
言葉にしなかった、言葉を見る人|@淡路島
10月22日発売「小説現代11月号」に掲載している連載エッセイ全文をnoteでも公開します。表紙イラストは中村隆さんの書き下ろしです。
「そうそう、ニコラス・ケイジっておるやんか。わたしはあれ、ニコラス刑事やと思っててん。刑事さんが演技もやる時代になったんや、せやからスタントも上手いねんな、普通の俳優さんではこうはいかんからね……って。びっくりしたわ。あとな、ヒヤリハットもそういう帽子があるんかと思ってたんよ。奈美ちゃんも思ってたやろ。えっ、思ってへんの?そんなアホな……。えっと、なんの話やっけ。そうやそうや、来週そっちで仕事があるから、泊めてほしいねん。あんじょう頼むで」
電話口で母は言った。
母は父と結婚してわたしを生んでからずっと神戸の実家に住んでおり、異国情緒あふれるええとこのお嬢さんという雰囲気を醸し出そうとしているのだが、実際は大阪の下町も下町で生まれ育った、コッテコテの女である。
身体がほっそりとしており、両目はアーモンドのように大きく、五十一歳には見えない若々しさとおしゃれさを併せ持っているので、よくわたしは「あんなキレイで上品なお母さんを持ってうらやましい」と褒められることがあるのだが、騙されてはいけない。
「奈美ちゃんは、あれやろ、インフルエンサーってやつになったんやろ。わたし、最初はあれインフルエンザーやと思ってて、あんた高熱出とるんかとびっくりしたわ。あわてすぎてスマホでメッセージ書いて送ろうとしたらさ、打ち間違えてウンフルエンサーになってもうて。あっ、これは言うたらあかんで。恥ずかしいから」
このように、着地点を作ろうともしない話を、深夜一時ごろにぶち込んでくるのが本来の母だ。
なにわが生んだ「しょうもない話」を、完全無添加無農薬で日々製造し続けている。誰も注文した覚えはないのに。だがエコとサスティナブルが重んじられるこのご時世、この話をその辺に捨てっぱなしにしておくわけにもいかないので、母の意向に反して、とりあえずここに書いておく。
今でこそ母とは、いることも、いらんことも、なんでも話せる間柄になっている。嬉しいことがあれば二人で喜び、悲しいことがあれば二人で憂い、ふん縛って市中引き回しにしたいやつを見つけたら二人で策略を練る。母娘という関係性が時と場合によって、親友のように、戦友のように、ミッチーとサッチーのように、グラデーションのごとく移り変わり続けている。わたしたちにとって、それはとても居心地が良い。
でも実は、子どもの頃からこうだったわけじゃない。
特にわたしが高校生だったときは、ひどかった。弱小大名同士のいさかいのように、陰湿でせせこましく誰も得しない争いを、母とは繰り返していた。
なぜ子どもに反抗期というものが起こるかと言うと、心のなかに「子どもの自分」と「大人の自分」が同居するからだそうだ。はやく大人になりたいと憧れる一方で、日々成長していく心や身体の変化についていけず、まだまだ子どもでいたいと願い、そういう矛盾のある状況だとささいなことで感情が暴れたり、ささくれたりするらしい。
わたしの場合、中学二年生のときに父が亡くなり、高校一年生のときに母が急病で下半身麻痺になるという、岸田家全体がパニックになるような出来事が立て続けに起こったので、まさに「子どもの自分」と「大人の自分」がわたしの中にやかましく同居している状態だった。両親に甘えたかったけど、そんな余裕はどこにもなく、不幸に負けないたくましい人として振る舞わねばならなかった。
たぶん当時のわたし、『母をたずねて三千里』のマルコか、『フランダースの犬』のネロくらい、健気感があふれ出ていたと思う。
母が退院し、手動装置で運転する自動車免許をとり、仕事に復帰して、岸田家に平穏が戻り始めると同時に、わたしの押し込めていた反抗期が口火を切ったのだ。反抗期というより、もはや反動期に近い。
「ご飯作ってなんて頼んでへんもん。もっとカロリーが低くて、瘦せるものが食べたいのに」だの「学校なんて行っても意味ないから、行かへん。お母さんだって、苦労して短大卒業しても結局、主婦やってるやん」だの、いまのわたしが当時にタイムスリップしたら張り手のちジャーマンスープレックスを極めたいくらい憎たらしい言葉を、過去のわたしは吐いていた。
いま、目で読める文章にしてみて気づいたけど、それらは母に対して本当に抱いていた感情ではない。
わたしの本音は「ご飯を食べたくない」でも「学校へ行きたくない」でもなく、「自分でもコントロールできないこのイライラを、わかってほしい」だった。自分の苦しみを、母にも同じように感じてもらうことで、共感という安心を得ようとしていた。
つまりは甘えだ。どうすれば母が傷つく言葉を投げられるか、ただ、それだけを考えていた。
その歪んだ欲求はどんどんエスカレートしていき、言葉にするだけでは足りず、わたしは学校を休みがちになった。
「学校、卒業できへんくなるで。ちゃんと行かんと」
母が心配そうに言うのだが、間髪入れずに「卒業できなくてもいい」「学校なんか行かなくてもいい」「そもそも、一年生のときにお母さんのお見舞いで病院に入り浸ってたから、勉強についていけへんくなってん」などと思いつく限りの憎まれ口を叩いた。
どうしようもない。
そしてある日、記憶のなかでもずっとどす黒くこびりつくように残っている、最大で最高に嫌な言葉を、わたしは母に投げつけた。
「お母さんは、わたしと性格が真逆や。真面目で、丁寧で、おとなしい。せやからわたしの気持ちなんて一生わからへん。わたしはお父さんに似たから。お父さんやったら、わたしのことをわかってくれるはずや。お父さんやなくて、お母さんが死ねばよかったのに」
書いていて、吐き気がしてきた。そのときの母の表情も、返事も覚えていないけど、ただわたしは「やってしまった」とおおいに戸惑い、手を震わせていたことを覚えている。傷つけたかった。本音じゃなかった。でも、止まらなかった。
年齢を重ねるたび、風船がしぼんでいくみたいに、わたしの反抗期は少しずつ収まっていった。高校もいつの間にか普通に通うようになり、卒業して大学にまで進学した。ゆるやかに時間が心のささくれを風化させていったのだろうと思っていたが、実は、最近になってそこには母の思惑がかかわっていたことを知った。
今年の春、母と淡路島に出かけ、部屋についている温泉につかって、どちらからともなく思い出話をはじめたときだ。
「奈美ちゃんが高校生やったとき、めっちゃケンカしたよな。今は考えられへんけど」
「あれは……反抗期やったから、しゃあないわ」
わたしは、申し訳ないような、恥ずかしいような心地で返事をした。
「どうしたらわたしと話をしてくれるやろうと思って、あれこれ試したんを覚えてるわ。懐かしいなあ」
そんな話は初耳だった。母が振り返るには、こういうことだった。
「学校行きたくないとか、ご飯食べたくないとか、絶対に理由があるはずやろ。理由を聞かへんことにはなにもしてあげられへんし、解決もできへん。でも、イライラしてる奈美ちゃんにはなにを言っても届かんやろ。寄り添って理由を聞こうとしても『ほっといてよ』って突き放されるし」
ばつが悪そうに聞いているわたしに気づいて、母は「でもそれは、子どもだけじゃなくて大人も一緒。怒り狂ってる人をなだめるってめちゃくちゃ大変やから」と苦笑いした。
「せやから、奈美ちゃんがイライラしてるときは、とにかくなにも言わずにその場をやり過ごしてな、逆に機嫌が良くなるときはいつやろうって観察しててん。人って、好きなことしてる時とか、落ち着く場所にいるときはリラックスできるやんか。奈美ちゃんにもきっとそういう一瞬があるはずやと思って」
「噓やん。わたしにそんな時あった?」
「見てるだけやとわからんから、マクドナルド連れて行ったり、家でコーヒー入れてみたり、映画のDVD借りに行ったりいろいろしてみてんけど……なかなか機嫌いいときがわからんくて、苦労したわ」
びっくりした。母がそんな試行錯誤をしていたなんて、まったく気づかなかった。むしろなんでこの忙しいのにマクドナルドにナゲット買いに行くねん、くらいに思っていたはずだ。
「でもな、わかってん。奈美ちゃんはわたしが運転する車の助手席に乗って、好きな音楽を聞きながらドライブしてる時がいちばん機嫌が良いんやわ」
「あー……たしかに、なんかそう言われたらそんな気がする」
わたしは運転免許を持っていないが、人が運転する車の助手席に乗るのが好きだ。カーステレオから流れてくる歌を口ずさんだり、スマホでツイッターを流し見したり、運転席の人と雑談や大喜利なんかで喋ったりするのが楽しい。
「それで、奈美ちゃんとしっかり話したい時は、なんやかんや理由をつけて車に乗ってもらうようにしてん。学校の送り迎えとか」
「えーっ。それであの時、寝坊してもぜんぜん怒らずに送ってくれてたんや」
わたしの家から高校までは、電車と徒歩で一時間くらいかかる。車で行くにも微妙に不便で、有料の高速道路を通らなければいけない。それでも母は、多いときは一週間に二度くらい、車でわたしを送り届けてくれた。学校に行きたくなかったわたしも、楽して通学できるのならと、喜んで車に乗り込んでいた。そのせいで朝起きるのが遅くなったり、一時間目の授業に間に合わなかったりしたけど、母はまったく怒らなかった。
まさか、そんな理由があったなんて、思いもしなかった。
「車の中だけは機嫌が良かったから、奈美ちゃんがほんまに思ってることを色々聞けたんよ。それでわたしも本音を打ち明けて、ようやく会話ができるようになって……」と言う母。
その目論見は見事に的中していて、わたしは本当は大学に進学したいと思ってることも、母のお弁当が美味しいことも、今となってはバカバカしい失恋をしたことも、ぜんぶ車の中で話していた。
今でも、母といちばん会話が弾むのは車の中だ。普通に喋っているときの二倍くらいやかましいし、三倍くらい新しいアイデアが次々と浮かぶ。車に乗ったらとりあえず、ぶっちゃけ話をしないといけない気分になる。密室がそうさせるのだろうか。わからないけど。
「あの時、車でいっぱい話せたから、今も奈美ちゃんと仲良くできてるんやと思うわ」
「うん、わたしもそう思う。ほんまにありがとう」
あの時、めちゃくちゃなことばかり言っていたわたしとの対話を諦めず、機嫌がよくなる場所を探し続けてくれた母に、ようやくお礼を言うことができた。あの時の母の努力と心づかいがなければ、今ごろわたしは、大切な話し相手を失っていた。
そしてわたしは、ずっと心の奥でゴツゴツした岩のように引っかかっていたことも、打ち明けた。この時は、車ではなくて、湯船の中だったけど。
「あのな、高校生のとき、『お父さんじゃなくて、お母さんが死ねばよかったのに』って言ったん、覚えてる? あれ、ほんまに、ほんまにごめん。噓やから。思ってなかったから」
わたしが言うと、母はきょとんとして、ああ、と思い出したように笑った。
「ええねん、ええねん。あんなん、奈美ちゃんの本音じゃないってわかってたから、痛くもかゆくもあらへんかった」
「なんで?」
「親やもん、わかるで。子どもが口で言うことより、言ってないことの方をちゃんと見たらわかるときもあるねん。あの時、奈美ちゃんが口で言うことはぜんぶひどい言葉ばっかりやったかもしれへんけど、なにも言わずにお弁当は全部食べてたし、弟を遊びに連れ出してくれたし、お風呂場までタオル持ってきてくれたし……そういう、奈美ちゃんのちょっとした優しい行動をわたしは見てたから、わたしに死んでほしいなんて思ってないってわかってた」
救われた気がした。
わたしがいつかだれかと結婚して、旦那なのか子どもなのか、とにかく大切な人と暮らす日がきたら。
機嫌が良いときをしっかりと探して、口に出さない言葉にこそ、目を向けたいと思った。そういう、母みたいな人になりたいのだ。
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