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伝説と神話は違うけど、神話を語るために必要なことを考えた

伝説と神話には違いがあって、SNSとnoteがある現代は、その二つが生まれやすくなっている。

いま、たくさんの人から羨望を浴びているのに、どうにも得体の知れない人について、書くために知ろうとしている。本人に話を聞いたこともあるけど、余計に謎は深まっていくばかりで、周囲の人に話も聞いている。

そのなかで、実在して、しかもわたしと関わっている人について書くというのにはどういう意味があるんだろうと考える。

今回出版した本はエッセイなので、必然的に、家族や親しい人との出会いや会話を取り入れている。すると、全国の名前も顔も知らない人たちから「弟さんに励まされています」「岸田さんのお母さんみたいになりたいです」「家族について、考え方がすっかり変わりました」という熱い連絡をいただく。

これはもう、伝説か神話の役目を果たしているのではないか。

わたしが英雄になるのはイヤだけど、登場人物に対するわたしの愛とか羨望とか尊敬の気持ちが人に伝わり、彼ら彼女らが英雄になっていくのならば、わたしは嬉しい。本人はどう思ってるかは別として。

じゃあ、伝説と神話ってなんなんだ。

わたしが大学生のときに講義の課題になっていた本、祖父江孝男さんの『文化人類学入門』を引っ張り出してもう一度開いてみると、だいたいこんなことが書いてある。(買ったころは勉強にうんざりして、全然頭に入ってこなかったのに、今となっては食い入るように読めてしまうので人間は愚か)

伝説は、語られる場所も人名もはっきりと固有名詞で示されていて、年代や日時も明らかになっている。つまり、実際にあった事件ということが前提だ。

神話は、いまよりずっと以前の時代の神様について書いており、曖昧な部分やおよそ不可能な出来事の描写も多く、人々は半信半疑で受け止めるのだ。


伝説は事実で、神話は作り話。

どちらも信じている人によって、語り継がれていく点で共通している。

これは1990年に書かれた本だけど、それから30年も経った今、伝説と神話の事情はわずかに変わりつつあると思う。

伝説には事実が書かれるべきだけど、場所や人名の固有名詞、日時がはっきりと表されているだけでは、もはや現代人は事実だとは思えないんじゃないか。

なぜならいまは情報や物語があふれているから。わたしたちは「事実には、もっとたくさんの情報量があることを知ってしまった」のだ。

テレビのワイドショーでは「なぜこんな事件が起きたのか」の因果関係を追い、雑誌のインタビューでは「この時どんな気持ちだったのか」と心境を掘る。

そしてSNSやYoutubeやnoteでは、誰もが世の中に対して、気軽に好き勝手な情報を伝えられる。

「テレビや雑誌ではこう書かれていたけど、わたしにはこんな本音や事情があったんだ」と、本人が情報を付け加える。本人が語っている証拠を捉えて、はじめて「どうやらこれは信じるに値する事実だぞ」と納得する人も、多いんじゃないか。


だからわたしは、いまの時代における伝説の定義とは「本人が語る、本当にあったすごい話」と考える。本人が語ったことに価値を見出したファンたちが、誰かに伝聞していくことで伝説が作られる。

伝説に対して、神話は「他人が語る、本当かどうかわからないすごい話」だ。本当かどうかわからないけど、なんとも信じたくなるような、圧倒的なパワーや魅力を持っている話だ。


ことごとく脂肪という名の服を衣替えの季節になってもなお順調に溜め込んでいるわたしの面倒を見てくれている、トレーナーさんがいる。この間、彼がこんなことを言った。

「総合格闘家の那須川天心さんって、誰と戦っても神話になるんですよ」

わたしは格闘技にあまり詳しくないので、那須川天心さんはそんなに強いのかと聞くと、もちろんものすごく強いのだが、それよりも「試合が終わったあとに、語られる回数と密度の桁が違う」と言った。

(これをコルクにいるまた別の格闘技ファンに軽い気持ちで話すと、歴史の宗教戦争かと思うほどの熱量で言い返されたので、落ち着いて、那須川さんの話はわたしの中で一旦そうなってるものとして受け取ってくれ頼むから)

那須川さんの試合が終わったあとに掲載されるスポーツ記事を見てみると「彼という天才を作り上げたのは、親子関係だろう」「自分がどうなるかわからない恐さがあるのではないか」「心の強さに奥深さを感じる」など、彼の強さや試合相手に対する心情などが、記者やファンの熱い推測で書かれている。他にもそういう人はいるかもしれないけど、たしかに那須川さんの場合、ポジティブに推測されている文章が多いなと思った。

那須川さんは、そこまで深いことを自分では語らない。本人が語らないのならば、ここぞとばかりに、ファンは語ろうとする。だって、彼の凄さを、自分が感じた興奮を、世に広めたいから。

それは、ドバドバに溢れ出る好意によって生まれた使命感だ。

わたしのようなオタクにもよくあることだけど、ある人物についてものすごく大好きだから、過去の出来事を調べまくる。過去との因果関係を感じるなにかが起きると「○○があったから成長したんだ」「きっと○○の影響でこれを始めたんだ」とドラマティックな解釈をしてひたすら感動し、誰かに持論を展開しまくる。本人が語っていないことを見つけた自分に、強烈な幸福や自己肯定感すら覚える。

この時に爆誕するのが、神話だ。

「ちょっとちょっと、勝手なことを言わないでくださいよ。本当はこういう事情なんです」とか「そうですよ、よく気づきましたね」と、本人がたまらず割って入ってきた瞬間に、神話は伝説へと変わる。

神話のままにしておいた方がいいことも、あるけどね。


誰もが自分で発信して、注目を浴びやすい今は、神話が生まれやすく、そして伝説も生まれやすいのだと思う。

ただ同時に、伝説の価値も下がってるんじゃないか。

だって伝説は事実であることが大前提だけど、自分で発信しやすくなったということは、それだけ「事実っぽいものを見せやすくなった」ということでもある。でもそれが事実かどうかは、誰にもわからない。

自分をもっと立派に見せたくて、エッセイで嘘をつく人もいる。会社のホームページを見ると「優しい未来を作る」なんて書かれているけど、実際に入社したらとんでもねえブラック企業だったなんてこともざらだ。

わたしたちは、嘘をつかれることに慣れてしまった。

そもそも人によって事実には無数の解釈が存在する。だから、人が語る以上、たった一つの事実なんて存在しないのだけど、それを冷静に納得できる人はごくわずかだ。

だからわたしたちは「どうやら本当らしいぞ」と自分が納得できるものをとりあえず手に入れて、それが「どうやら嘘らしいぞ」とわかった時に憤ってあっさりと手を離す。

ときに特定班と言われる人たちもやってくる。彼らはTwitterのタイムラインを気が遠くなるような過去までさかのぼり、矛盾を掘り起こしては裁判にかける。

そこに書き手の悪意が含まれていようと、なかろうと、問答無用で書き手はボコボコにされる。たまに人が死ぬ。怖い。


伝説の価値が大暴落していく恐怖のなかでも、やっぱりわたしは、語り続けられる人間でありたい。じゃあどうしていこうかを考えて、今のところの答えは「信頼できる書き手」でいることだ。

自分だったらどんな書き手を信じられるだろう。思い浮かぶのは「読み手を尊敬し、誠実であること」だ。

薄々気がついていると思うけど、わたしのエッセイには、嘘が含まれている。誓って補足すると、それは明確な理由と、明確な愛を持った嘘だ。

ほとんどのエッセイストがそうするように、特定を避けるため固有名詞や時系列は誤魔化していることがあるし、人の細かい発言内容も変えている。思い出せないけど、書かないことには話が組み立てられない虫食いのような部分は「きっとこうだったはず」という推測のもと、書いている。

すべての嘘は読みやすいように、だれかが困らないように、混乱しないように、誤解されないように、という目的を持っている。

だけど、わたしのエッセイに登場する人からしたら「自分の意図とちょっと違う風に書かれてるかもな」と思うかもしれない。

だからわたしは、登場する人も、読み手も、一切の混じりけがない純度100%の事実を知った時に「騙された!」「傷ついた!」「がっかりした!」と思わない嘘を書くことだけは決めている。(言われたことないけど、もし当人から言われたら、絶対に謝罪して訂正する)

素直でいること。誠実でいること。愛を持つこと。それが今のところ、わたしが考える、信頼できる書き手だ。


わたしは、身近にいる大好きな人のことを、全力で語るのが好きだ。

つい先日も、「割れたスマホの画面を修理して、嬉しくなって5秒だけ飛んで見せにきてくれた編集者」の無邪気さにいたく感動して、Twitterで書いた。「弟がわたしのために数字を書く練習をして、本に協力してくれた」ことが嬉しくて嬉しくて、noteに書いた。

二人の口からは、未だ事実は語られていないけど、わたしの文章を通じて、わたし同じ感情を持ってくれた人は大勢いる。二人のもとに、世界中の穏やかな愛が注がれていく。

小さな神話を、これからも語り続けられる人になりたい。そこで語られた登場人物がみんな、笑顔になって、自己肯定感があがるような小さな神話を。

そのためにわたしは、一文字、一文字を、信頼できる書き手の階段をのぼるように、自戒しながら日々を書き連ねていくのだ。今日ものぼろう。






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岸田奈美|NamiKishida
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。