難関中学の入試問題の原作者になったけど設問が解けない理由を考えて、編集者にたどり着いた
2023年2月3日、日付が変わるギリギリで思い出した豆をひとりで、鬼のお面をしながら、四方八方にまき散らしていたときでした。鬼みずから。少子化。
「岸田奈美さんのエッセイが、難関中学の今日の入試問題に出ました!」
なんですって!
調べたところ、東京の筑波大学附属駒場中学校だった。都内……偏差値……1位……!?
昨年は、京都大学医学部の入試でミャンマー行きのエッセイを、灘中学校の模試でバズった母のエッセイを使ってもらった。偏差値が、偏差値が軽々とスキップでわたしの頭を飛び越えていく。
出題されたのは、光村図書「飛ぶ教室 第65号(2021年4月発行)」に寄稿し、「ベスト・エッセイ2022(2022年8月発行)」に転載されたエッセイ。
ダウン症の弟が、ガラスを割った罪を、近所の子どもからなすりつけられそうになったときのこと。なつかしい。
設問も一緒に、読ませてもらったから、解こうとした。
結果、解けなかった。
原作者、無念の大惨敗である。
原作者なのに、原作者の意図が、わからない。
笑い話のようだが、わろてる場合ではない。
こういう時はいったい何が正解なんだろうかと考えたら、ひとつ「入試問題で本当に問われてるのは、原作者の意図なんかじゃないのでは?」という考えにたどりつき、問題を作った人への称賛と、編集をしてくれた人への感謝に包まれたので、この多幸感を残しておきたい!
まずは、エッセイのほうをお読みください。
入試問題に掲載されたエッセイ「ガラスのこころ」
(※寄稿時に転載許可あり)
がしゃん。ぱりん。
また今日も、コップを割ってしまった。きょろきょろして落ち着きのないわたしは、小さな頃から、袖にひっかけたり、取り落としたりして、とにかくガラスの食器を割りまくってきた。四つ下で、ダウン症の弟の方が、わたしよりよっぽど慎重だ。彼はまるでヒヨコでもすくうかのように、ずんぐりむっくりした手で大切に食器をあつかう。レストランへ行くと「姉ちゃん、あぶないで」と、彼がわたしの袖元からお冷のコップをそっとよけるのを見て、母はたまげていた。
そんな弟がガラスを割ってしまったところを、二度だけ見たことがある。二十五年目を迎えるの彼の人生で、たった二度だけ。母には言っていない。わたしと弟だけのひみつだ。
一度目は、弟が中学生のときだった。いつも学校が終わると、道草をぞんぶんに食いながらのらりくらりと機嫌よさそうに帰ってくるはずの弟が、ちっとも帰ってこない。住んでいるマンションの玄関を出て、エレベーターに乗り、一階のエントランスへ様子を見に行くと、なんとそこに弟がいた。顔を真っ赤にして、両目に涙をため、口をきゅっと真横に結んでいる。弟に対峙しているのは、小学生くらいの男の子が二人、さらにマンションの管理人だ。そしてなにより驚いたのは、エントランスのガラス扉が、派手に割れていたことだ。
「なにごとですか」
ぎょっとして、わたしがたずねる。膠着状態の子どもたちに代わって、状況を説明してくれたのは管理人だった。
「ガシャーンって大きな音がしたんで見にきたら、この子たちがいてね。事情を聞いたら、『岸田さんとこのお兄さんが突然、暴れて割った』って言うもんだから」
暴れて、割った。
一旦、落ちついて想像してみたが、想像ができなかった。弟は、いつもと違うことが起きたり、泣きわめいたりしている人を見ると、たしかに状況が飲み込めず、パニックになることはある。だけど、人やものを傷つけるようなやつではない。彼にとっては、命があるものも、ないものも、すべてヒヨコなのだ。
「そうなの?」
弟にたずねる。弟は、ぼろっと大粒の涙を流して、ぎゅうっと唇を噛み、首を横に振った。男の子の一人は、サッカーボールを持っていた。ちょうどエントランスの前は、子どもたちがボール遊びをする広場になっている。
「本当にうちの弟が割ったの?」
男の子たちは顔を見合わせて、気まずそうにした。結局、わたしがエントランスにある監視カメラを見ましょうと言うと、彼らはあわてはじめたので、管理人が察したのか「今回はいいですよ」と言い、その場は解散になった。弟の背中に手をあてると、ぶるぶると彼がふるえているのがわかった。怒りだろうか、悔しさだろうか。どちらもだ。家についてから、二人でわんわんと泣いた。感情も思いやりも、彼の中には立派に育っているのに、それを人に伝える言葉を持ちあわせていない。どれだけの無念だろうか。
二回目は、つい先月だ。順調に物忘れがひどくなった祖母が、勘違いで弟を責めてしまった。弟は一生懸命に身振り手振りで弁明するが、耳が遠くなった祖母には届かず、怒りは一方的にヒートアップしていく。最終的に弟は「もういい!」と言って退散したのだが、腹いせに扉を強く閉めたせいで、扉のガラスが砕け散った。弟はべそをかきながら落ち込んで、背を丸くしてガラスを片づけていたが、それを手伝うわたしも落ち込んでしまった。とがって散らばった破片は、声にならない声のようだった。彼にとっては、生き物を殺したも同然である。それほどまでに人は、激しい悲しみや怒りを、黙って胸に留めてはいられない。
弟は、わたしには想像もつかない景色を見て、到底信じられないものに愛を注いでいる。それが伝わらない世界に、何度、絶望したことだろう。ガラスを割ったとき、いつも彼はめそめそと泣いていた。それでも弟は、ガラスを注意深く拾い集めたら、多少は軽くなった心で立ち直り、別の愛しいものを見つけて、機嫌よくたくましく、できるだけの幸せを探して生きている。まるでずっと前から、そう決まっていたかのように。
姉として、作家として、ひみつを共有する者として、わたしにできることは。同じ理由ではもうガラスが割られることのないように、弟の言葉にならなかった言葉を、理屈じゃ説明できない何かを、深く想像し、何度も物語にし、愛を持って語り継いでいくことだ。
(注)
ダウン症……ダウン症候群。生まれつき発達の遅れをともなうことが多い。
対峙……対立する者がにらみ合ったまま動かないこと。
膠着……ある状態に固まって、一向に変化しないこと。
入試に掲載されたのはここまで。ちょっと休憩しましょう。あっ。これが、ガラスを割った弟です。
あと我ながら、入試問題にするにはちょうど良い文字数だな…と惚れ惚れしたので、それぐらいの文字数で濃い作品たちが詰まってるベスト・エッセイは、買って読んでおくといいかもしれない。
設問を解いていく
(※引用は2023年度入試 筑波大学附属駒場中学校 国語より)
大人だったら、スラッスラいけるかも。ところがドッコイ、これを小学生6年生が解いている。すごすぎる。小学生6年生のわたしなら、頭を抱えたまま5分後には机で寝ている。
というか、大人のわたしも、頭を抱えた。
「暴れて、割った。」の一文の効果について、うまく説明できない。
なぜならわたしは、無意識で書いていたからだ。これまでも似たような表現を使ってきた。もはや手癖に近い。
「なんか書きたかったから」
としか。もうちょっと考えて、えーっと……
「読んでいて気持ちいいし、おもしろいと思ったから」
これが原作者のわたしの、素直な答えである。
結果は、不正解。
わたしは急に恥ずかしくなってきた。原作者がなんとなくで書いた一文に、壮大な期待を寄せられている気がした。神輿に担ぎ上げられた無能。わっしょい、わっしょい、ポンコツ神輿が通ります。
ところが、である。
わたしの担当編集者である佐渡島庸平さん(わたしが所属する事務所の編集者で、まず彼らが編集したあと、寄稿先の光村図書で新宅智子さんが編集してくれる)が、回答してみた。
「問1は短い文章にすることによって、作者が強く衝撃を受けて考えこんでることが伝わる効果だよね」
正解だった。
塾講師をやっているというフォロワーさんが、模範解答を作ってくれた。
佐渡島さんはどの設問にも、ピタリで正解した。
どうして原作者が一問も正解できないのに、編集者が全問を正解してしまうのか。
佐渡島さんは、悔しがるわたしに言った。
「編集者は、原稿の一文、一文に、意図と効果を見つけるのが仕事だからね」
わたしはその言葉に、ハッとする。
そうか。
国語の問題で本当に問われているのは、作者の意図なんかではないのだ。
編集者の視点だ。
エッセイはどうやって世に出るのか
京都大学医学部で出題された「ミャンマーで、オカンが盗まれた」は小学館、筑波大学附属駒場中学校で出題された「ガラスのこころ」は光村図書と、どちらも出版社がこの世に送り出している。
わたしはまずひとりでnoteへ好き勝手に書き、書籍に収録するときに編集がついて、しっかり書き直すことが多い。
入試には、noteにだけ書いた文章は選ばれない。
選ばれるのは、明確に編集者が存在した文章だけだ。
編集者は一文ずつしっかり読み込み、意図が見えない、効果がないと思ったら、追記や削除を提案してくれた。
わたしもつい昨日、別の原稿で編集者から
「ここの例は、説得力を出そうと思って3つあげてると思うんだけど、乱雑な印象があるから、2つでいい。どうしても3つあげたいなら、それぞれに関連するエピソードを詳しく書いてほしい」
と言われたばかりだ。説得力を出そうという意図が伝わっていない一文を、見抜かれた。例は2つに減らした。
わたしが無意識で、手癖で書いたとしても、最初の読み手である編集者がそこに意図や効果を見つけたのであれば、その一文は残る。
編集者がいる「ガラスのこころ」には、意図や効果のない、無意味な(と編集者が判断した)一文は載っていない。
つまり、国語の入試問題とは。
作者の意図を問うているのではなくて、編集者の意図を問うているのではないか。
エッセイを、世の中へ送り出した人。
一部を切り取り、問題に載せた人。
彼らは、編集者である。
編集者の仕事は、伝達のエラーをなくすこと
編集者の仕事は、一言では表せない。
表せないぐらい多い中に、
「書き手の言葉が、誤解なく、読者に伝わるかを徹底的に考えること」
が入っているのではと、わたしは考えた。
伝達のエラーをできるだけなくして、作者と読者をつなぐこと。
いくらわたしが強い思いを込めたとしても、同じ思いが伝わるような一文を選んで書けていなければ、読者には届かない。
文章に込められた意図が、大切なのではない。
文章に込められた意図が正しく伝わるか、が大切なのだ。
「わたしはそんなつもりで書いたんじゃないのに!なんて意地悪な読み方をしやがるんだ!もう!おじやぶつけるぞ!」とわたしが怒ったところで、どうにもならない。
文章は、どこかに掲載された瞬間、作者のもとを離れ、読者のものになる。読者の素直な感情を、後からコントロールすることなんかできない。
作者でありながら、入試問題が解けなかったことを、わたしは嬉しく思い始めた。
わたしはわたしですら気づけなかった、一文の意図に気がついたのだ。弟がガラスを割った。うまく飲み込めなかった。走馬灯のように、明るくて優しい弟との思い出がぐるぐる浮かび、彼がまさか、という衝撃にしばらく立ち直れなかった。その深すぎるショックを、自分でも気づかないぐらい自然と、一文に込めていたのだ。
あの時の絶望と動揺を、わたしは誰かの心に再現したくて「暴れて、割った」を書いた。
「暴れて、割った」は、わたしからの無意識なSOSだった。
そんな渾身の一文が、わたしにも、書けたのだ。
出題者が線を引いてくれたおかげで、希望のような、自信のようなものが込み上げる。
いい編集が入った作品というのは。
作者の意図と、読者の印象が、おたがいに影響しあって。
作者ですら気づかなかった本心にたどり着くことかもしれない。作者と読者のどちらもに、読めてよかった、書けたよかったという“幸福感”をもたらしてくれる。
わたしのエッセイを載せてくださった編集者さん、固有名詞や表現をチェックしてくれた校正者さん、入試問題に選んでくださった出題者さん、そしてなにより、何年も積み重ねた努力で一生懸命に解いてくださった受験生のみなさん。
本当に、ありがとうございます。
おまけ|1つの良いエッセイには、5つの能力が必要という話
大手進学塾に通っていた秀才の友人から、こんな話を聞いた。
「国語の現代文で点とるためにはな、想像したらあかんねん。作者の意図とか、登場人物の感情とか、書かれてないことを想像したらあかん!」
想像したらあかん。
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