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「一人称単数」を読むと、筋の通らない物語を語りたくなる

※2020年9月「文藝春秋digital」に寄稿した、村上春樹著「一人称単数」の読書感想文です。いつもに増して、長いのです。


村上作品の感想を書くと、なぜか自分の話ばかりしてしまう

文藝春秋さんから「一人称単数の書評をお願いします」と頼まれて、嬉々として引き受けた数分後に、わたしは唸りながら頭を抱えていた。

わたしは4月に刊行された「猫を棄てる 父親について語るとき」で、はじめて村上春樹作品を手にとった。わたしが彼の作品に長く手が伸びなかったのは、亡き父が熱烈なファンであったことに由来するのだけど、長くなるのでここで説明はやめておく。

ともかくその本に深く感動して、単行本を片手にしばらく放心したのち、尻に焼きゴテでも当てられたかのような衝動に突き動かされ、noteで読書感想文を書いた。でも小学校の時にこれを提出したら、「これは読書感想文ではありません」と先生に突き返されそうな気もする。


なぜなら、その読書感想文の7割は、わたしの個人的な話だったからだ。


過去に見落としていたアレとか、何気なく感じていた日常のソレとか、そんなもんを読まされた人からは「知らんがな」と一蹴されてしまいそうなほどに。

以降、わたしは取り憑かれたように村上春樹さんの代表作を一作ずつ読んでいき、「海辺のカフカ」の読書感想文も書いた。物語をしっかりと読み込み、登場人物や舞台となった町を隅々まで調べ、当時の村上春樹さんのインタビュー記事なども掘り起こした。

さあ、いざ!と思って、書き終えた読書感想文は、やっぱりわたしの個人的な話で埋め尽くされていた。なんでやねん。


そう。

わたしは、村上春樹さんの作品を読むと、なぜか自分のことばかり考えてしまうのだ。


走馬灯ばりに記憶が頭を駆け巡り、読後に残るのは「この展開が良かった」や「この登場人物が好き」ではなく、「過去のわたしと同じだ」「あの時、わたしはこう思っていたんだ」という、感想とは別のなにかだけ。

というか、正直、物語の真意みたいなものが、わかってない。

どれくらいわかってないかって言うと「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は、なぜか上巻を二冊持っている。読んだか読んでないか一瞬わからなくなるくらい、展開を掴みきれていない。

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読みやすいし、情景も想像しやすいし、笑えるし、随一の作家による素晴らしい文章だ。

でも結局、この物語はなにを伝えたかったのだろうか、とテーマやメッセージみたいなものを言葉にしようとすると、うまくできない。めちゃくちゃ長いし。唐突な展開もあるし。メタファーも、説明されないと気づけないし。

そんなアホのわたしが村上春樹さんの作品を読み終えると、どういうわけか、本が付箋と蛍光ペンで引いたラインでいっぱいになっている。

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物語はわからなくても、何気なく書かれている一文や、登場人物が話したセリフが、わたしの心に強烈な嵐を起こして、しばらく静まらない時がある。

救いのような困惑のような嵐が過ぎ去ったことを忘れたくなくて、わたしはあわてて付箋を貼り、ラインを引く。

「一人称単数」を読み終えても、まったく同じことが起きた。

読み終えたときに、やっとわたしは、嵐が起きる理由に気がついた。

村上春樹さんの物語をつづる言葉は、わたしが「今まで苦しみ、悩んできたけど、言葉にできないがために、正体のわからないまま放置していたなにか」にピタリと当てはまるからだ。そんな感情を抱いていたことを、言葉を見てはじめて認識したことすらもある。


この気持ちよさったら、もう。
かゆいところに手が届くってレベルじゃない。
かゆいところに荷電粒子砲。



感情を言葉にできないっていうのは、猛烈にかゆい。かゆいけど、それが虫刺されなのか肌荒れなのか、身体のどこで起きてるのか、なにもわからない。わからないから、治せない。かゆみを放っておいたら、膿むかもしれない。感情も同じだ。たぶん。

わたしは村上春樹作品を読むたび、自分の中で膿みかけていた感情に、名前をつけることができる。それでわたしは、確実に前を向いたり、ワーワー言うて元気になったりしている。

村上春樹作品には、わたしも知らない、わたしのことが書いてある。これに気づいたとき、わたしは震えた。天才的な読書体験の発見だと思った。ヘウレーカ!

知人へ自慢気に伝えると「ああ、それ、村上春樹さんの作品を読んだ人には多い感想なんだよね。みんなが自分のことを書いてるって思うんだよ」と言われた。

だいぶ前置きが長くなってしまったけど、ふてくされながら「一人称単数」の感想を書こうと思う。ほとんどわたしの話だ。

でもきっと、みんなにとっても、自分の話だと震えるはずだ。


猿が喋ってるけど、たぶん主人公は村上春樹さん

「一人称単数」は、8作からなる短編小説集だ。

それぞれ話はつながっていないけど、主人公はすべて村上さんだとわたしは勝手に思っている。つまり実話だ。

根拠は三つあって、一つ目は帯文に「ひとつの世界のたくさんの切り口」と書いてあることと。二つ目は主人公が計算士とも、夢読みとも、家出した15歳の少年とも、パン屋を襲撃する夫婦とも紹介されていない男性であること。

三つ目は村上さんの故郷、好きな音楽、明らかに日々通い詰めているであろうヤクルト・スワローズの試合について、体験したとしか思えない細かい描写があること。

でも絶対に実話だという確信に至らないのは、あまりにも非現実的な話がブッ込まれてくるからで。

収録作「品川猿の告白」では人生至上の愛と、実らない孤独について、胸を強く打つセリフがある。

「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。その愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます」
―「一人称単数」 品川猿の告白 p.205

めちゃくちゃに愛しくて、熱量のあるセリフだ。

ただ、これ、誰が喋っているかというと、猿なのだ。温泉宿で唐突に、モンキーがスピーキングしてる。

タイトルの段階で薄々感じてたけどさ、まさか本当に猿が話すと思わないじゃん。


他にも、順調に現実っぽい話が進んでいくかと思いきや、「中心がいくつもあって、しかも外周を持てない円のことを考えろ」とわけらからんことを言い残してドロンする謎の老人、死んだはずのバード=チャーリー・パーカーが演奏したとされるレコードや、着るだけで季節も時間も場所もワープしてしまったスーツなど。

不意打ちで、脇からチョチョイと狐がつまんでくるような展開が差し込まれる。フォックスがアタッキングしてくる。

「えっ……これ実話なの?空想なの?どっちなの?」と、絶妙なラインで揺さぶってくるので、わたしは読みながら翻弄された。


物語を語ることは、自己療養へのささやかな試み

だけど、もう一度全編を読み返して、その困惑はムダだったと思い知る。これが実話か、空想かなんて、どうでもいいのだ。

あとに残されているのはささやかな記憶だけだ。いや、記憶だってそれほどあてになるものではない。僕らの身にそのとき本当に何が起こったのか、そんなことが誰に明確に断言できよう?
―「一人称単数」 石のまくらに p.23

ぼくは言う。「ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が。(中略)」
―「一人称単数」 クリーム p.46

ある。
わかる。
めっちゃ、わかる。

わたしの人生にも、あるのだ。説明もつかないし、筋も通らない、だから誰にも説明ができないけど、ずっと心の奥に引っかかっている出来事が。

しかもつい最近。

(ここから読まなくてもいい→)夏の大雨で、家の近くの稲荷神社の鳥居が水浸しになっているのを見かけた夜、ものすごく長尺で本物みたいな手触りの夢を見た。それはわたしが、過去と未来を強制的に行き来し、あったかもしれない人生の分岐を目の当たりにする夢だった。亡くなったはずの父が元気に働いていたり、わたしは知らない誰かと子どもを育てていたり、母がなんかの会社の社長になっていたりした。

それは幸せな“もしも”で、家族を失った過去のわたしが切に願った分岐であったはずが、どうしてだかわたしは「これより不幸でも、本当の現在に戻りたい」と泣き出し、耳元でコーンと狐が鳴く声が聞こえたかと思えば、目が覚めた。安らかに寝てる同居人を叩き起こして「ねえ!いま令和何年?ここは現実?」と叫ぶ、三文映画でしか見たことないような奇行に出た。(←ここまで読まなくてもいい)

書いてみて、なにひとつ面白くない夢だなと思った。こんなものを読ませてしまって申し訳ない。だから、わたしはこの夢を誰にも話さず忘れようとしたのだけど、心を深くかき乱されていたことは確かで。

わたしは夢のなかでどうして幸福な過去より、苦難の現在を選んだのだろうと、ずっと考えていた。

さすがに猿は喋ったりしないけど、わたしたちの人生にはきっと、そういう不思議な出来事が起こる。

村上さんにも。

だから、「一人称単数」で書かれている不思議な出来事は、村上さんが少し手を加えただけの現実なのかもしれない。

どうして、現実とも空想ともとれる不思議な短編を、村上さんは書き連ねたんだろう。実は、理由らしきものが収録作の一作目から堂々と明かされている。

ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことだ。とはいえ、彼女についての知識を、僕はまったくと言っていいくらい持ち合わせていない。
(中略)
それでもやはり彼女についてあえて語りたいと思う。
―「一人称単数」 石のまくらに p.8

語りたいだけなんじゃないかな、たぶん。

平成十一年に発行された対談録で、村上さんは小説を書くことをこう意味づけている。

僕はむしろ、自分の中にどのようなメッセージがあるのかを探し出すために小説を書いているような気がします。物語を書いている過程で、そのようなメッセージが暗闇の中からふっと浮かび上がってくる。
―「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」p.80

あいかわらず、これはわたしの勝手な憶測だけど。

村上さんは、自分が経験した筋の通らない不思議な出来事や、納得のいかない出来事を、物語として語ることで、そこにメッセージを見出そうとしたのかもしれない。

あるいは村上さんのデビュー作「風の歌を聴け」の冒頭に書いているように、物語を語ることは、自分を癒やす手段にもなる。

今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
―「風の歌を聴け」p.8

わたしは、人間が一番納得できず、癒やされることが難しいものは、愛しい人の突然の死だと思っている。

「ノルウェイの森」では恋人が死に、「海辺のカフカ」では父と母が死に、「猫を棄てる」は亡き父を巡り、そして「一人称単数」に収録されている「ウィズ・ザ・ビートルズ」でもガールフレンドが死ぬ。

この死に、実際のモデルがいるかなんて、もちろんわからない。だけど、村上さんがデビュー作からずっと試みてきた、愛しい人の納得できない死を物語として語り、癒やすという作業を、41年の時を経てまた「一人称単数」で読むことができる。これだけでわたしは、言葉を失ってしまうほど、圧倒された。41年もの歳月を、そこに注ぐことができるだろうか。気が遠くなるようなその挑戦を、読ませてもらっていいんだろうか。


この本のタイトル「一人称単数」は、帯文で「世界のひとかけらを切り取る単眼のこと」だと説明されている。

物語は、語る人や切り口によって、無限に可能性をグイグイと広げていく。納得がいくメッセージが出るまで、いくらでも。

村上さんという一人の作家が、いくつもの違う眼で世界を切り取って、分岐の上にたどり着いた結果を、わたしたちは目の当たりにする。

わたしはその試みに、ものすごく救われてしまった。

あの不可解な夢について、あるいはわたしが経験した過去の痛みについて、あえて語ることで消化できるという希望を見せつけられた。

物語として語ることは、語り手だけではなく、受け取り手にとっても、きっと役に立つ。


物語として受け入れることができた「謝肉祭(Carnaval)」

「一人称単数」に「謝肉祭(Carnaval)」という収録作があるのだけど、これはもう、物語としてしか真っ直ぐに受け入れられないんじゃないかと思った。

どんな美しい女性にもどこかしら醜い部分があるのと同じように、どんな醜い女性にだってどこかしら美しい部分はある。そして彼女たちは、美しい女性たちとは違って、そういう部分を心置きなく愉しめているようだった。
―「一人称単数」 謝肉祭(Carnaval) p.156

トルストイは小説『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、幸福な家庭はみんな同じようなものだが、不幸な家庭はひとつひとつ成り立ちが違うという趣旨のことを述べているが、女性の顔の美醜についてもだいたい同じことが言えそうだ。
―「一人称単数」謝肉祭(Carnaval) p.159

彼女の醜さを理解するには、それなりに時間がかかる。そしてそこには直感や哲学や倫理みたいなものも、必要とされる。またたぶん、いささかの人生経験も要求されるだろう。そして彼女と時を共にしていると、ある段階で僕らはふとささやかな誇りを感じることになるのだ。自分がそのような直感や哲学や倫理や人生経験をたまたま身につけていたという事実に対して。
「一人称単数」 謝肉(Carnaval)p.161

生まれてこのかた、美しいとは言われてこなかったわたしは、この短編を気に入って、早速つづられた言葉をお守りのようにしている。

でも、わたしの心に痛快なほどスッと入り込んできたのは、一連の説明がF*と名づけられた謎の女性を探る物語という形をしていたからだ。

もしこれが完全な実話で、どこぞの誰かがTwitterなんかに書かれていたとしたら「女性の醜悪をこんな風に語るなんて、なんて野郎だ!」とボコられたかもしれないし、わたしも眉をひそめたかもしれない。

物語には、自分を救う力もあれば、他人を救う力もある。わたしは駆け出しの作家だから、そう信じたい。事実は小説より奇なりという言葉があるが、事実との境目が自然と混ざり合う小説も奇なりだ。

「一人称単数」の短編たちを読んだら、強い魅力を放つ奇なりを味わったあと、きっとあなたも物語を語りたくなっているはずだ。

誰の人生にもあるはずの、説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱され、自分を救ってくれるような物語を。


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岸田奈美|NamiKishida
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。

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