【内書評】こんとあき「無力で絶対のだいじょうぶ」
子曰く、
「だいじょうぶ」ほど訳すのが難しい言葉って、ないよな〜〜〜!
子っていっても、あれよ。
うちの弘子(祖母)の方よ。
ちょっとボケてる弘子の方なのよ。
あれは、まだわたしが会社員だった冬。
奇しくもクリスマスの夜。
イカ漁船みたいに成り果て、シャンパングラスがチンチン鳴りまくる街を、物憂げに歩きながら実家に電話した。
弘子が出た。
「いまから帰るけど、家にご飯ある?」
「ある」
「ほんま?」
「あー、もう、だいじょうぶ」
なんとなく、ぼかされたので。
これはもしや、サプライズパーティーやないかと。キャシー松本で言うところのパー↑チー↓やないかと。からあげとか、チョコケーキとかが、クリスマスよろしくメリーに運ばれてくるんやないかと。
使い古された雑巾みたいな身と心が一転、ウキウキしながら家に帰ったら、出されたのがキュウリ一本と塩のみだったっていう。
まさか方面へのサプライズ。ダルビッシュが投げるスライダーくらいキレキレの変化球。見送るしかできない。せめて漬けてくれ。
かっぱ寿司で働いてるかっぱでも、今夜はもっと良いもん食べてる。たぶん。ひもじくて泣いた。
弘子の「だいじょうぶ」は「知らんけど」と訳すべきだったのだ。
そんな目に遭った身で言うのもナンだが、わたしは「だいじょうぶ」という言葉が一番好きだ!
この世のあらゆる「だいじょうぶ」は、訳せない。
弟がホテルの朝食ブッフェに行ったら、大好物のウインナーが品切れだと知らされたときの「だいじょうぶ……」は、きっと「しゃあない、しゃあない」なので。
かと思えば、自由が丘でわたしに「絶対に100%儲かる話がある」と声をかけてきた男の「だいじょうぶ!」は、おそらく「ええから、はよ契約せえやカモがボケコラ」なので。
訳せないから、じっくり考えるのだ。
どんな気持ちで言ってくれたのかを。
どんな意味で言ってくれたのかを。
無数の「だいじょうぶ」について考える時間が、わたしはもう、むっちゃくちゃ好きだ。
『こんとあき(林明子 作)』は、母が何度も読み聞かせてくれた絵本。
おばあちゃんが、孫の「あき」のために作った、きつねのぬいぐるみが「こん」だ。ちなみにこんは喋るし、歩く。
離れて暮らすおばあちゃんは、まだ赤ちゃんのあきのことをこんに託す。兄妹のような、親友のような、ふたりの暮らしがはじまる。
あきが成長するにつれ古くなるこんは、ある日とうとう腕がほころびてしまう。おばあちゃんに直してもらうために、ふたりは列車に乗って、はじめての旅をする。
わたしが『こんとあき』を読むたびに、涙がボロネーゼしてしまうページが2枚ある。
一枚目は、汽車でのこと。
途中で止まった駅で、お弁当を買ってくるというこん。あきは心配してついていこうとするが、こんは一人で走っていく。
汽車が出発しても、こんが席に戻ってこない。心配したあきが見に行くと、しっぽをドアに挟まれて動けなくなってしまったこんが、うつむいて立っていた。
こんは、あきに気づいて、言う。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。おべんとう、まだ、あったかいよ」
しっぽを挟まれたまま、丸っこい手にはだいじなお弁当がふたつ。あかん、泣いちゃう。
こんなこと、とっさに言えるかな。
「ぼく、いたくないよ」なら、まだわかる。わたしはなんもないところでよそ見して頻繁にゴロンゴロンと転ぶので、その度に「だいじょうぶ、すぐ立ちますから」と超速で口走ってしまう。誰も聞いてないのに。痛いのに。
でもこんは、真っ先にお弁当のことを言った。
こんは、この時どんなに不安だったろうと思う。ぬいぐるみだからしっぽは痛くなかったとしても、ひとりで取り残されるなんて、心細いはず。
あきに少しでも不安を感じさせたくなかったんだろうな。
こんはお兄ちゃんだから。あきを守ってあげたいから。平気で、なんでもないこんでいた。なんでもないから、お弁当の無事を伝えた。まだあったかいよと喜んだ。
子どもの頃に読んだときは「しっぽがペシャンコで痛そうやな」くらいにしか思ってなかったが、今となっては健気さに胸がキュウッとなる。
わたしにも弟がいる。
まだ小さな弟と一緒に遊園地をまわっていたとき、ほんの数分だが、親とはぐれてしまったことがあった。自分が迷子とすら気づかずキョトンとしている弟がかわいそうで、わたしはとにかく、黙って歩き続けた。母が迎えにきたときに、ゲボ吐きそうなほどワーワー泣いてしまった。実際ちょっと吐いてた。
あのときの、なんでもない風に弟の手を握りながら、もう片方の手でまぶたをギュウギュウと押さえつけていたわたしと、こんが重なってしまう。
二枚目は、砂丘でのこと。
電車を降り、ふたりが砂丘を歩いていると、いきなり犬があらわれる。この犬が「ぱく!」とこんをくわえて、走り去ってしまうのだ。
あきは急いで、足あとを追いかける。すると、砂のなかにこんが埋まっていた。掘り返したこんを抱きあげ、あきは聞く。
「こん、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
けれどここから、あんなに頼もしかったこんが一変し、消え入るような小さな声で「だいじょうぶ、だいじょうぶ」としか言わなくなるのだ。
文字のフォントも、悲しくなるほど小さい。
ボロボロになったこんをおぶって、あきは歩き続ける。
あきが「ほら、うみがみえるよ」といっても、「おばあちゃんのうちは、どこにあるの?」といっても、背中のこんは「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と答えるだけ。
なぜこうなっちゃうのか、わたしはずっと不思議だった。
だって、今度はどうやったって、嘘なのだ。
だいじょうぶなわけない。
歩けない、道もわからない、夜がせまってるのに。
せめてあきの質問に答えて、
「わかんない」とか「そうだね」とか言ったらいいのに。
何時間も考えて、考えて、わたしは気づいた。
こんはボロボロになった自分のこと、じゃなくて、あきのことをだいじょうぶだと言っているのかな。
生きていれば、わたしたちは色んな壁にぶちあたる。あきみたく道に迷って途方に暮れちゃう。
誰かの壁を、一緒に乗り越えることはできても。
代わりに乗り越えてあげることはできない。
傷つくことがあったとしても。
代わりに傷ついてあげることはできない。
どんなに応援しても、手伝っても。
結局は本人が、歩いていかなければならない。
こんはもう、歩けなくなった。
日没で暗くなっていく砂丘を降りて、
道を選んで、自分をおぶって歩くのは、
あきしかいないのだと知っている。
あきがくじけたら、あきが危険にさらされる。
あきは心細さがよくわかるこんだから「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言う。
どんな道をえらんでも、
きみはだいじょうぶ。
だいじょうぶじゃなくなっても、
きみなら絶対だいじょうぶ。
全肯定の「だいじょうぶ」。
言う側は最も無力で、
言われる側は最も無敵になれる言葉が、
こんの「だいじょうぶ」じゃないのか。
何年経っても、離れても。
その「だいじょうぶ」の響き、根拠はないが愛がある祈りは、人生という砂漠をどこまでも歩いてゆく自信をくれる。
……と、まあ、そこまでわたしは勝手に想像し、勝手に大騒ぎで嗚咽をしているだけで。
こんとあきがどう感じたかは、ふたりにしかわからない。
ふたりにしかわからない訳だから、ふたりのなかで絶大な力を持ち続ける。
わたしの父は、わたしが中学二年生のとき、心筋梗塞で亡くなった。
救急車のなかで朦朧としながら父は、母にこう言った。
「だいじょうぶ。奈美ちゃんは俺の娘やから、だいじょうぶや」
自らの死を悟った父もまた無力だった。無力だから残した。どうなるかもわからない未来を、わたしがバタフライで泳いでいくための、絶対的な「だいじょうぶ」を。
あんたの娘だから今この有様なのだが、それゆえにわたしはいつでも人生史上、最強である。キュウリと塩で聖夜を越しても。
この先も無数の「だいじょうぶ」の訳を考えるたびに救われたり、傷つけられたり、泣かされたりするけれど。だいじょうぶじゃないことが起きる人生を、まるごとひっくるめて「だいじょうぶ」だと、言えたらいい。
こんとあきみたいに、言えたらいい。
これを書くにあたってもう一度「こんとあき」を読み直したり、調べていたら
予期せずこんな話を読んでしまい、また涙がボロネーゼになった。母に教えたら「こんっておじいちゃんぐらい大きいの!?」と本気でびっくりしたらしく返事がきた。そんなわけないやろ!