トリック・オア・精力剤
つい2時間前のこと。
終電で実家に帰ったら、母がベッドで海老になっていた。背中を丸め、耳をすませば「ウウゥ」と、うめき声も聞こえる。哀しい海老である。
「胃が……胃が痛いよォ……」
昨年、我が家を壊滅させたウイルス性胃炎を思い出し、わたしは飛び退いた。シュバッ。
「ちゃうちゃう。昔から、季節の変わり目に毎年なるやつやねん……」
竹馬の友ならぬ、竹馬の胃痛。母の経験では、胃腸薬を飲んで半日も寝ていれば、ケロッと治るそうな。
けど、運の悪いことに、薬は切れていた。
もう0時を回ってる。
こんな時間に無理だろうなと思いながら、Google mapで「薬局 営業中」と調べてみた。
あった。
ただ、どう見ても写真は、個人経営の寂れた薬局だ。ああ、こういうのね、あるある。ネットに疎い店主がね、営業時間を間違えて登録しちゃってるやつ。前にうちの近くでも、24時間営業のハンコ屋が載ってた。不気味。
ダメ元で電話してみた。
『はい、もしもし!○○薬局です!』
出た。しかも、やけに活気のある声である。マジでやってんだ。
「なんか、近くに薬局あるから、行ってくるわ」
「えっ?もう0時すぎてるで」
「3時までやってるらしい」
「うそやん……でも、そんなん悪いわァ……」
母は遠慮がちに断った。
「ええよ、ええよ。タクシー乗ったら5分もかからんし」
こっちも食らいついた。
子は子で、必死なのである。
なぜなら明日、わたしと弟は、ジブリパークに行くのだから!
全国旅行支援が始まった時期、絶望的に重いJTBのサイトに8時間へばりついて粘り勝ちしたプレミア入場券である。もちろん、親愛なる母には代えがたい。代えがたいのであるが、できれば、行きたい。後ろめたさがない状態で、気持ちよく行きたい。ひときれのパン、ナイフ、ランプ、カバンに詰め込んで。着替えとか、もう詰めちゃったし。
隣にいる弟を見た。弟も察したように、視線を送った。
ジブリパークに行きたいという、無言の強い意志!すまん、母よ!できるだけのことは、してやるからな!
「ほな、今から行ってくるわ」
「一人で危なくない?」
「良太にもついてきてもらうから、大丈夫やで」
「えっ」
弟の声だった。「えっ」は、確かに弟の声だった。戸惑っているときの弟の声だった。
「あっ……いく、ます」
空気を読んだときの弟の声だった。
タクシーを降りたら、そこは終末だった。
人が……人が異常に多い……!
駅前の広場のあちこちで、若者が酒を片手に騒いでいる。何人かは地べたで寝ている。ほんで、なんか、トンチキな服を着ている。
今日は10月31日、ハロウィンやないか。
よりにも、よりにもよって。
「島根からどうやってきたん?」「バスあんねん」「おれ香川から運転してきた」的な会話が聞こえてくる。いちいち兵庫に集結すな。甲子園とちゃうねん。倉敷とかで一旦、集まってくれ。
弟はわたしと歩くとき、絶対に横ではなく縦に少し離れて並ぶので、そのせいで別々に客引きやナンパをされて全然前に進まなかった。
ナンパといっても
「お姉さん!ホテル代おごるんで、今からどっすか?」
という、負け戦寸前の雑兵が狙いも定めずヤケクソで撃ちまくる火縄銃のようなナンパである。練度が低すぎて、涙が出てくる。成仏せよ。
やっとたどりついたその薬局は、歓楽街の入り口にあった。
ネオンではなく、場違いなほど真っ白な蛍光灯に浮かび上がるその姿は、紛うことなき薬局だ。むちゃくちゃ浮いている。
足を踏み入れた。
ものすンごく、散らかっていた。
壁には、A4用紙にマジックで手書きしたポスターが、ビリビリに破れた状態で貼られている。棚には、薬のパッケージが乱雑につっこまれている。陳列という概念はなく、一個一個、メーカーも種類もバラバラだ。請求書か処方箋か、とにかくなんらかの紙の束が、大量に棚の上で散らばっている。
サトちゃん(オレンジ色のゾウ)のフィギュアが置いてあるのは薬局らしくて安心するが、なぜか頭と胴体にわかれて棚にねじ込まれているため、総合的にはギリギリ不安である。
カウンターで、白衣を着た薬剤師のおじさんが一人、黙々と作業をしていた。
なにやってるんだろう。
見たことない発色のカプセルを、ひたすら袋へ小分けにしていた。
こんなもん、黒の組織が御用達のやつではないのか。袋になんも書いてないのが恐ろしすぎる。こんな状態で売られてるまともな薬、ある?
「あっ、どうもこんばんは!」
薬剤師のおじさんの明るい声と笑顔に、ちょっとだけ緊張がとける。
「あの……それ……なんですか?」
「これはね、これなんです」
薬剤師のおじさんは、胸につけてある名札を指さした。それは名札ではなかった。「精力剤」とでっかく印刷されてる名札のようなバッジだった。なんの意図で製造されたんだろう。おじさんの正体が巨大な精力剤だと明かすメリットが、この世のどこに。
謎は、すぐに解けた。
一人のお客さんが、薬局に飛び込んできたのである。
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