海ゆられ横顔にさす陽の光
海に入りたい。
沖で魚が見たい。
そういう衝動が、わたしにはある。
プールも、川もダメ。
「ぜったい、海!」
海水浴も、ダメ。
「ぜったい、沖!」
わたし、シュノーケリングがしたい。
昨年の秋、ちょうど家族で沖縄旅行をしている時に、思い立った。見渡す限りのええ海。行くっきゃない。
……でも、行けない。家族といる時は。
なんてったって、母は車いすである。泳げない。
昔、めっちゃ元気な知人が、
「車いすでもダイビングできるんだよ!あきらめないで、夢を叶えよう!」
母を説得し、勢いにつられてわたしも、
「そうや!ママ、夢を叶えよう!」
と言った。
母は嫌がった。
またまた遠慮しちゃってえ、と思ったが、どうやら本当に嫌だったらしい。
「海はヌトヌトなるから、入りとうない。眺めとるだけがいい」
車いすで海に入れてあげるという話は、それからも何度かあったが、母は笑顔で逃げまわっていた。
だが、ある時、“海に入れる車いす”を試すという仕事が舞い込み、断れなくなってしまった。
「よかったですね、岸田さん!夢が叶いますよ!」
めっちゃ元気なボランティアの方々が、母をダバダバと担いでいった。
「海はヌトヌトですから!ヌトヌトですから!」
断末魔の声をあげ、母は海に漬けられた。
「ひえええええええ!」
せっかくだからとポイントを変え、二度漬けされていた。
人をかわいそがって、夢を押しつけてはならないと学んだ。夢ハラスメントである。まあ、それはそれで、いい経験。
そういうわけで、母と泳ぐわけにはいかず。
んなら、ダウン症の弟はどうかというと。
彼はプールで泳ぐのは得意だが、物心ついてから海で泳いだことがない。物心というのがどれを指すのかは複雑だが。
更衣室のロッカーを閉める仕組みすら、戸惑って出てこられなかった弟である。
バカでっかいストローみてえなのをくわえ、大海原に出る仕組みに、ついてこられるわけがない。
目や鼻に水が入ったら、パニックになるかもしれない。
そうなりゃもう、事故、事故!エライコッチャ!オジー自慢のエライコッチャ音頭!
「……しゃあない、ひとりで海いくわ」
ホテルでシュノーケリングツアーを予約すると、弟がヌルッと覗き込んできた。
「なにしてるんですか」
「海で泳ぐねん。でも、こう、鼻でスースーするから、難しいねん」
「ああ、そか、そか」
弟は目を閉じ、祈るようにうなずいた。
「ぼくも、いきます」
「えーっ!」
いやいや、ちゃうねん、あんたが思ってる泳ぐのとはちゃうねん、と身振り手振りで説明し続けたが、弟はウキウキで、タオルをリュックに詰めている。
えーっ、えーっ、えーっ!
ベッドに転がっている母に助けを求めたが、
「……いける、いける!知らんけど!」
弟のことにおいては慎重派の母が、意外なり。二度漬け仲間を増やそうとしているのかもしれない。
わたしは渋々、シュノーケリングツアーの会社に連絡した。
「人数がひとり増えてもいいですか?」
「もちろんですよ」
「それがその、弟なんですが、ダウン症で知的障害がありまして」
「……あー、えっと、あー、そうですね、ちょっと……上と確認させてください」
丁重に断られてしまった。
地元でプール教室を探す時も、これで大変だった。気持ちはわかる。言葉で説明できない、飲み込みも早くない弟は、危ないし。
次も、その次の店も、断られてしまった。
最後の店は、個人でやってる小さなところみたいで、余計に無理だと思った。わたしは弟を穏便に巻くところだけを考えていた。
そしたら、
「用意させていただくウェットスーツのサイズは、どうしましょ?」
「……えっ、弟もいいんですか?」
「問題ありませんよお。他のお客さんもいれませんから、ゆっくりレクチャーさせてもらいます!」
弟は身長がかなり低くて、でっぷり体型なのだが、ウェットスーツも準備してもらえることになった。
「すてきな思い出になるよう、がんばりますねえ」
翌日。
港に集合した。
車から降りてきたのは、インストラクターのおじさんだった。日に焦げた、筋肉質のイケてるおじさん。沖縄風に言えばイケオジー。
「いやあ、天気がねえ、よくなくて……本当はボートで離島まで行きたかったけど、ビーチから入りましょうねえ」
残念だけど、残念がってる場合でもない。
果たして、弟は、潜れるのだろうか。
まず、水着の上からウェットスーツを着た。ぴったりしていて、意外と力がいる。
弟は、
「こらあかん!こらあかん!」
片足でぴょんぴょんし、ずっこけて、命からがら着ることができた。タイトなスーツにねじ込む、弟というムッチムチのボディ……。
足ひれをつけて、ゴーグルをつけて、
「いざ!」
イケオジーの後を追い、ビーチに向かって行進する。かなり深くて、少し歩いただけで、もう足がつかない。
弟は、直立不動のままターミネーターのごとく沈んでいき、くわえたシュノーケルの棒の先から、ピュー!と水が飛び出た。
お前はクジラか。
「ふがっ、ふがっ」
「良太、力を入れたらあかん!浮くんや!」
一回転して、弟は仰向けのままプカプカ浮いた。そのまま波に押し戻され、砂浜へ。
お前はラッコか。
弟はフウと息をつくと、そのまま足ヒレをペタペタして、ビショ塗れのまま砂浜にあがっていった。生物の進化は海から始まったのだ。
そのまま浜に体育座りをした弟は、船を沈められ、逃げ落ちた武士のよう。進化が早い。
「これはもう……無理やな……」
言わんこっちゃない。わたしは弟を二度漬けする気力もなく、呆然としていた。するとイケオジーが、
「ちょっと待っててください!いいもの持ってきます!」
といったん車へ行き、戻ってきて、なにかを海へ投げた。
ヒモのついた、でっかいビート板だ。
「これにつかまったら、怖くないかなあって」
弟がビート板につかまる。
イケオジーが、先頭を泳ぎ、ヒモを引っ張る。
スイー、スイー。
沖まで牽引されたところで、弟が!
ついに!
海へ、顔を、つけた!!!!!!!!!
「うわーっ!」とか「すげーっ!」とか、言うもんかと思いきや、弟の第一声は
「はいはい」
だった。
なんか「やってる?」的な。居酒屋ののれんを、こう、くぐって、覗いて、はいはいやってますねっていう。あふれでる確認作業感。
弟は何度か顔をつけて、しばらくしたら、ずっと顔をつけていた。
弟のシュノーケルの先からは、シュコー、シュコー、と聞こえる。
すっげえ……!
ちゃんと息、してるよ。
このへんの海を知り尽くしているイケオジーは、わたしたちを振り向きながら、サンゴ礁のほうへ連れていってくれる。
「あっ!ニモや!」
弟が、海の底を指さした。
地元の高校でグレちゃったタイプのニモや。顔こわっ。
ヤンキーニモのそばに、黒光りする物体が見えた。弟はビート板があるから、潜れない。
「よっしゃ、姉ちゃんに任しとき!」
わたしは張り切って、潜水し、
ナマコを手づかみして、ビート板の上にデンッと置いた。
「取ったどー」
弟は「えっ、いらん」という顔でドン引きしていた。夢ハラスメント、ふたたび。
たっぷり泳いで、雨が降ってきた頃に、沖へ上がった。
イケオジーが撮った写真を見せてくれ、パイナップルも食べさせてくれた。世界一おいしいパイナップルだった。
「断られるかと思ってたので、ここにお願いしてよかったです」
「いやいや、ぼくも楽しかったですよお」
「めっちゃ慣れてはったけど、障害のある人もけっこう来るお店なんですか?」
「今日が初めてよお」
「えーっ!肝が!座ってらっしゃる!」
思わず拍手したら、イケオジーはちょっと照れて、
「ぼくの親戚の息子さんがね、ダウン症なんだよね。いい子でね。それを思い出してね」
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。