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飽きっぽいから、愛っぽい|ホラ吹きの車窓から@静岡県新富士駅のあたり

キナリ☆マガジン購読者限定で、「小説現代8月号」に掲載している連載エッセイ全文をnoteでも公開します。

表紙イラストは中村隆さんの書き下ろしです。

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母と一緒に、上京する仕事ができた。

新神戸駅から東京駅まで、新幹線のぞみ号に乗って。母は昨年春に心内膜炎の大手術をしてから、神戸を離れることはほとんどなかったので、遠出は久しぶりだ。

四時間も眠らないうちに始発の新幹線へ飛び乗ったのだが、母は元気だった。それどころかギンギンに冴えていた。

「富士山、いつごろ見えるやろか」

新幹線から見える富士山を、ワクワクして待ちわびていたのだった。富士山なんて、これまでも新幹線に乗っていたら、何度でも見られたはずじゃないか。手術をする前の母は、仕事で月に四回も五回も、新幹線に乗って上京していたのに。

「ちゃうねん。出張はいつも一人やったやろ。そしたら、富士山側やなくて、海側にしか座れへんかったから」

はしゃいでいる理由がわかった。

車いすに乗っている母は、当時の新幹線のぞみ号だと11号車の海側の席にしか座れない。そこだけは車いすを置けるよう、広くなっているのだ。

富士山を見るには、通路を挟んで反対側の窓からのぞくかすかな山影を、じっと目をこらして眺めるしかない。時代が時代なら和歌の一首でも詠めそうな趣深さである。

しかし、今回は違った。

わたしがいるので、小柄な母を抱きあげて席に座らせ、車いすをたたんで別の場所にしまうことができた。

山側の席を予約したのは、ただの偶然だ。

まだ京都駅も過ぎてないうちに、母はスマホの地図で富士山のおわす場所をチェックしながら、はしゃいでいた。

新幹線より飛行機を好んだ父は、生粋のホラ吹きであった。息を吐くように、意味のないホラを吐いていた。

ある晩、父は会社から帰ってくるなり、大騒ぎしたことがある。

「キタキツネや。キタキツネがおった」

「どこに?」

「帰りの山道や。運転してたら、横からビュッて飛び出てきおった」

帰りの山道って、そりゃ神戸の六甲山だ。キタキツネってのは、北海道くらい北にいるから、キタキツネっていうんでしょうが。六甲おろしは吹いてもいいけど、そんなつまんないホラを吹いちゃいけないよ。わたしは呆れた。

「それは普通のキツネやろ」

「いいや。あれは絶対にキタキツネや」

父は真剣だった。そして、母も真剣だった。

「いややわっ。どないしよう……役所とか、動物園とかに届け出た方がええんやろか」

真剣にうろたえていた。アホらしくなったので、わたしは部屋に戻って、寝た。

後日、父にキタキツネを描いてくれと、弟の色鉛筆と紙を渡したら、父はさらさらと白いキツネを描いた。ホッキョクグマと同じ原理で、北にいる動物は白いのだと信じていたのだろう。

本物のキタキツネは黄金色なのに。

まだ幼稚園生だったとき、風呂に入るたび、父のホラに泣かされた。

母と弟が入ったあとで、父とわたしが入り、ぬるくなった湯を追い焚きするのだが、父はそのたびにバチャバチャと暴れだす。

「熱いっ、熱いっ。足が……足が、溶けるうっ」

叫んだあと、ブクブクと湯船の底へ沈んでゆくのだ。これが本当におそろしくて、何度やられても、わたしは泣きわめいた。

だけど、父のホラに振り回される数でいえば、わたしより母の方が、圧倒的に多い。

母もいちいち信じなければいいのに、毎度毎度、本気でうろたえている。父のホラを見破れるほど年齢を重ねたわたしは、うんざりしていた。

この夫婦はアホなんじゃないのかと。


父が急逝し、十六年が経った。わたしは三十歳になった。

先月の休日に、母の友人がやってきたので、母も交えて三人でだらだらと喋っていた。

突然、母の友人がアッと声をあげた。

「いま、奈美ちゃんがお父さんに見えたわ」

「どこが?」

「お父さんもよく、そういうおもしろい噓ばっかりついてた」

今度はわたしが、アッと声をあげる番だった。驚嘆とも悲鳴ともとれる声を。

「心外な。わたしは父みたいなホラ吹きじゃないぞ」と立腹すればよかったのだが、冷静に思い出せば思い出すほど、ホラを吹いていた。年々、吹いていた。

言われるまで気づかなかった。つまりわたしも、息を吐くように意味のないホラを吐き続けていたのである。

半年前、飼っているトイプードルの梅吉を、一晩だけペットホテルに預けた。

阪神高速道路の出口に近く、広々かつ青々とした運動場のあるホテルだ。母は車のなかで待っていて、わたしが梅吉を抱いて、受付をしにいった。

梅吉を預けたあと、車に戻り、助手席に座る。

「梅吉、大丈夫やった?」

母が不安そうに聞く。実際の梅吉は、しっぽをブンブン振り、受付のお姉さんに飛びつき、ウンともワンとも言わず運動場へ駆け出していったので、余裕で大丈夫だったのだが。

「梅吉、逃げてん」

「え、ええっ」

「たまたま裏口が開いてて、そこから走り抜けていってな……追いかけたんやけど、高速道路の入り口まで走ってしもうて、見えへんくなった。危ないからって、いまスタッフさんがバイクで追いかけてくれてる」

ペラペラと口をついて出てきた説明はもちろんすべて噓である。

母は、あわてふためいていた。

「どっ、どっ、どないしよう! えっと、えっと……次の高速の下り口、どこやっけ」

大急ぎで車のエンジンをかけ、サイドブレーキを引いた。目は泳ぎ、一瞬でパニックになっていた。

母は、高速道路に入っていった梅吉を捕まえるために、車で先回りする気だった。

なんでやねん。なんで梅吉が時速80㎞の道路を、休まずに駆け抜けるねん。ほんで、なんでキッチリと次の下り口で出てくるねん。逃げたにしても普通、戻るか、止まるかするやろ。

母の思考プロセスが浮かんできて、爆笑してしまった。ようやく噓だと気づいた母が、胸をなでおろしながら「ちょっともう、やめてや。ほんまかと思ったやん」と怒った。

「信じるほうがおかしいやろ」

「だって……ETCゲートやったら、係員のおっちゃんもおらんし、誰も捕まえてくれへんかったんかな、って思って」

なんでやねん。なんで梅吉がETCゲートを選んで、通過するねん。


ホラ吹きの兆候は高校生の頃から、たぶんあった。芋づる式に記憶が蘇ってくる。

あれは大学受験当日の夕方だ。母は試験会場の近くまで、車で迎えに来てくれた。

「試験、どうやったん」

なんでもないように声のトーンを抑えているが、母がハンドルを握る手はじっとり汗ばんでいるのがわかる。

「あかんかった」

「えっ」

「鉛筆ぜんぶ折れてしもて。半分くらいしか、答えを書けへんかった」

母は黙っていた。

さすがに、受験をハラハラと見守るしかできない親に、縁起でもない噓はよくなかっただろうか。

わたしも黙っていると、車が甲山大師道の大きなカーブにさしかかったとき。ハンドルをぐるぐるまわしながら、母は大きなため息をついた。

「鉛筆五本も持っていったのに……なんでやのォ!」

なんでやのォ、という地の底から絞り出したような嘆きと、カーブを曲がる動きがあいまって、ものすごい悲愴感だった。わたしは爆笑した。

それから岸田家では「なんでやのォ」と言いながら、手をぐるぐる回す仕草が流行した。大学はトップに近い成績で合格していたのだった。


わたしと父。二世代にわたって、日常的に騙され続けている母が、なんだか気の毒になってきた。

それもこれも父のせいである。そういうことにしておきたい。

父は生まれつきのホラ吹きなのかと思っていたが、祖母や祖父にたずねても、心当たりはないという。

いつから父は、母にホラを吹くようになったのか。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。