運転免許の一発試験に心が折れた日、八潮橋には馬がいて
自動車教習所を、二度も卒業したことがある。
入学費用も二度払った。
それなのにわたしは、運転免許を持っていない。一応、運転技術と知識だけは有しているので「ブラックジャックみたいなもんだし」と強がっている。
もう二年も前のことになるが、聞かれるたびに説明が面倒なので、いきさつをまとめておく。これがわたしの運転のすべてだ。
一度目の教習所通いは、大学入学前の春休みだった。運転の実習よりも、待合室に置いてあった『アイシールド21』という漫画にはまってしまい、教習所にノコノコと顔を出しては、漫画を読むだけで帰る日々を過ごしていた。なにを考えていたんだ。
教官も「このアホを野放しにしているとまずい」と思ったのか、バラエティ豊かな手を尽くして卒業させてくださった。ところが、想像を絶するアホのわたしは、仮免許証の失効日を一日間違えていた。
明石の運転免許センターに行くと、唐突に別室へ通され「きみ、これもう申請できないよ」と言われた。入学費30万円が、瀬戸内海の藻屑と消えた。
時は流れ、9年後。
車が運転できなくても別に不便はないけど、あの日の後悔を引きずったままのわたしは、ひょんなことから一発試験の存在を知った。
一発試験とは、教習所に通わず、警察の運転試験場で試験を受けて、免許をとることだ。
スムーズに試験を突破すれば、費用も3万円以下で済む。
そ、そんな……裏技みたいな方法が……あるなんて!もっと早く教えてくれよ!
汚名返上の時である。わたしは一発試験への挑戦を決めた。
教習所に通わなくてもいいとはいえ、運転のブランクがありすぎると試験で苦戦してしまう。S字クランクとか、縦列駐車とか、できる気がしない。
そこでわたしは、運転技術だけを教えてくれる教習所に通うことにした。座学や仮免許証の発行ができない代わりに、入学費はわずか5万円で済む。
「東京の主要駅からすぐ!」という歌い文句のはずが、実際はその駅に集合してからマイクロバスで1時間半かかる埼玉県の奥地まで運ばれたが。
わたし以外の生徒と教官はほぼ全員、中国人かベトナム人だったが。
教習車はすべて、どこぞの抗争の払い下げ品かと思うほどボコボコにへこんだ20年落ちのシビックだったが。
実習でまず教えられたのが「ボンネットの中にネコがいるかもしれないので、乗る前にボンネットを全力で殴り続ける」で、次は「ホーチミンでの左折は頭を入れたもん勝ちなので、闘争心を忘れてはならない」だったが。
仕事でボロボロの体にムチ打ち、往復3時間かけて、週末はそこで運転を習った。おかげでカンを取り戻すことはできた。
いざ、一発免許の試験である。
東京は品川にある運転試験場までやってきた。ここを運営しているのは警視庁であり、試験官も事務員も、現役の警察官なのだ。
まあでも、言うても、受験料を払ってるわけで。なんならあれでしょ、こっちはお客さまでしょ、くらいの気持ちで行った。甘かった。日本のサービス精神に慣れきってしまっていた。
試験の説明のために小部屋に集められたときから
「ここにお集まりの貴方がたは、ハンドルを握るブタです」
的な空気が、警察官の皆さまから漂っていた。もちろん、漂っているだけです。実際は丁寧な説明でした。原稿用紙から一切目を離さず、棒読みなだけで。目を見てくれないだけで。ニコリともしないだけで。
なんでこんなにも圧があるんだとビビったが、小部屋を見渡してみれば、事情はぼんやり想像できた。
なんか、こう、治安が……治安が、悪かった。全体的に。
ラッツ&スターを5年ほど地下闘技場に漬けたようなおじさん3人を筆頭に、レッドブルでバファリンを流し込んでいるギャル、最初から最後まで寝ているパンチパーマのおばさんなど、第一線で活躍していそうな面々が揃い踏みであった。この日だけかもしんないけど。
そしてみなさんの多くは、運転免許を持っていた経験がある。
つまり、一発免許とは。
わたしのようなド素人のためではなく、なんらかの事情で“免許取り消し処分”もしくは“免許の大幅な更新忘れで失効”になった者どもが「ダリィ〜〜もっかい教習所とかやってらんね〜〜〜まあずっと運転してたっし一発で余裕っしょ!」と受けにくる、怠惰でアウトローな仕組みだったのだ!(※個人の見解です)
それはもう迎え撃つ側も「来るなら来いやボケェ!ハンパな覚悟やったら返り討ちにしたんどオラァ!」という面構えが必要である。われわれはハンドルを握るブタだ。
試験は、尋常ではない厳しさだった。
教習所の仮免許試験とは格が違う。もう何十年も車を運転してきたであろう猛者たちが、バッサバッサと、警察官になぎ払われていく。容赦などない。
おじさんはハンドルを片手で持って落とされた。おばさんは道を譲ってくれた車にお礼のパッシングを鳴らして落とされた。ギャルは左折するときの巻き込み防止の目視が甘くて落とされた。
「ちゃんと左の窓、見たんスけど……」
ギャルが不服そうな顔で言うと、採点していた警察官は
「それ、ちゃんと見たって言えないから。こうだから」
淡々と言って、やってみせた。それはもう、首がモゲてるんちゃうかと思うほどの角度だった。『リリック』のサビ前のドラムを叩くTOKIOの松岡くんぐらい曲がってた。逆に心配になるわ。
恐怖におののいた他の受験者は、以降、左折するたびに大乱闘のスマッシュ技を放つ時ほどの勢いで、大げさな目視をすることになった。
30人ほどいた受験者のうち、この日の合格者は0人。
熾烈すぎる。誰が受かるんだ、こんなもん。
ちなみにわたしは、車を出発させることすらできなかった。
ここから先は
岸田奈美のキナリ★マガジン
新作を月4本+過去作400本以上が読み放題。岸田家の収入の9割を占める、生きてゆくための恥さらしマガジン。購読してくださる皆さんは遠い親戚…
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。