渋谷マウンティング戦記
相手より優れていることを見せつけるような動物の言動を、マウンティングという。まさか自分がそのマウンティングをする羽目になるとは、思いもしなかった。
税理士の山田真哉先生たちと打ち合わせをしに、渋谷に来た。
いつもはオンラインだけど、たまたま東京にいたので、新刊を手前味噌に携えて。
いろんな会社が入っている8階建てのビルに着いた。
約束の5分前に、受付のお姉さんに
「税理士の山田先生とお約束いただいてる、岸田です」
と言い、ソファで待っていた。
しばらくして、
「あの……こんにちは……」
別のお姉さんが迎えにきた。スーツ姿で、年齢はわたしと同じぐらい。自信なさげで、声がすごく小さかった。
「えっと……ゴニョニョニョ……」
「ん?」
「その、山田さん……ゴニョニョ……?」
かろうじて、山田さん、だけが聞き取れた。
税理士の名前は、山田先生である。
そうか。この人は山田先生の秘書かなんかで、迎えにきてくれたのか。
「あー!はいはいはい!そうです!」
お姉さんはホッとした顔をする。
「お待たせしました、こちらへどうぞ」
開けっぱなしのリュックやら、かさばる紙袋やらを、あわててガッサガサと抱え、エレベーターに乗る。
降りた階は、いつもと違う階だった。
「え、今日はここなんですか」
「……?はい、こちらです」
お姉さんには申し訳ないが、わたしはこの時点でほんの少し、ガッカリしていた。
そこはビルで働く人たちが自由に休憩やミーティングで使える、オープンスペースだった。ついたてなどは無く、ゴリゴリに開けている。なんならスパゲッティとか食ってる人もいる。
ここで、わたしの、税務の話を……?
なんだよ、なんだよっ。
前まではちゃんと個室とってくれてたじゃんか。岸田はもうここでサクッと終わらせてええわってことか。領収書ちゃんと出してくださいってなんぼ言うても出さんから、見せしめにしたろってことか。
ひどいや、山田先生!
ゴリゴリに開けたテーブルに、案内され、
「ここで少々、お待ちください」
言ったお姉さんも座り、ノートパソコンを開きはじめる。
あんたも同席するの?
「こんにちはー!」
即座にもうひとりやってきて、お姉さんのとなりに座った。黒いTシャツと黒いスラックスに身を包んだ、巨体のお兄さんだった。
「こ、こんにちは……」
フリーズするわたしに、お兄さんは満面の笑みを浮かべている。
誰や、この人。
……はっ!もしかして、わたしのファン?
山田先生は忙しい人である。ちょっとばかし遅れても、きっと不思議じゃない。この人たちは、山田先生と一緒に働く部下で、岸田奈美が来ると知って、会いにきてくれたんだ。
なぜかこの時のわたしは、面の皮を厚くする方向で、納得してしまった。
「先生、今日はどちらから来られたんですか?」
先生!
本を出しただけで先生と呼ばれると、むずかゆい。
「あ、えへへ、関西のほうから……」
「なんと、そうですかー!」
お兄さんは、うんうん、と頷いて、
「それで、保育士の仕事を始めたきっかけは?」
始めてません。
ほ、保育士?
あっ、先生って、そういう?
急に恥ずかしさがこみ上げてくるが、頭は冷静だった。今日のわたしは冴えていた。
待てよ。この人たちは、もしかして、国税局の使いではないか。脱税を取り締まるマルサというのがいるらしい。大切なことはすべてテレビドラマから学んだ。
昨年、わたしが提出した確定申告書に、保育士でなければ認められない経費が発覚して、抜き打ちに来たのではないか。
山田先生は、敏腕の税理士である。
……これ、うまく話を合わせろって、ことでは。
「ああ、ええと、うちは弟がいて、弟と遊ぶのが好きなんで……」
「そうですかあ、弟さんが」
弟は28歳である。
ド成人。遊ぶったって、ユニバ行くとか、そういうのである。保育園に通ったことがないので、保育士就職への解像度が低すぎる。心臓が潰れそう。
愛想笑いをしていたお姉さんが、スッと何かをテーブルの上へ出す。
保育園のパンフレットだった。
「今回はこちらへの勤務をご希望ということでしたよね」
「あっ、ちがうわコレ」
「「えっ」」
わたしは、弾かれたように立ち上がった。
「すいません、これたぶん、ちがうわコレ」
お兄さんとお姉さんから、笑顔が消え失せる。
「弊社の保育士に応募された、山田さんですよね?」
知らんおじさんの顔写真が貼られた履歴書を見せられた。
「ちがいます」
びっくりした。
山田さんって言うから、山田先生のことかと思っちゃった。アンジャッシュみたいじゃん。
聞き間違えたわたしも悪いけど、履歴書で男か女かぐらい、わかんないのかよ!
「最近は多様性への配慮もあるんで……」
裏目に出た多様性!
それにしても、わたし、爪が蛍光オレンジで、シースルーの上着と、スポーツサンダルやぞ。こんな保育士おらんやろ。
「面接時の服装も多様性で特に指定は……」
もう多様性はいいよ!
わたしはずっと、すみません、すみません、とクセでペコペコ謝っていた。
「えー、そんなはずは、えー」
「ですよねえ、えー、えー」
お兄さんもお姉さんも「えー」しか言わない。いま思うと、テンパりすぎて情報が処理しきれなかったんだろうけど。
オープンスペースで会話は筒抜けのため、まわりの視線も感じる。
急に、めっちゃ、恥ずかしくなってきた。
「……あの!わたし、税理士の、山田先生と打ち合わせできたんです!」
でっかい声で言った。
わたしだって悪くないんです。なんなら、ちゃんと、税理士と打ち合わせっていう、確固たる目的があるんです。えっへん。
お兄さんは、
キョトン
とした。
人間は、恥が瞬間的に頂点に達すると、怒りに変わるのである。
わたしは、カッとなった。
「……芸能文化税理士法人っていって、有名なところなんですけど?」
うん?
どうした?
お兄さんもお姉さんも、知らなかったみたいで、完全に困惑していた。
それよりも困惑していたのは、わたし。
どうしたどうした?
なんで急に、そんなこと言いはじめた?
「あ、知りませんか? ヘヘヘヘッ、芸能人か、文化人しか、担当してもらえない税理士なんですけど?」
芸能人と文化人以外も、担当してもらえるよ。
頭と口が、切り離されたみたいだった。なんかスルッスル、余計な言葉を印籠のように突き出してしまう。
数秒して、お兄さんが、
「あっ、へえー」
と言った。空気を読んだ人のセリフ。
「わたし、岸田奈美っていって、」
やめろ。
もういいよ。
もうなにも言わないでよ。
「最近、NHKでドラマ化とかされた、エッセイストなんですけど?」
誰かわたしを狙撃して。
今すぐスナイパーに依頼して、向かいのビルから狙撃してもらいたい。羞恥の血を流して死にかけている心とは裏腹に、声はでかく、顔にいたっては、
ドヤァ。
見事なドヤァ顔だった。鏡など見なくてもわかる。口の端がピクピク引きつっている。
「ああー!」
お兄さんが、急に手をバンバン叩いて、笑った。やっと状況を理解したお姉さんは、泣きそうになりながらも、つられて手を叩いている。
そして、唐突な無言。
知らんよね。
絶対、知らんよね。
結局、最後まで一言も謝られないまま「山田になりすましたお前が悪いやろ」という雰囲気のまま、追い返された。
きっとあのお姉さんは、あの後、めちゃくちゃお兄さんから怒られるだろうから、頭がいっぱいいっぱいだったんだろうね。
エレベーターの中で、わたしは一人、消えたくなっていた。
マウンティングだった。
びっくりした。マウンティングなんて、自己肯定感もプライドも低いこのわたしとは、無関係だと思ってた。まさか。
マウンティングの構造を急に理解してしまった。
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。