人生は山あり谷ありクロード・チアリ(姉のはなむけ日記/第1話)
人生には山もあれば、谷もあり。
坂もあれば、クロード・チアリ。
ヒガシマルのちょっとどんぶり。(※注)
うちの実家の目の前にも、坂がある。心臓破りとまではいかないが、心臓ヤバみくらいの傾斜の。
ニュータウンに突如として出現した、大型マンション密集地の中にあり、坂道を降りるとすぐ私有地の道路で、その先は野っ原がむき出しの斜面になっている。
子どもの頃、夏休みになると「よっしゃ〜〜!宿題終わった〜〜!遊ぶんじゃ〜〜〜〜!」とチャリでこの坂道を一気にくだり、勢い余って野っ原に突っ込んでいくバカが多発した。夏色をちゃんと聴け。ブレーキ握りしめろ。
うちの母は、車いすに乗っている。
今んとこ、駐車場に行くなどひとりで外出するときは、思いきり身を乗り出し、歯をくいしばって、この坂道を車いすで往復している。
一秒でも気を抜いたら死ぬと言っていた。
「ここを行き来できる間は健康やわ」
昨年、念願のボルボを手に入れてからはより往復に精を出しているが、はっきりいって、オカンが毎日一秒でも気を抜いたら死ぬチャレンジをしているのはいかがなものか。
父が遺してくれたこの実家も、いつか、手放すときがくるのだ。
いち早く巣立ったのが、わたしだ。
大学一年生のときに勢い余ってベンチャー企業に入り、オフィスで寝泊まりするため大阪へ出た。今は東京から京都に引っ越すという、上京だか都落ちだかわからん過程を経て、二週間に一度は実家へ帰っている。
その次が、ばあちゃんだ。
認知症がかなりおもしろい感じに進行してしまい、うかつに手がつけられないギンギラギン状態になったので、認知症対応型共同生活介護という施設で暮らしている。温泉郷のすぐ近くで、献立のメンチカツを楽しみに、毎日みんなでテレビを見ながら、手を叩いているそうだ。ばあちゃんは機嫌がいいと手を叩く。
残るは、母と、ダウン症の弟。
母には、わたしが三宮に借りた賃貸マンションの小さな部屋がある。もともとは、ばあちゃんとやりあって体調をくずした母の避難用に借りたが、そのまま母の仕事場として週に何度か使っている。高齢者向けマンションで、母がたいへん喜ぶ、奇跡の完全バリアフリーだ。坂道がのぼれなくなったら、ここへ移り住める。
ということは、だ。
戦略的一家離散のためには、弟の自立の道を探らねばならない。
「別に急いで探さんくてもなあ……おったらおったで、頼りになるし」
母はよく言っていた。
わかる。弟は家族のなかで、洗濯物をたたむのが誰よりもうまい。あと、郵便ポストを見にいく頻度も高い。
数年前、弟がいま通っている福祉作業所が、グループホームを立ち上げるという話がのぼった。
グループホームとは、障害のある人たちが数人で共同生活を送る家だ。料理や掃除など、一人では難しいことを、みんなで助けあったり、支援員の人に支えてもらったりして、一緒に暮らしてゆく。
「良太さんもご入居されませんか?」
寝耳にウォーターだった母は、戸惑った。
弟は、環境が変わることがすごく苦手だ。毎日乗ってるバスの時刻表が変わったときも、家を出る時間をちゃんと覚えるまで一年くらいかかった。
「バス、来んわ!」
ふてくされて帰ってきて、ふて寝することもあった。来んわ、じゃねえんだわ。来てるわ。
当時はまだばあちゃんもそこそこシャキッとしていたし、母も元気だった。
弟と離れる覚悟をまだ持てなかった母は、迷った末、いったん入居を見送ることになった。
あっという間に、グループホームは満員になった。
親元を離れて、自立して暮らしたいという人に対して、グループホームの数は不足していることを、その時は知らなかった。
高齢者施設に比べると、空きもあまり出ない。
こんなこと言うたらアレだけど、高齢者の方が亡くなるのは早いので。
「いつかはタイミングがくるやろ」
のんびりぼんやり、のらりくらりと構えるのが我が家の取り柄でもあるが、ことグループホームにおいては“いつか”を一度取り逃すと、すげえ速度で走り去っていった。花の2区。もう姿は見えない。
一年と少し前。
母が、感染性心内膜炎という病気にかかり、三途の川の前でギリUターンして戻ってきた。
げっそりと痩せていく母に対して、でっぷりと太っていく弟。
な……なんでや……!
エアーズロックのごとくせり出す弟の腹をなでながら、わたしは絶句した。健康診断の結果はいわずもがな肥満で再検査である。
母がおらず、わたしも仕事で家を空けている間、弟とばあちゃんは冷蔵庫の中身をしこたま食っていたのである。
冬、買い出しに出たときは
車いすのパイロットであるオカンをほったらかし、食べ物をしこたま積んで、例の坂道をあがってきた。食べるのが好きすぎる。
弟の時間感覚は、独特だ。
彼にとってなにより大切なのは朝起きたときの「今日の晩ごはん」だ。メニューがわかるまでそわそわしている。今朝も電話がかかってきた。今日のご飯はなんやろうねと。オムライスか何かじゃないですかね。
次の晩ごはんまでで、弟の時計は一旦、リセットされる。
一週間後、一ヶ月後、という時間のイメージは、弟にとっては一光年ぐらい果てしない。カレンダーに書いとくと、わかってくれるけど。
五年後、肥満で、えらいことになる。
これは、弟にはまったくもって伝わらない、時間の感覚だ。
母がずっと、弟のご飯を作り続けられるわけじゃない。
ヘルパーさんが作りにきてくれることもあるけど、弟の障害の程度だと、週二回がいいとこだ。
健康を守るためにも、弟には、自立してほしい。わたしは。
しかし、尾田栄一郎は言った。冒険の対義語は母親であると。
「せやけども、良太が寂しがったらどうしよう……」
グループホームを探そう、となった母は、この後に及んでもオロオロしていた。
こういう時は姉弟の方が、アッサリしている。
なんやかんやいうても姉弟というのは、死にものぐるいで親の愛を奪い合った関係性なので「あいつもイヤやったら、なんとかして訴えてくるやろ」と、どこかで相手の根性を認めている節がある。
そんな母を見て、弟は言った。
「ぼく、すみます」
「えっ」
「すみます、グループホーム」
「でも、うちらと離れるんやで?」
「だいじょぶ」
「ほんまに?」
「すみたいです、バッチリ」
そして弟は、イヤフォンをつけ、ドラゴンボールのゲームに熱中しはじめた。もうそのゲーム、三年ぐらい、ずっと同じバトルを繰り返してる。
母は、弟なりに気をつかったのだと思ったらしい。
そんなことは誤解だった。
ある日、外出していた母は、留守番している弟が心配で電話をかけると
「もーうっ!なんやねん!」
と、めちゃめちゃ面倒くさそうな声が返ってきたそうだ。
母は目を見開いて、ショックを受けた。姉は腹を抱えて、爆笑した。
そのまま三宮のマンションで一泊するはずだった母は、予定が早く終わったので実家へ戻ると、弟はちょっとガッカリした様子で迎えたらしい。
娘も息子も、障害があろうとなかろうと、一人暮らしが楽しいに決まってるじゃろうて。オカンはたまに会ってイチゴ食わしてもらうくらいが、ちょうどええねんて。
寂しがっているのは、弟ではなく、母だったというわけだ。
「寂しいなあ。けど、子どもは遠くで楽しそうで、親は寂しいっていうのは、子育てが成功した証なんかもしれへんなあ」
月明かりがそんなに美しくもない夜に、母はしみじみ言った。なかなかの名言なので、しばらく語り継いでいくね。遠くで楽しそうな娘より。
そうと決まれば、入居できるグループホーム探しである。
地元で評判がよかった二箇所のグループホームは、どちらも満室だった。
「一箇所、良太さんが通う福祉作業所に近いグループホームで空きがあるので。そちらご見学されますか?」
相談支援事業所といって、障害のある人の生活の相談に乗ってくれるところのお姉さんが案内してくれた。
母が、近所の知人に評判を聞いてみると
「昔からある、大きくて有名なところやし、大丈夫ちゃうかな」
とのことだった。
出鼻をパッキャパキャにくじかれるとも、知らずに。
グループホーム見学の日。
母と弟が、ふたりで参上した。
そこはたしかに職員さんも多くて、立派そうな門構えをしている。
けれど、出発前は、小刻みに揺れるなどしてソワソワと楽しそうだった弟が、徐々にムッツリーニ(ムッツリと顔をしかめる様子)になってることに、母は気づいた。
グループホームの職員さんが、弟を見て話してくれないのである。
「あのう、ぼく、どこですかねえ」
弟は、部屋を整理整頓するのが大好きだ。
これは実家の弟ルームだが、散らばっているように見えて、弟独自のアルゴリズムで毎日精密に片づけられている。まだ解読されていない。
なので、弟は、自分が入居する部屋を見たがった。
しかし、職員さんは、弟からプイッと目をそらす。
「まずは共同リビングからご案内しますね、お母さま」
ずっと母の方を見て、話すのだ。
たしかに、弟の発音は不明瞭だ。母と話した方が早い。けど、あいつは26年の“ようわからんルールの社会”でそれなりに空気を読んできた末、人に話を伝える工夫を心得ている。身振り手振りで、弟はまず、伝えたいという意思を伝える。
わかんなくても、一旦、受け止めてくれたっていいのにな。
「ごめんなさい。息子が、自分が入るお部屋がどうしても気になるみたいで……」
「ああ……じゃあ、後でご案内します。それでお母様、ここでのルールなんですけどね」
職員さんの説明は、とても丁寧だった。何回も、何十回も、この説明を繰り返してきたのだろうと思う。
それだけ、慣れているという安心感は伝わってくる。
けど、悲しいかな。弟にはなにも、伝わってない。質問をいくつもしようと張り切っていた弟は、次第に、黙っていってしまった。
見学の最後に、母がたずねた。
「こちらって、外出はどのくらいの頻度でしていいですか?」
一週間か、二週間にいっぺん、週末は家族で食卓を囲もう。
わたしたちはそう決めていた。これまでも、ずっとそうしてきた。ちょっとの間離れていたから、話したいことがある。愛しいと思えることがある。
なにより、母が子離れするのに、ちょうどいいペースだとわたしは思っている。母は料理が好きだ。
しかし、職員さんの顔色がサッと変わった。
「いや、困ります。外出なんて」
予想していなかった返答に、母も動揺した。
「グループホームに何日滞在されていたかで、利用料が変わるんです。国からいただける助成金も。そんな、毎週のように外出されたら困るんですよ」
つまり、弟が外出すると、その日数分だけグループホームの収入が減ってしまうのだ。知らなかった。
「どこも潤沢なお金がない中、必死でやってるんです。運営が立ち行かなくなってはいけないので、どうかご了承ください」
その日、入居するかどうかの返事は保留して、母と弟は家に帰ってきた。
母は悲しみやら驚きやらでションモリしていたが、弟は弟で「まあ社会ってそんなもんですよね」みたいな顔をして、ドラゴンボールのゲームをしていた。
グループホーム側の事情はよくわかる。よくわかるから、なにも言い返せなかった。
独り立ちというのは、ガラッと環境を変える。けど、ブツンッと繋がりを切るものだろうか。
晩ごはんには、1切れ3800円の牛肉を焼いた。母のヤケクソ焼きという新メニューが生まれた。肉汁は涙の味がした。