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落とした指輪を出品されて警察沙汰になった話

2021年に路上で紛失した指輪を、フリマアプリで転売されてしまった時の話です。とてつもなく長い文ですが書いてあることは、

・自分で指輪を買い戻した
・出品者は警察で書類送検された
・出品者の立場を想像して思うこと

あとがき以外は無料で全文読めます。警察や会社とのやりとりは、一部要約や編集してあります。ネコババ出品、ダメ、ぜったい!

亡くなってしまった父は数年に一度、母の誕生日になると、給料をはたいて、シルバーのアクセサリーを贈っていた。

わたしがまだ小学生だったときも、神戸からはるばる東京の表参道まで、父がCOACHのブレスレットを買うのに付き合わされた。

買っている姿をわたしに見られるのが恥ずかしかったようで、

「俺は用事があるから、お前はここで待っとけ!なっ!」

ジュースを渡され、小学生なのに、表参道の人混みで置き去りにされた。マジでとんでもねえ父である。

ただ、母はそれをたいそう喜んでいて、父が死んでからもずっと、大切にアクセサリーを持っている。

たまに父の仏壇に飾ってるのも、わたしは知っている。

時は流れ、2021年8月。


わたしは、母の誕生日に、リングを贈ろうと思った。

ブランドは決めていた。
あこがれのエルメスだ。

父が贈ったアクセサリーの中にも、エルメスはなかった。

母をだまくらかしてエルメスに連れ出すと、

「いやいや!あかん!あかんて!もらえへんて!」

店の高級っぷりに逃げ出そうとしたが、カバンが100万円越えだけど、リングは6万円ぐらいで、貯金を崩せば、意外に手が届くお値段だった。

それでも母がビビり散らかすので、お互いに贈りあって、おそろいにしようということになった。母は喜んでいた。

エルメスのリング、エクリプス・リュバン。

母とわたしで、6万2700円ずつ出しあった。

わたしはアクセサリーに無頓着で、自分で買ったことがなかったから、こういう記念で手に入れられたのは嬉しかった。

エルメスの店員さんが、

「親子でおそろいなんて、ステキですね!お母さんが50サイズ、娘さんが53サイズなので、お間違えありませんように……」

サラサラッと書いて、ペタッと貼ってくれた。

ホスピタリティ!

お店を出て、ご飯を食べたあと、わたしはさっそく自分のリングをつけた。嬉しくて、舞い上がっていた。

舞い上がりすぎて、

母のリングの入った袋を落とした。


わたしの母は、車いすに乗っている。足が動かないので、手だけで運転できいるスーパーな車に乗っているのだが、

こんな具合で乗り込むので、バタバタする。

わたしが車いすを抱えて、トランクにブチこむ過程で、いったん両手の荷物を手放して、地面へ置くことになる。

それで、エルメスの袋を、置き去りにしてしまった。

車を5分ぐらい走らせてから、母が言う。

「……あれっ?奈美ちゃん、エルメスの袋は?」

全身から血の気が引いた。

また5分ぐらいかけて、あわてて戻った。人通りの少ない路上だし、きっとあるだろうと思った。あってくれ、あってくれ、あってくれ……

なかった。


ない、ない、ない。地面にはいつくばって探しても、別の道に入っても、近くの建物の店に聞いても、ない。

そのまま交番に駆け込んだが、届いてない。

わたしの指には、先に開封したリングがはまってる。よりにもよって、誕生日である母のリングだけ、なくしてしまった。

23時まで汗だくになって走り回ったけど、結局見つからなくて、交番で遺失物届だけ出して帰った。

優しい人が届けてくれますようにと願ったけど、一週間経っても、交番からの連絡はなかった。

エルメスで新品を買いなおそうとしたら、母のサイズのリングは完売していた。

情けなくて、申し訳なくて、電話で何度も母に謝った。

心臓病で二度も、死亡率80%の手術をくぐりぬけた母が言う「死なんかったらどうでもいい」はすさまじい説得力を放っている。

たったひとつだけ残った指輪を見て、涙がポロポロとこぼれた。


指輪を落としてから、一週間。

エルメスにはもう新品は売ってないけど、もしかして、中古なら母のサイズのリングが買えるかもしれない。

「でも、中古をプレゼントするってビミョーやんなあ……?」

ため息をついたけど、見るだけ見てみるかと、フリマアプリ『メルカリ』を開く。

おっ!まったく同じのあるやん!

49000円かあ、新品で買うより1万円も安いなあ。

……。

…………。

わたしのじゃね?


この「50」の紙、エルメスの店員さんが書いてくれたやつじゃね?

いやいや、そんな、まさか。拾ったものを売るなんて。こんな簡単に人を疑っちゃあいけないよ。

二枚目の写真をスワイプした。

購入日も一致しとるがな。


手元に残ってるわたしの指輪のカードを引っ張り出して、見比べてみた。

同じやがな。同じカードやがな。

出品者の所在地は、大阪、と書かれていた。電車で30分と離れていない、同じ近畿圏である。

説明文には、

いただきものですが、試しにつけたのみで、出品します。太めのサイズで、存在感のあるリングです。箱はありません。

全体的にキレイですが、神経質な方のご購入はお控えください。

購入日は8月25日。
出品日は8月26日。

リングをプレゼントされた翌日に、箱を投げ捨て、試着して、しゅ、出品……だと……!?

んなわけあるかい!


いや、手慣れたキャバ嬢なら、ありえるか……?

あっ、あれかな……アホな彼氏がケーキにリング埋め込んで、サプライズしたけど振られて、それで売ったのかな……だとしたらかわいそうだな……?

出品者はこれまで30件ほど取引実績があり、ユーザーの評価もよかった。ほかに出品されているものは、ユニクロやしまむらの数百円の子ども服のお下がりばかり。

その中でただ一つ、異彩を放つ、エルメスのリング。

あ、あやしい!

わたしのじゃね?


ほぼ確信したら、怒りがメラメラッとわいてきた。

不思議だ。

さっきまで、落としたわたしが悪いと悲しんでたのに。
なんなら、拾った人は大切にしてくれとすら思ってたのに。

こうして金儲けされてるのを見ると、めっちゃ悔しい!ネコババ出品!キーッ!

母にも連絡すると、

ショックのあまりドラ泣き。

これは、どうしても取り戻したい。

でもいったい、どうすりゃええんや。出品者に交渉したろか。「あのォ、これェ、拾ったやつですかァ(ニチャァ……)」的な。

だめだ。アカウントを消されたら、リングもろとも逃げられてルパンルパーンされてしまう。

メルカリに相談だ。


メルカリのヘルプページを見ると、拾得した落とし物は、出品禁止と書かれているじゃないか。

盗品の可能性がある商品を見つけたら、購入せず、『商品の報告』とやらをしたらいいのね。助かった。

数時間後、メルカリから返事がきた。

ドキドキしながら開くと、

「メルカリでは出品されている商品が盗難品かどうかの判断ができませんので、警察に相談してください。その間に他の人が購入してしまった場合は、取り戻すことがかなり難しいです。(※メール全文は転載禁止とのことで要約しました)」

えーっ!


カードの日付や筆跡が一致していることを伝えたけど、答えは同じだった。そんなあ。

冷静になって考えてみれば、そりゃそうである。盗難品だとイチャモンをつけて、タダで商品をブン獲ろうとする山賊がいるかもしれない。いるんだろうか。世も末すぎる。

警察に電話するか……。

と、思った時だった。

ネコババ出品されたリングに、何も知らないユーザーから「いいね」が付きはじめた。まずい!このままだと売れてしまう!ええい寄るな!散れ!みんな散れッ!

売れてしまったら、もう二度と、手に入らないかもしれない。

……。

…………。

反射的に買ってしまった。


買うなって書かれてたけど、買ってしまった。49000円払った。わたしったら、わたしの指輪に、49000円払っちゃった。

どうなってしまうんだ。

ピロン♪

もう夜中だったのに、すぐさま、出品者からメッセージがきた。

「ご購入ありがとうございます!すぐに発送させていただきます!」

アラマッ、ご丁寧にどうも。

超優良出品者である。

これから警察に相談するなら、証拠は多いほうがいい。わたしはすっとぼけて、メッセージを返した。

「ありがとうございます!写真にうつってるカードと、できれば箱も送ってもらえますか?」

「箱はすごく汚れていて、捨ててしまいました。カードも汚れていますが、それでもよければお送りします!」

汚れてる……?

あ、本当だ。クシャッとなって、ピッとなってる。っていうかこれ、袋と箱ごと、車にひかれてたんじゃなかろうか。

わたし、袋を車道に置き去りにしちゃったしな。

というか、汚れていることをあっけらかんと教えてくれるし、連絡も何もかも早いし、この出品者がちょっと良い人に思えてきた。

ネコババされたのに。


お金は払ってしまったが、これでリングは手元に戻ってくる。

翌日、朝一番で、遺失物届を出した警察に電話をした。

「なるほど、あなたが落としたリングをメルカリで出品されたと……」

「これって犯罪になるんですか?」

「メルカリで出品したかどうかにかかわらず、他人の落とし物を拾って、自分の物にしたら犯罪になりますね」

(遺失物等横領)
第254条 遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、一年以下の懲役又は十万円以下の罰金若しくは科料に処する。

ネコババは犯罪!ネコババは犯罪!
ここ、テストに出ませんが、人生で出くわします!

「それじゃあ、メルカリに連絡していただけますか」

「残念ですが、出品された指輪が、確実に岸田さんのものであると証明ができなければ罪に問えません

こっちもか。


買い戻したリングがもうすぐ届くので、指紋とか調べてなんとかならないかと思ったが、そもそも袋ごと落としたから、指紋はついてない。

「岸田さんのほうで、エルメスさんに問い合わせてみてください。リングの購入者を証明する手段があれば、なんとかなるかもしれません」

「そんなことできるんですか?」

「シリアル番号でもついていたら……」

シリアル番号。


その可能性を忘れていた。

わたしは再びすっとぼけたフリで、メルカリで出品者にメッセージを送った。

「まだ発送前でしたら、リングにシリアル番号があるか、教えていただけないでしょうか。本物かどうか、気になっています。」

ちょっと迂闊だったかしら。
リングが届いてから、自分で調べた方がよかったかも。

ピロン♪

「はい、ございます!リングの内側に18AB●●●と刻印されておりますので、ご安心ください」

この出品者、なんでも教えてくれるなあ〜!


得体のしれない丁寧さがすこし愛おしく思えてきたが、遺失物横領という物騒な5文字が脳裏に浮かぶ。愛おしさに迷う。


エルメスの店員さんに電話したら、コトが重大すぎるので、エルメスの本社に問い合わせてほしいと頼まれた。

店員さん、むちゃくちゃ気の毒そうにしてくれた。そうだよね。あんなに和気あいあいと接客してたはずの親子が、こんなことに……。

エルメスの本社に経緯を話して、シリアル番号で、わたしが購入したことを証明してもらえないかと頼んだ。

一日経って、メールで返信が届いた。


弊社ではあいにくシルバジュエリーの刻印番号管理はあいにく行っておりません。

ガビーン!


むちゃくちゃラグジュアリーで気づかいのあふれるメールに感動したけども、シリアルナンバーと購入者を紐づけてるわけではないらしい。

こんな美しいメールを書く人が「あいにく」をダブらせちゃうって、本当に心をこめて書いてくれてんだ。エルメスって優しいんだ。

うう……。

ん?

エルメス様ァーーーーーーーー!!!!!!!


この記事でテーマソングが流れるとしたら、ここ。
間違いなくここである。

さまざまなしがらみの網目をかいくぐった、クレバーすぎる三行のすごさが、伝わるだろうか。

ちょっといったん寸劇にしてみるので、想像してほしい。

エルメスの調度品に囲まれた大豪邸にて、品のいい初老の執事(お好きな執事を思い浮かべください)が、わたしに淡々と告げる。

「残念ですが、エルメスではシリアルナンバーを管理しておりません。岸田が購入したリングであるという証明もできません。お引き取りください」

「そう……ですか……」

がっくりと肩を落とす岸田。

その隣をコツ、コツ、と革靴を慣らしながら、通りすぎる執事。

「……そういえば、こんな噂を耳にしましたな」

くるりと振り向く執事。

「その日、エクリプス・リュバンのリングを買われたのは、全国のエルメスで岸田さまだけ、だとか」

エルメス様ァーーーーーーーー!!!!!!!


かっこよすぎる。

万人伝わるかわからんが『鋼の錬金術師』でアームストロング少佐が、マスタング中佐に、軍上層部の陰謀を伝える時もこんな感じだった。あの名シーンが今!ここに!爆誕!

いけるんちゃう?


これ、いけるんちゃう?

逆説的な証拠やけども、だいぶいけるんちゃう?

わたしはエルメス様にお礼を言い、いつか必ず、あなたのところでスカーフを買いますからと伝えて、警察へと駆け込んだ。

警察の窓口の人が、メールの文面を見ると、

「これは……ちょっと……こちらでお待ちください……」

わたしを奥へと案内した。警察署の奥なんて初めて入った。息がつまるほど狭い、質素な部屋に通され、座って待っていた。

しばらくして、スーツ姿のシュッとした男性警官が入ってきた。

「お待たせしました。刑事第二課 知能犯係の神志名かしな(仮名)と申します」

刑事第二課、

ち……

知能犯係!?!?!?!?!

本物の知能犯係だ!!!!!!!!

かっこいい。かっこいいけど。

こ、こんな、落とした方も、拾った方も、知能戦からもっとも遠いネコババ泥試合に、知能犯係が登場していいの?もっとブラッディ・マンデイとかを追ってもらうべきじゃないの?

神志名さんは淡々と本題に入る。

「エルメスさんからのメールで、リングが岸田さんのものであると証明できそうです。岸田さんはすでにお金を払って、買い戻されたんですね?」

「は、はい。49000円……」

「では、警察からメルカリさんに書類を提出して、まずは返金してもらうようにしましょう。こういう時はだいたい被害届を作るんですが……今回のケースだと、いったん被害相談にしませんか?」

はて?
被害届と被害相談って、なにが違うの?

神志名さんに聞いたら、テキパキとわかりやすく教えてくれた。

被害届も被害相談も、どちらも書類だけど、被害届は現地の実況見分なんかも必要で、作成に一週間以上はかかるらしい。被害相談なら、簡易的なものなので、今すぐ作成できる。

「作成している間に出品者がお金を受け取って、アカウントを削除して逃亡してしまうのがリスクなので、メルカリさんが被害相談の書類でも対応していただけるなら、そっちの方がお金も早く返ってきますし、岸田さんも安心ですよね」

神志名さん、冷ややかで怖い人かと思ったけど、めっちゃ考えてくれる。

被害相談の書類をメルカリに提出し、その後、必要ならば被害届も作成することになった。

一時間ほど、ヒアリングしてもらい、そろそろ終わりかという頃、とつぜん神志名さんの目がギラリと光った。

「岸田さん。この件、返金されたとして、犯人への刑事罰も望みますか?」

「えっ?」

「遺失物横領という罪はあるものの、今回は立証が難しいんです。知らない誰かからもらって、それを出品したと言われてしまえば、ごまかせますし。捜査しようにもメルカリさんが個人情報を開示できるかどうか、今の段階ではわからないんです」

リングを落としたことに、わたしも後ろめたさがある。リングとお金が返ってくるなら、犯人が逮捕されなくてもじゅうぶんだ、とこの時は思って、帰った。


翌日、わたしの家に、出品者からリングが届いた。

母のリングだ。49000円も払っていることを一瞬忘れて、ホッとした。

それにしても発送が早い。こんなことでもなければ、超優良出品者やないか。

かわいい手書きのメモまで貼ってあった。超優良出品者やないか!

ピロン♪

「商品は無事にお手元に届きましたでしょうか?この度はスムーズなお取引をありがとうございました!」

どんな気持ちで、こんな風に明るいやりとりをしているんだろうか。なにも知らない人にも見える。文面だけ読んでると、どうにも憎めない。



届いたリングとカードを、神志名さんに届ける。

そして完成した被害相談の書類を、神志名さんがメルカリに送ってくれた。

押収品目録という書類だった。

提出後、メルカリからは数時間で連絡がきた。

「書類が確認できましたので、岸田様に商品代金を全額補填させていただきます。ご安心くださいませ。」

出品者に払ったお金、返ってきた!


「本件は被疑者不詳であることから、事務局にて取引完了を行います。ご納得いたし難い気持ちもあるかと思いますが、ご理解ください (※メール全文は転載禁止とのことで要約しました)」

取引、完了……?

目を疑った。

メルカリの取引完了とは、商品が無事に受け取られたので、メルカリが預かったお金を出品者へ振り込み、対応を評価することを言う。

うそやろ?
じゃあ、出品者は49000円、もらえるの?
メルカリは49000円、損するの?

そんなことある?

リングがわたしのものであるとは証明されたが、出品者が犯人であるとは証明されていない。もしこれが人違いだったら、えらいっこっちゃだからか。

警察の判断がなければ、メルカリもお客を犯人扱いして金を取り立てることはできない、ということだ。

そりゃそうだ。

そりゃそうだけど……

メルカリ、とばっちりで、かわいそうすぎんか。

証明する手間はあれど、回収できる見込みがないお金を、わたしに返してくれるメルカリの親切さは、ありがたかった。

かくして、母とおそろいのリングも、お金も、無事に戻ってきた。

メルカリには気の毒だけど、出品者を捕まえるのは難しいと神志名さんも言っていたので、この件はこれで終わりだ。


終わりだと、思っていた。

実家でポケーッと待っていた母に、

「見てや。これでリング届いてん」

出品者から届いた封筒を見せた。

「へえー。落ちてるもん売るのに、こんなきれいに梱包してくれたんや」

めずらしそうに眺めながら、くるっと裏返した。

出品者の名前と住所、丸見えやないか。


えっ、えっ?
どゆこと、どゆこと?

わたしは動揺した。

今まで気づかなかった。だってそんなわけないって。名前と住所なんて載ってるわけないって。

メルカリは『メルカリ便』という仕組みで荷物が送られてくるのが普通で、今回もそうだった。

出品者も購入者も、名前と住所を伏せて、匿名で送ることができるはず。なんで載ってるねん。なにがあってん。

メルカリ便を運んできたヤマト運輸に聞いてみたら、カスタマーセンターのお姉さんも動揺していた。

「そうでよね……普通は匿名ですよね……?なんでこんなことになってるんだろう……あっ、かなりめずらしいことが起きてるかもしれません……!」

キーボードをカチャカチャしながら、お姉さんは必死で調べている。

「最初に出品者さまがメルカリ便を設定したにもかかわらず、岸田さまが購入してから、なんらかの理由で配送方法を変更した場合のみ、住所が通知されてしまうみたいです」

「なんらかの理由って?」

「たとえば、少しでも安い方法で送ろうとすると、普通配送の方が良い場合もありまして、まれに変更される出品者さまもいるみたいです」

ズコーッ!


じゃあ、なにか。

出品者は知ってか知らずか、名前と住所と引き換えに、配送料をケチったっていうのか。

そんなバグみたいな仕様のマヌケ展開……。

いま神志名さんは、なんとか出品者の住所を開示しようと、手を回しているはずである。渡りに船ならぬ、渡りにバグ。開示の手間がはぶけた。

神志名さんに連絡すると、

「そんなことがあるんですね……!こちらで捜査しますので、封筒を送ってください!」

神志名さんの声は、張り切ってるように聞こえた。

すぐさま神志名さんに渡そうと思ったけど、少しモヤッとしたものを感じる。これは本当に出品者の住所だろうか。罪から逃れるためのダミーの住所じゃなかろうか。

だって、あまりにも、うっかりしすぎてる。

拾ったものを売り飛ばす人が、こんな風に身元を明かすだろうか。もしそうなら、誰かに頼まれたとか、知らなかったとか、とにかく、悪気のない人なんじゃ。

とても丁寧に発送と連絡をしてくれた出品者を思うと、なぜか苦しい。

「岸田さん。横領した遺失物を転売する被害は年間数千件にのぼるんです。でも持ち主にモノやお金や戻るケースは少ない。それが僕らとしても、悔しいんです」

神志名さんも、苦しい。

これまで一体、どれだけのネコババ出品の被害を見てきたんだろう。

わたしのケースは本当に特殊だ。自分でリングを買い戻し、エルメスが証明し、メルカリが返金し、出品者がうっかりしていたから、特定できた。

もうこんなに条件がそろう事件は、めったにないかもしれない。

神志名さんは、強要なんて一度もせず、わたしの意思を尊重してくれたけど、わたしは同じことで悲しむ人が減ってほしいと思って、封筒を渡した。

もし、出品者も、なにか不運に巻き込まれてしまっていたとしたら、その理由を知りたかった。


本格的に捜査がはじまった。

捜査のことはくわしく教えてもらえなかったけど、出品者の住所からいろいろな証拠をたどれるようだった。

IC定期券から通勤・通学の使う道を割り出したり、リングの落ちていた現場付近の監視カメラを確認したり、場合によっては家宅捜索や近所への事情聴取をすることもあるらしい。

どこからどこまでが同意の上で、なにを実施したのかはわからないけど、警察ってすげえな、と思った。


8ヶ月が過ぎた。

なにも音沙汰はなかったし、わたしも仕事で忙しくなって、ネコババ出品のこともすっかり忘れていた頃、神志名さんから電話がかかってきた。

「お久しぶりです。捜査が終わりましたので、ご報告です」

マジか。
緊張して、スマホを握りしめた。

「ええとですね、本人は容疑を認めていまして」

「はい」

「やってはいけないというのもわかった上で、出品したそうです」

あ〜〜〜〜〜。


身体から力が抜ける。心のどこかで、あの親切な出品者は、罪とは知らず、他人から頼まれたとか、そういう理由であってくれと願っていた。

「これから書類送検といって、検察に引き継ぎます。検察官のほうから岸田さんに聴取がありますので、ご協力ください」

神志名さんと話をしたのは、それで最後だった。

そうか、検察官に引き継ぐのか。

わたしは子どもの頃からテレビドラマ『HERO』が大好きで、なんべんも観ているので、キムタクと同じ職業の響きにドキッとした。

でも、実際は、検察官から淡々とした電話があっただけだった。

事件の確認をされた最後に、

「岸田さんは、被疑者に厳罰を望みますか?」


「……!?」

ニュースかドラマでしか聞いたことがない言葉を投げかけられて、思考が停止した。

「厳罰を望みますか?」

「いや、そんな、厳罰っていうほどじゃ……指輪も戻ってきたんで……」

「では起訴は望まないということですか?」

起訴とは、刑事裁判を起こすかどうか、ということである。そっちも生で聞いたことないよ。

「えっ、これ、わたしが起訴してくださいって言わなきゃ、起訴されないんですか?」

「いえ。被害者のご意見を参考に、検察が判断します」

「え……ええ……どうしましょグェヘ」

動揺のあまりわたしが気味の悪い笑い声を出してしまったので、検察官も苦笑いしてくれた。ちょっと気が楽になった。

何ヶ月も捜査してくれた神志名さんの顔が浮かぶ。ここで不起訴になったら、捜査にかけた時間は、どうなってしまうんだろう。

「被疑者を許せない、というのは違うくて、誰にも繰り返してほしくない、の方が気持ちとしては近いです」

本音を伝えた。

「なるほど」

「ちなみに、起訴を望んだら、わたしはどうなるんですか?」

「岸田さんにやっていただくことはないですが、刑事裁判の訴状で岸田さんのお名前と住所が掲載されます」

「へーえ」

いま、なんておっしゃった?


「ちょちょちょちょちょ!えっ、なんじゃそれ、わたしの個人情報が被疑者にも伝わるってことですか」

「そうなりますね……」

「ワッショイ!」

ワッショイ!ワッショイ!エライコッチャ!ヨイヨイヨイ!

今回のメルカリの取引では、被疑者から特定されたくないので、偽名を使い、住所も宅配センター止めにしておいたのに。

岸田奈美は、わたしの本名である。

こんな仕事をしているので、名前を調べれば顔も出てくる。その住所には、障害があって身動きのとりづらい家族も住んでいる。

考えたくはないけど。
刑事裁判で、もし逆恨みされたら、一発で乗り込まれてしまう。

怖すぎるよ。
その勇気は、さすがにないよ。

「いやちょっと、名前は知らせたくないです」

「では、起訴を望まないということで」

「そう……なりますね……」

「わかりました。被疑者は深く反省をしていて、岸田さんにも改めて謝罪と、袋に入っていて捨ててしまった物品の弁償をしたいと言っていますが、示談を受けられますか?」

「あ、それはさすがに、受け取ろうかな……」

ややこしいので今まで話していなかったが、わたしが落とした袋には、エルメスのリングの他に、母の洋服やオーダメイドの雑貨が入っていた。

金にならないので、洋服や雑貨は、被疑者が捨ててしまったとのことだった。母が友人から贈られた大切なもので、4万円ほどする品だ。

本当は現物を返してほしかったけど、4万円返ってくるなら、いっか。

「示談を受ける場合も、被疑者にお名前と住所の開示が必要です」

なんでやねん!


「おかしくないですか?リスクがデカすぎるでしょ!」

「申し訳ありません、そういう決まりなんです。たとえば弁護士に対応を任せられるということでしたら、開示はされません」

「……弁護士に任せたら、4万円以上かかりますよね?」

「そうですねえ……」

検察官も、こういうやりとりは慣れているのか、歯がゆそうだった。決まりは決まりだ。ここでゴネても、埒が明かない。疲れてきた。

「じゃあ、示談も、いりません。母もそう言うと思います」



一ヶ月後。

わたしの家に、検察から郵便が届いた。

不起訴の通知だった。



刑事裁判は行われなかった。

恨みもないし、悔しさもない。

でも、申し訳なさがあった。

今回のことで、時間やお金を使って、助けてくれた人たちに。捜査をしてくれた人たちに。落としたものを売られてしまった人たちに。

なんだったんだろうな。落としものというポカミスをやらかしたわたしだけが、リングとお金を返してもらった。それだけになった。

これで起訴されて、テレビで報道でもされたら、なにか変わったのかもしれない。

ネコババ出品が減ったかもしれないし、罪と知らずに出品してしまう人も減ったかもしれない。でもわたしはこの世の治安のために、名前と住所を明かす勇気がなかった。

わたしはわたしを守ってしまった。

あと、正直なことを言うと、わたしはそこまで傷ついてなかった。わたしを深く傷つけてない人に、心から厳罰を望むことはできなかった。話したこともない人の人生を左右したくなかった。

ここまで長いこと読んでもらったのに、スカッとする終わり方じゃなくて、ごめんなさい。

わたしと母は、とても元気です。リングを見るたびに「あったな〜〜〜」と笑っております。

手をさしのべてくれた人に、心からお礼をお伝えします。ありがとうございました。

落としものは、勝手にパクっちゃだめです!
落としものは、勝手に売っちゃだめです!

えらいことになるので、お気をつけください!


あとがきと出品者について


ここからは、出品者(元・被疑者)がネコババ出品をした理由について、わたしが調べて、考えてみたことです。読んだら心にしまっていただきたく、読者限定の公開です。

できればわたしは、示談のお金はいらないので、出品者のかたと話してみたかったです。

検察から不起訴の通知書が届いたとき、書かれていた被疑者の名前を見て、びっくりした。

知っているはずの名前が、違っていた。

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「あれ?この人って、まさか……」

リングの入っていた封筒に印刷されていた出品者の名前は、

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。