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神様

岸田 奈美

今日、たぶん、神様に会った。

よく澄んで晴れた、秋の午後だった。

総胆管結石で入院している母からLINEで連絡があった。

「退院、来週明けやって」

もともとは何週間か入院するかもと聞いてたので「あらま!」と弾んだ返信を打っていたら。

「肝臓が回復したらすぐに、また入院やって」

わたしは「あらま!」を「あらま…」にサッと打ち直した。

3日前に内視鏡での手術を終えたばかりの母だったが、結石が大きく、取り去れなかった。年内にもできるだけ早く、お腹を開く手術を受ける。この病気では、よりにもよって一番難しい手術だ。

「命にかかわるようなことはないんやって」

母の連絡を受けて、わたしはまず、年末の旅行のキャンセルに取りかかった。母が行きたいと願った場所だった。

レンタカー、飛行機、ホテル、次々と予約を取り消す。キャンセル料で3万円ほど引かれた。母からは、ドラえもんが天を仰いで大泣きしているスタンプだけが、3つ連続でシュポポポと送られてきた。

これを言うのは、贅沢でとんでもないことだけど。命にかかわる状況じゃないからこそ、変な未練が生まれるのかもしれない。

キャンセル料が30万円かかるとしても「生きるか死ぬかの手術だから」って状況なら、即座に支払って、ネチネチ惜しむ暇なんかない。

母もわたしも「病気が軽くて良かった!」って喜ぶ状況なのに、情緒に余裕があるからか、どうにも3万円が惜しい。

3万円。

そうだ、ご祝儀の新札がいるんだった。

明日の土曜、わたしは友人の結婚式に出席することになっていた。うわっ、もうそんな日付か。うっかりしてた。

わたしは梅吉を小脇に抱えて、家を出た。梅吉は留守番ができない犬なのである。


梅吉は、外でよく吠える。よく吠えると言われて、人が想像する量の3倍は吠える。絶対に噛まないけど、絶対に吠える。

吠える目的はただひとつ、みんなに撫でてほしいから。

わたしに似たのか、目が悪いのに勢いだけはあるので、動くものを捉えただけでギュンッと弾丸のように発走し、散歩紐に阻まれるとコンパスのように半回転したのち「ワギャギャギャギャオーンオンオンオンヌ!」と吠える。

みんなに撫でてほしいから。

世の中はね、きみが思うほど、きみに興味はないんだよ。取り囲んで厳しさを言って聞かせているうちに、梅吉は人間年齢にしてもはや47歳になってしまった。47歳になっても依然。

梅吉をつれて外に出るときは、人のいない深夜にするか、母の運転する車に乗せていた。今日だけは、ひとりと一匹。

梅吉は、吠えた。吠えに吠えた。

道行く人は、振り返る。

「あら、かわいい」と微笑んでくれる犬好きの人もいるが、ほとんどは、なんともいえない表情か、びっくりした表情だ。

そりゃそうだ。街なかでいきなり吠えられたら、とっさに身を守ろうとするのが自然だ。

ベビーカーに乗ってる子どもまで泣かせてしまったのは、本当に申し訳なかった。

「ごめんなさい、噛みませんので!噛みませんので!」

梅吉を抱き上げ、小走りで人波を追い越す。

たまに梅吉が「この人に撫でてもらえるなら、この命、もうどうなってもいい!」ぐらいの根性を発揮し、わたしの腕の中をもがき、宙ぶらりんになる。

絶対に離さないようにしたら、鎖骨のあたりに薄い爪痕がつき、ニットのセーターは襟ぐりが世紀末になった。痛いし、悲しい。

「ワォンッ!ワォンッ!」

「うひゃっ、ダルいってお前、それは」

ふっと顔をあげると、横断歩道の向こうで、中学生っぽい男子がふたり、梅吉の鳴き真似をして笑っていた。ルールルルルル。

わたしだって笑いたかったが、笑えなくて、悔しい。

銀行が閉まる3分前にたどりつき、どうにかこうにか梅吉を待たせ、新札を手に入れた。両替の機械が置いてない店で、人が手でやるから、手数料で300円かかると言われた。

300円。ちゃんと店を調べてたら、かからなかったお金。いつもならそんなの気にしないのに、さっきの3万円と、おじゃんになった旅行と、お腹を開かれる母が、芋のつるみたいにシュルシュルと浮かんできて、どんよりする。落ち込みの深さが、金額の割に合ってない。毎度おおきに。

小さなことばかりうまくいかないと、それはそれで、泣きたくなってくる。

あばれる梅吉を抱き続けて、腕がしびれてきたなと思いながら、信号が変わるのを待っていた。

「わんわん」

声がした。

わざわざ、やかましい犬に近づこうとする人なんていなかったので油断していたし、気配も感じとれなかった。わたしはびっくりした。

すぐ隣に、おじさんがいた。

ギョロッとした目で、わたしをまっすぐに見つめていた。なんだ、なんだ。

「わんわん、わんわん」

おじさんが一歩、近づいてきた。

チリチリした髪の毛を、すっぽりと押さえるのは黒い野球帽。アディダスのジャージは、袖や肘のところにポツポツと穴があき、ところどころ色がオチている。靴はマジックテープで止めるところがビロンと剥がれて、手にはくしゃくしゃのビニール袋が握られていた。持ち手の付け根を握ってるので、なんか、野で獲ってきた白兎を運んでるようにも見える。

ボロボロだけど、汚いとは違う。

なんとなく全部、こまめに手入れしているような。“仕方なさ”じゃなく、“こだわり”みたいなのが伝わってくるような。

わたしは、ずらしていたマスクを、ちゃんと鼻までずり上げる。話すんなら、そうしなきゃと思ったからだ。

やってから、気づいた。

アッ、今のはもしかして、おじさんを傷つけてしまったかもしれない。違う違う、そうじゃないのに。背筋がヒヤッとした。謝りたいのに、謝るわけにも。

「わんわん、きょ、こ、こ」

おじさんの声は小刻みに震えていた。手を伸ばそうとしては、ひっこめて、を繰り返す。その手は日焼けというより、硬めのパンみたいに黒くて、人さし指と中指の節にタコがあった。弟の指と一緒だ。

「わんわん、わんわん」

おじさんのつぶやきが、どんどん、細く、小さくなっていく。

「さわる?」

おじさんにつられてしまったが、言い直した。

「さわりますか」

「ああ、ああ」

黒い手が、ゆっくり、ゆっくり伸びてきて、一度だけ、梅吉の頭を撫でた。

「こわい、わんわん、こわいのん」

「噛まないですよ、大丈夫です」

「わんわん、わんわん」

おじさんの手が、梅吉の頭を、何度か往復する。

信号待ちをしている人たちは示し合わせたように、遠巻きにしている。わたしとおじさんからは丸く円を描くみたいに離れて、心配するような空気も伝わってきた。そっちの空気と目をあわせると、止めに入られてしまいそうなので、わたしはおじさんの空気だけを受信するようにした。

「かわいいね、かか、かわいいね、わんわん」

心の底ではわたしも、やってしまったかもしれない、と思った。街にはややこしいおじさんも、やらしいおじさんも、ウジャウジャいる。うかつに接近を許したら、ろくなことにならないかもしれない。

わかっちゃいるけど、アチャーって後悔してるけど、それでも、このおじさんとは話さずにはいられない。

ごめん、おじさんには悪いんだけど、わたしの弟が、20年ぐらい未来で、このおじさんみたいに一人でやってきたらと想像してしまった。邪険になんかなれない。

「しば、しーば」

「しば?」

「しば、し、しば、わんわん」

「柴犬ですか?」

「おばあちゃんのとこ、いたね、かわいいね」

梅吉を撫でながら、おじさんが、ぎゅうっと目を細めた。

「パジャマ、ぐちゃぐちゃに、こまったね」

おじさんは、思い出している。

ずっと昔、おじさんのおばあさんのところにいた柴犬を。

洗濯したばかりのパジャマを、物干しから引っ張り降ろしては家族を困らせて、それでも愛されている柴犬を。

おじさんが愛した、おばあさんの柴犬を。

ぶわっと景色が浮かんだ。説明されたわけでもないのに。

「かわいいね、いたね、いたね」

おじさんの見た目の年齢からして、たぶん、おばあさんはもう亡くなってる。柴犬だって。普通に考えれば、おじさんの、ずっと昔の記憶だ。でも、記憶っていう感じがしない。不思議だった。

おじさんは今、ここにいて、おばあさんの柴犬を、撫でている。

梅吉は吠えない。撫でられて気持ちよさそうに、目を閉じている。これは本当に梅吉なのか。柴犬はもしかして、こんな顔をしてたのか。

「おねえちゃん、おねえちゃん」

お姉さんまで出てきたぞと思ったら、おじさんがわたしを見た。わたしのことだった。柴犬になった梅吉は、当たり前だけど、やっぱり梅吉に戻っていた。

「おねえちゃん、わんわん、おねえちゃん、えらいね」

「えらいですか」

「えらーいねえ」

「でも、めっちゃ、この子めっちゃ、吠えるんですよ」

「いいこ、いいこ、かわいいね、えらいね」

「あの」

「ありがと、あり、ありがとうね、しば、しーば」

おじさんは、わたしの前で、黒くて大きな手を合わせた。それで、くしゃくしゃのビニール袋を下げて、歩いていった。

えらいと褒められたのは、おとなしく撫でられていた梅吉のことだろう。普通に考えれば。けど、わたしはそのとき、おじさんの言葉に抱きしめられた。 

梅吉を吠えさせない方法が、子犬の頃からとうとうここまで、何もうまくいかなかった。わたしのせいだと思ってた。わたしが梅吉を、吠えまくる厄介者にしちゃったと思った。ずっと、ずっと、不安だった。

しびれた腕で、情けない顔で、ここに立っているわたしのことまで、笑って許してくれたような気がした。もうここにいない柴犬と一緒に、梅吉のことを、優しく撫でてくれた気がした。

ふらふらするおじさんの背中は、まぶしい夕日に重なって、たまらずに目を閉じたら、もうどこにもいなくなっていた。

わたしは梅吉をそっと地面に降ろす。

梅吉もわたしもしばらく、目を細めて、光のなかにおじさんをぼうっと探していた。

胸がつまったようにいっぱいで、泣きそうになった。ありがとうはわたしが言いたかったのに、おじさんが言った。梅吉の願いを、叶えてくれたおじさんが、なぜかありがとうと言った。

今日、わたしは、神様に会った。

会ったことないから、なんの神様かわからないけど。犬の神様とか。しば神とか。


神様は、時を駆けるという。百年前のことも、昨日のことみたいに見えるかもしれない。柴犬と梅吉を、一緒に撫でられるかもしれない。

神様は、言葉を越えるという。撫でられても撫でられても足りない梅吉に、お前はそこそこ愛されてるぞと、言って聞かせられるかもしれない。

神様は、描写できないという。わたしが今日のことを素直に書けば書くほど、あのおじさんから受けた感情のすべてが遠ざかっていく。

すっかりおとなしくなった梅吉を連れ帰りながら、ちゃんとした神棚でも買ってきて、お祀りしようかなと思っていたら、

「ワギャギャギャギャオーンオンオンオンヌ!」

とっぷりと日が暮れた頃、梅吉が再び吠えだした。なんやったんや、さっきまでの、おりこうさんは。神様は、いつも忘れられてしまうという。

あと、どんな人間にも、神様が見える一瞬があるともいう。

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岸田 奈美

しばらくは弟のグループホームの送迎車にかかる費用や持ってゆくお菓子に使います。毎月、家族で楽しく暮らすいろんなことに使わせてもらっているので、使いみちはよくnoteで紹介します。