どこかにはいるけど、ここにはいない弟
その時、わたしは、ケーキを選んでいた。
爆裂においしいケーキのために、わざわざ隣の市まで車を走らせ、行列に並んだのである。
「なー、なー!どれにする?」
一緒に来たはずの母を振り返ると、なにやら電話をしていた。
「良太が……」
電話を切った母が、わが弟の名前を出す。
「いなくなったって……」
ケ、ケーキを目前に、よりにもよって今、そんな面倒くさそうな事件が。モンブランに後ろ髪を引かれながら、うわの空で状況を聞いた。
弟は月に二度、移動支援というサービスを受けている。ヘルパーさんに付き添ってもらい、映画やカラオケなど、好きな場所へ行けるのだ。
今日は、神戸の中心街・三宮に行っていた。地下街の人混みのなかで、ヘルパーさんが弟を見失って、うっかりはぐれてしまったそうだ。
迷子。
いや、28歳ともなれば、もはや子ではない。
迷男。
「まだ見つからへんねんて」
青ざめる母。
「電話や、電話!」
こんなこともあろうかと、弟には三年前からスマートフォンを持たせていた。
『おかけになった電話は、現在、電源が入っていないか……』
母の眉が、見事なハの字になる。
忘れてた。弟のスマートフォンは、使い古しのすれっからしで、バッテリーがすぐに切れるんだった。無頓着ゆえの雑な節約が裏目に出た。
「ゆ、誘拐されてたら、どないしよう……」
「誘拐……」
わたしは息を飲んだ。
のち、首をかしげた。
「されるかなあ?」
こんなこと言っちゃアレだが、わざわざ、あんなムックリした成人ダウン症男性を連れていくだろうか。てこでも動きそうにない。身代金を要求するにしても、どこのどいつか、聞き出すのにも一苦労である。
「されへんかあ」
「されへんのちゃうかなあ」
知らんけど。
沈黙。
わっ、と母が泣きそうになった。
「良太、ひとりぼっちで、どうしたらいいかわからんくて、道端で泣いてたらどうしよう」
想像したら、胸が一瞬キュッとなったが、泣くほどにはならなかった。なにか、わたしの中で、小さな違和感が引っかかっていた。
さいわい、三宮は、通行人も多いが、警察官も多い。
こういうこともあろうかと、福祉施設のリストもあらかじめ共有されているらしく、すぐに見つけてもらえるのではとのことだった。
「とにかく、うちらも探そか」
優雅にテラスでいただく予定だったケーキを、箱に詰めてもらって、わたしと母は車で神戸に引き返した。
岸田家捜査本部、設立!
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。