話すつもりがなかった旅行の話
さて、一週間のお休みをいただいていました。
気づかなかったでしょう。
だって、誰にも言ってないもの。
どこに行ってたかって?
そりゃあ……
ハワイです。
どうですか、皆さん。風のウワサでは今季一番の大寒波が到来している今、ハワイなんて言葉、聞くだけでカラッと乾いた常夏の陽気に包まれたんじゃないですか。
白い波とワイキキビーチ♪浮かぶ浮かぶディナークルーズゥ♪
忘れられない〜思い出〜♪
うらやましいでしょう。
うらやましいでしょう。
ちょっとね、あまりにもコレッ、羨望の的になっちゃうもンだから、黙ってたんです。
出演してるワイドショーの控室でも、
「あれ、岸田さんは来週もお休みなんですか?ご旅行です?」
スタッフに聞かれて、
「あーっ、うん。そう、寒いからあったまりにでも」
「へーっ!ぼくも年末は城崎にいましたよ!温泉ですか?」
「そうそう、限りなくそんな感じ」
限りなく城崎感を出して、そそくさと荷物まとめて帰った。思わず緩んでしまう口元を、こう、薄汚いマフラーで隠しながら。城崎で一週間って、それはもう文豪やないかと。湯治やないかと。原稿に行き詰まってるかのようにできるだけ眉根をキュッと下げて、文学への儚げな憂いを演出して、
ハワイです。
仕事の原稿など、もう全部書き終えました。六甲おろし吹きすさぶ西宮のふもとで、ガタガタ震えながら、唇を血が出るまで噛み締めて、とうに終えました。爆速の倍速で。
ハワイで原稿なんか書けるわけないだろ!(暴論です)
常夏やぞ!揺れる椰子の実に、打ち返す波の音、寝そべるビーチ!そんなところにいたら頭パアなるに決まってるだろ!ああいう小難しい原稿だのは、寒いところで書いてナンボなの!ロシア文学はいいぞ!
でもねえ、ほら、一生懸命に働いてる同志たちを日本に残して。わたしだけハワイってのもねえ……悪いでしょう……?
ゆえに、隠し通す!
げに麗しき、このハワイ旅行!
SNSにも、普段と同じように予約投稿してました。このぬかりないソーシャル密航。まさかわたしがハワイにいるなんて、誰も思わなかったでしょうよ。
えっ?
じゃあ、なんで書いてるかって?
察してください。
そもそも、ハワイ旅行を決めたのは半年前のこと。
パラリンピック観戦というテレビの仕事をもらい、パリへ行くことが決まった。母は同行を熱望したが、問題は弟である。彼は横並びが大嫌いで、必ず離れたところを一人で歩くというこだわりを持つ。
スリも多いパリでは、弟は格好の的、入れ食い状態になってしまうではないか。
「一緒にフランス、行く?」
「のん」
弟は首を横に振った。やっぱりな。でも弟だけ置いてけぼりというのも忍びない。
「どこか行きたいとこ、ある?」
「あめりか」
「アメリカ?」
「おおたにしょうへい」
大谷翔平。ロサンゼルスか。なかなかに良いところを突いてきやがる。
「冬は野球やらへんから、見れへんで。アメリカならニューヨークか、ハワイか……」
「はわい!」
弟はカッパの生まれ変わりと評されるほど、浮かんだり泳いだりするのが得意なので、ハワイが気に入ったらしい。お前も好きよのう。
ちょうど貯めていたマイルが、三年の有効期限ギリギリだったので、これを使って航空券を取ろうと考えた。いいシーズンは軒並み満席だったので、パソコンにへばりついて、時計が0時になった瞬間、
タアンッ!
とキーボードを押し、なんとか半年先の空席を予約できた。
やった。やったぞ。
これで、ハワイにタダで行……
円安は?
あったな……そういや、そんな概念……!
もう円安の響きが怖すぎてさ、スーパーの値札とかも薄目でチラッと見るだけにしてたから。見なければなかったのと同じだから。円安越えて、円楽師匠の名前も怖くて見れないぐらいだから。
1ドル 158円だそうです。
「ってーことは……つまり……」
弟が大好物のコカ・コーラをハワイでクイッと飲んで、630円だそうです。
チュドーン!!!!!!!!
俺は高校生探偵、工藤新一。航空券を取るのに夢中になっていた俺は、背後から近づくドル円に気づかなかった。俺はその男に毒薬を飲まされ……飲ま……され……
水のペットボトル、一本400円だそうです。
飲めない!!!!!毒薬すら飲めない!!!!!!無味無臭の液体に400円も払ってたまるか!素で飲め、素で!んがぐっぐ!
昭和のサザエさんを見習っている場合ではない。もう航空券はキャンセルできないのである。それからしばらくしても円が下がる気配が微塵も感じられないので、わたしたちは腹をくくった。
いっそのこと、節約ハワイ旅行やと。
それはそれで、ええやんと。真冬にあったかい島で、海でバチャバチャできて、それだけで楽しいやんと。
ごはんはカップラーメンを、水はブリタの浄水ボトルを、持っていくことにした。
ホテルもね、出張で貯まってた楽天ポイントを全ツッパして、ちょっとランクの高いホテルを借りた。キッチンがついてるから、スーパーで買った果物や肉を、ちゃちゃっと調理しちゃって。
スーツケースに大量の荷物を詰めながら、なぜここまでして我々はハワイに……と何度か正気に戻りそうになったが、すべては弟のためなので。
「なあ、ハワイ楽しみやんなあ!行きたいって言うてたもんなあ!」
わたしは汗だくで準備をしながら、恩着せがましく弟の肩を叩いた。
「ハ……ワ……イ……?」
目が点になってた。完全に忘れている顔だった。沖縄でも全然喜びそうだった。深く考えたら膝がボキボキに折れそうになったので、視線を逸らした。
そうして、徹夜でもりもり詰めたカップラーメン、
空港で没収されました。
びっくりした。
アメリカにお肉を持ち込んじゃいけないのは知ってたけど、お肉エキスもだめなんだって。日清焼そばもカップヌードルも出前一丁もだめなんだって。ちょっと調べたらわかったことなのに、年がら年中大あわてゆえの詰めの甘さが牙を剥いてくる。わたしの敵はわたし。
あーばよっ、出前一丁!
スッカスカになったスーツケースに呆然としていたら、母が、
「あーっ!浄水ボトルも乾かしたまんま、忘れてしもた!」
めったに忘れものしないくせに、よりにもよって今日。
空港を走り回ったけど、どこにも売ってなかった。売っててくれよ。今から空港で一旗上げようとしてる人は、浄水ボトル屋さんを開業すべき。
グダグダっぷりに意気消沈しながら、飛行機に乗った。
六時間飛んで、ハワイに到着。
着いたら着いたでね、テンションが上がりました。コートを脱ぎ捨て、身軽な半袖に。気温はすべてを解決する。
ホテルに到着するまで、車からワイキキの様子をじーっと観察してたんですけども、人がめっちゃ少ない。特に日本人がいない。雨季の一月っていうのもあるやろうけど、たぶん、みんな円安が怖くて、来ないんだわ。
そういうわけで、ホテルのフロントでも、
「ガラガラだから、よければ無料でアップグレードしますわよ」
なんて、言われちゃいました。泣く子も笑い転げる5つ星ホテルですよ。もう一生泊まれないかもしれないのに、なんとデラックスルーム。
小躍りしちゃいました。
でっかいオーブン付きのキッチン、ふっかふかソファのリビングルーム、白亜のバスタブ、そしてなんと言っても、
オーシャンビューのテラスよ!
ハワイにまで来て料理せなあかんのかと、バブル世代の母はゲンナリしてたけど、このテラスで百八十度変わりましたから。
「やーん!朝はここで食べたらなんでも美味しくなりそう!」
デレデレしてましたから。
外食で贅沢することはできんけども、ホテルの部屋がこんなによかったらば、引きこもってるだけでも大優勝でしょうがよ。海なんてナンボ泳いでも無料ですから。最高。
地元のスーパーでバナナだの、ヨーグルトだのたっぷり買い込んで、巣ごもりの準備を整えた。
トマトがひとつ600円ですけど、見ないようにすれば、なかったことと同じなので大丈夫です。
一日目は飛行機で疲れたので、ホテルに戻って寝ました。
で、翌朝。
パチッと目が覚めた。
やることはもう決めてた。パジャマのままテラスに躍り出て、やわらかな風を吸い込んで、視界いっぱいに海と空の青さを……
……青……すぎやしないか……?
テラスに出たらなんか、下半分が真っ青だった。すさまじい青さ。海とか空とかそういうレベルじゃなくて、青色一号って感じ。
青いサイレンのパトカーと救急車と消防車が集まってた。一同に介しすぎ。はたらく車のオールスター感謝祭。
ここから先は
岸田奈美のキナリ★マガジン
新作を月4本+過去作400本以上が読み放題。岸田家の収入の9割を占める、生きてゆくための恥さらしマガジン。購読してくださる皆さんは遠い親戚…
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。