって「自分が若いって思ったこと、あんまりないよなあ」と首をかしげていた。いまの自分は、人生で一番老いているが、一番若くも感じているから、自覚はむずかしい。
そういうわけで、ざっくり「若い」でくくられて、お得で鮮やかな三連カップゼリーのようになってしまったわれわれだが、のちのち好都合だったと気づく。
なぜなら、三人いれば、いいエッセイが書けるからだ。
わたしが思うにエッセイは、その土地ならではの文化や自然と、出会う人との深い対話があり、その交わりにうまく自分の物語を重ね合わせられれば、格段におもしろくなる。運の要素も強い。
これを一人でやりきるのは難しい。わたしは知らない人と自然に打ち解けるのが苦手だから、心がこわばっている間に、いろんなものを見逃してしまう。
特に、気仙沼では、震災で傷ついた人と会うことがわかっていたから、余計に不安だった。
言葉にするため呼ばれた以上、語られる希望や悲しみを、見逃すわけにはいかない。
しかし、若いわれわれは、三人いる。
りゅうくんは、二畳くらいのスペースがあれば、サッカーボールですさまじいリフティングを披露し、わらわらと人を集める。
かつおくんは、フワッフワにやわらかい物腰で、だれの懐にもサッと飛び込み、何気ない会話をするりと引き出し、気づかぬうちにシャッターまで切る。
わたしは、ただ、そこに生まれる物語や言葉をていねいに拾い、紡いでいくだけでよかった。
それぞれが苦手なことを補いあい、得意なことだけに集中し、ひとつのものを作り上げるのは楽しい。そういう意味で、三人ってすばらしい単位だ。ズッコケ三人組は、よくできている。
港町へ行くのに「かつお(鰹)」と「りゅう(龍)」と「なみ(波)」がいるっていうのも、できすぎている。
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