最高で幸福な黄色いカフェ in パリ
パリのシャンリゼ通りを歩いていた。
それはもう、踊りながら歩いていた。
念願なので。
全力でオーシャンゼリゼしてたら、雨が振ってきた。
どっかに入って雨宿りしようと思って、キョロキョロしてたら、雨のシャンゼリゼ通りでもひときわ賑わっているお店があった。
『Café Joyeux』
見上げれば、パリの古くて美しい外壁に、なんとも落ち着く黄色の看板。なんだろう。とても目立つけど、やけになつかしい黄色である。
そして、なんといっても、このロゴマーク。
筆舌に尽くしがたい魅力を放っている。まるで、ずっと前から、味方でいてくれたような目をしている。
吸い込まれそうになったけど、踏みとどまる。
なんせ、パリの物価は、大阪の2倍。
入る店は、慎重に吟味されなければならない。
ただでさえこの通りは、ルイ・ヴィトン、プラダ、カルティエ、グッチなんていう高級ブランドが並んでいるのだ。
軽率に入店したら、破産する。
「ぼんじゅー★」
店先から、声がした。
あっ、わたしたち、立ち止まってて、邪魔だったかしら。
「ぼんじゅー★」
また、声がした。
ロゴマークのついたTシャツを着た、ロゴマークより楽しそうに笑った、店員さんがいた。わたしたちに、手を振っている。
目があった。
「ぼんじゅー★」
気がついたら、スピード入店してた。
恐るべき吸引力。わたしが知ってる客引きのそれとはまったく違う。あいさつしか、あいさつしか、してないってのに。
彼のあいさつで、客が続々と、元気に吸い込まれてくる。
なんなんだ。
桃源郷か、竜宮城か。
ランチタイムはとっくに過ぎても、店内は満席だった。レジには長蛇の列ができていて、大人気店だ。観光ガイドにも載ってない。
「おいしそーっ!」
ショーケースを見て、思わず、声が出た。トーストサンドで、2248円なので、そこそこのええ値段やけど、こんなに人気ならば。
「なあなあ、わけわけする?」
興奮して振り向いたら、母ったら、うわの空でさっきの店員さんを見ていた。
目で追いながら、グッと、眉間に皺という皺を寄せた。
「良太ちゅん……」
さみしげに、弟の名前を呼んだ。ホームシックか。しかも幼児の時のあだ名で。こわい、こわい、こわい、タイムスリップしとる。
しかも、タイムスリップどころか、人違いである。
ホームシックで、タイムスリップで、人違いなのである。
弟はここにいない。日本でお留守番なうである。怯えているわたしの前で、みるみるうちに母は柴田理恵の涙腺を搭載しはじめたので、あわてて、話を聞いた。
「あの店員さんも、あの店員さんも、良太ちゅんと同じダウン症の人やんなあ」
母が言った。
『Café Joyeux』は、障害のある人が働くカフェだったのだ。
自閉症、ダウン症、精神障害の人たちが、生活と会話のトレーニングをしながら、働いているらしい。
よく見たら、働くクルーたちの写真が、たくさん飾られている。
廊下に掲げられた、大きなパネルを見て、母の柴田理恵は完全に決壊した。なまぬるい涙がぼたりと落ちた。
「めぢゃめぢゃ、たのじぞう……」
「うん、せやな、楽しそうやな」
「良太ちゅんも、ここで働かぜであげだい……」
「あいや待たれよ」
神戸市北区の山から、急にこんなパリの高級街に連れてこられたら、高低差で弟の耳がキーンとなってしまう。姉として、弟の不憫なキーンは避けなければならない。
母をパネルの前から、ズルズルと引きずり、列へ戻った。
注文と会計は、トレーナーっぽい店員さんがやっていたけど、頻繁に姿を消す。コーヒーをいれているダウン症の店員さんにアドバイスしたり、盛り付けの手伝いをしたりするからである。
そんなわけで、どうにもこうにも、レジが遅い。
ものすごい行列ができているが、トレーナーっぽい店員さんはまったく気にしない。
それどころか、出勤してきた自閉症の店員さんに「おはようさん!調子はどないや!」と、駆け寄って、おしゃべりしている。
気にしないにも、ほどがある。
でも、客は誰ひとりとして、文句を言わない。
なんかみんな、楽しそうにおしゃべりしたり、スマホを片手に、並んでいる。
列のカウンターに、ノートが置いてあって、店員さんにメッセージを書きながら時間をつぶす人もいた。
こんなにのんびりした接客で、機嫌を悪くする人、いないのかしら。
日本に慣れすぎたわたしは、ビクビクしていたが、知り合いのフランス人が教えてくれた。
「せっかくの休日やっちゅうのに、なにを急ぐ必要があんねん? ビジネスの約束やったらともかく、休日まで時間にしばられてたまるかいな」
フランス人、時間を気にしなかった。
このカフェと、相性が、相性が良すぎる。
すべては、こうあってくれ。
お店の雰囲気がゆるい。
でもそれは、ゆるくあることを、徹底しているマネージャーがいるのだ。ゆるいことに厳しい人がいるから、ゆるくいられる。
「良太ぢゅんも……良太ぢゅんも……」
母が泣いた。
落ち着け。
あんたの息子は、神戸市北区で、ボンド詰める仕事で神童と呼ばれて、楽しそうにしてはるから。
15分ほど並んで、席で待つことにした。
「ぼんじゅー★」
入り口から、また、彼の声がした。
まさかとは、思うけど。
あいさつするだけの係だ!
すごい。初めて、見た。
話してみた感じ、彼は言葉と動きがゆっくりで、キッチンやホールで働くのは、難しいのかもしれない。
だけど、あいさつが、誰よりもうまい。
人をホッとさせる天性の笑顔と、目ごとニッコリできる類まれなる筋力。これできる人、あんまおらんのよ。バカリズムしか見たことない。
実際、彼のおかげで、客が次から次へと、入店してくる。
でも、基本的に、彼はヒマなのである。
どんなに店内が満員だろうと、マイペースにうろうろしている。ヒマの貴公子。
ヒマだから、フラッとわたしたちの席にきて、
「ぱっせーず あん じょわいゆ もーめん★」
握手してくれる。
何回か聞いて、やっと、わかった。
幸せな時間を過ごしてね、と言っていた。
胸のあたりがウワーッとなって、めちゃくちゃ、幸せな気持ちになった。心から繰り出された言葉って、こんなに、嬉しいんだ。
カフェにヒマな店員がいると聞けば、だいじょうぶかと思ってしまうが、ここではまったく意味が違う。
ヒマという、大切な仕事がある。
ヒマだから、あいさつができて、声をかけられて、何気ない幸福なひとことを手渡してくれる。
ちなみに彼は、並んでいるおばあさんに、せっせとイスを運んでいた。
彼の尊い仕事を応援しているだけで、時間が溶けて、あっちゅう間に注文が届いた。
新鮮な野菜バーガーは、上品で繊細な味がして、おいしかった。
カフェを紹介するQRコードがついてきたので、食べながら、おもむろに「Café Joyeux」について、調べてみた。
「えっ?」
創業8年、ヨーロッパに14店舗!?
「オペラ店とか、ニューヨーク店とか、超一等地やないか」
一度雇用されたら、大半が無期限契約!?
「この不景気にすごいやないか」
トレーニングもあって、お給料も高水準!?
「一般のアルバイトとあんまり変わらんやないか」
仕事が楽しみすぎて、2時間前に出勤する人がいる!?
「うらやましすぎんか」
す、すげえ。
ちょっと、すごすぎて、びっくりしてしもうたけども、なんでそんなことができるのか、じっくりお店を見てみた。
障害による不得意を減らす工夫と、お客がお金を出したくなる工夫が、このお店にはあった。
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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。