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母と50万円払って、神の奇跡を手に入れようとした話

講談社「小説現代 3月号」に連載しているエッセイ「飽きっぽいから、愛っぽい」をnote向けに一部抜粋と編集をして、キナリ★マガジン読者限定で公開しています。イラストは中村隆さんの描き下ろしです。


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いまから、十年以上も前のことだ。

「どんな人でも歩けるようにしてくれる、神様のような先生が北の国にいるらしい」

大動脈解離の後遺症で、下半身麻痺となった母のもとに、とんでもねえ話を手土産にしてきた男がいた。

母は当時、これまでの人生でまぎれもなくドン底にいた。昨日まで歩けていたのに、目が冷めたら、おへそから下がまったく動かなくなっていたのだ。そのショックは、想像を絶する。

「歩けないなら、死んだ方がマシだった」

母は言った。

ベッドで寝返りをうつだけでも、三ヶ月以上の訓練が、母には必要なのだ。

そのうえ、自分の障害を受け入れる間もなく、リハビリで入院していた病院は、出ていかなければならなかかった。他の患者さんのために、ベッドを空けなければいけないのだ。

歩けないだけでもつらいのに、リハビリすらできない。

抜け殻みたいになっている母のもとに飛び込んできたのが、その、神様のような先生の話だった。

話を持ち込んできた男(近所で店を営んでいた)は

「インターネットで見つけた先生やねん」

と言う。

あからさまにいやな顔をしているわたしに彼は気づいた。

「こんな本も出てるから、とにかく読んでくれんか!」

手渡された本には「立てる!」「歩ける!」「奇跡の御業!」という文字が、ゴッテゴテの装飾で誇らしげにならんでいた。

母と二人で本を読んでみると、たしかに奇跡のオンパレードだった。

事故で首から下の神経が壊死し、まったく動かなくなった寝たきりの女性が、先生の編み出した革新的なリハビリにより、立ち上がり、ついには歩くようになったらしい。

人体の常識を覆しとる。


わたしは、本の裏表紙でムスッとして腕を組んでいる、先生らしき老人を指さした。

「この先生、お医者さんなんですか?」

「ちがう」

「じゃあ理学療法士さんとか?」

「まったく関係ない仕事をしとって、奇跡に目覚めたらしい」


驚異の無資格。


母が歩けるようにならないことは、何度も医師に確かめて、わかっていた。となると、本当にこの老人が、奇跡を起こしたというのか。

「こんなの信じられへんよねえ」

わたしは、ちらりと母を見た。笑い飛ばすつもりだった。

文字を追う母の目は「そんなばかな」という戸惑いだけじゃなく、「もしかして」というささやかな灯火も宿っていた。

いわゆる希望の光というものを、わたしははじめて、目の当たりにした。


「その先生のところへ行って、泊まり込みでリハビリをしてきたらどうや?昨日、電話して聞いてみたんや」

この男、話が早すぎる。

「一年先まで予約でいっぱいやけど、二週間後なら偶然にもキャンセルで空きが出たらしいわ」

「へえ。いくらくらいするんやろう?」

「コミコミで50万円やって!」

「ごっ……!?」


高い。

保険のきく病院でリハビリしたなら、せいぜい数千円だ。それに岸田家は、父が亡くなり、母が倒れたばかりで、わたしと弟はまだ学生。経済状況は絶望的である。

「……行こうかな」

母が答えた。

「どんなことしてでも、歩きたいねん」

死にたいとまで言っていた母が、今は前を向いている。退院してからは、初めてのことだった。先生のうわさが本当かどうかなんてわからない。

でも、昨日まで悲しみに暮れていた母がそう言うなら、気の済むまでやったらいい。そう思った。

リハビリには、毎日それを手伝える家族も一緒に泊まり込みしなければならないらしい。わたしだ。

先生がいるのは、飛行機と快速電車を何時間も乗り継いで、やっとたどりつける雪国。きっちり三泊四日、わたしは高校を休まなければならない。

「でも、奈美ちゃんには悪いわ」

母が気まずそうに言った。わたしはもう覚悟を決めていた。

「ええよ。行くわ」



雪国は、想像以上の雪国だった。

駅のロータリーで、がたがたふるえながら迎えの車を待っていると、灰色のバンが到着した。

バンにはどぎついピンク色の創英角ポップ体で「介護タクシー ファンシィ♡」とプリントされている。

降りてきたのは、強烈にファンシィで、爆裂にハイテンションな夫婦だった。

「岸田さあん!ウフフフ、よォこそいらっしゃい!さあっ、乗って乗ってえ、寒いねぇ、中は旦那があったかァくしてるからね!」

「どうもどうもォ!旦那です、よろしくでェッス!」

かつみ♡さゆり。

林家ペー・パー子。

わたしの脳裏に、その二組がよぎる。

「毎日わたしたちがお迎えしますからねえっ!観光したいことがあったら、こーっそり案内しちゃうよォッ」

親しみやすいのと、テンションが高いのとは、まったく別のことなのだと悟った。できるだけ観光は遠慮したいなと思いつつ、ひきつった顔で、わたしたちはうなずいた。


バンに連れていかれたのは、普通の住宅街だった。ファンシィさんはとある民家の前でわたしたちを降ろすと、「じゃあねェ〜〜〜!」と叫び、そそくさ帰っていった。

まるで、家の人に会いたくないみたいだ。

「岸田さんですね、こちらへ」

ゆるやかなスロープになっている玄関の引き戸をあけ、わたしたちを迎え入れてくれたのは、無愛想なおばさんだった。

ファンシィさんとの落差が、ナイアガラの滝かのごとく深すぎる。

彼女は先生の息子の嫁で、リハビリの助手だそうだ。息子らしき人も見かけたが、彼がなにをしているのかはしらない。

ともかく、一家総出で、この家ではリハビリを受注しているようだ。

「じゃ、ここでリハビリしてもらいますんで」

玄関を入ってすぐ、大きな土間がある。その土間と、奥にある和室が、リハビリの教室とのことだ。

踏み台、やたら大きなひじかけの椅子、マットレスなどのリハビリ器具が散らばっていた。病院のと圧倒的に違うのは、どれも隠しきれない、昭和のお手製感が漂っていることだ。

花柄の汚れたキルティング生地でつくられた貧乏くさいカバー。なにをしたらそんなに汚れるねんと思うくらい汚れたバッドばつ丸の巾着袋。


ただ、そんなものが霞むくらい、ものすんげえ存在感を放っていたのは。


和室のどまんなかで、ソファにどっしりとこしかけた、ものすんげえ巨体の女性だった。


太っているだけでなく、腕も肩も異常にガッチリしており、呼吸のひとつひとつが深くてブハーッブハーッと地鳴りのように響き、目もぎらぎらしている。

ぴくりとも動かず、じっとわたしたちをにらむ姿は、まるでクマのようだ。インペルダウンに収容されてると言われても驚かない。

「こ、こんにちはあ」

彼女はだまって、フンッと鼻息を鳴らしただけだった。

「あの人が、本で歩いてたKさんやね……」

本ではKさんだと写真で紹介されていた彼女は、奇跡に顔をほっこり綻ばせていたはずだが、その面影はいまやまったくない。

ただ、ただ、怖い。

しかしそれを上回る、恐ろしい存在がいた。それが、彼女の隣で仁王立ちをしている老人、つまり先生だ。

けわしい顔つきをして、丸い眼鏡をかけ、白髪と白ひげをたくわえている。インペルダウンに収容されてると言われても驚かない。

「リハビリを手伝えるの、娘さんしかいないの?」

「はい、すみません」

不機嫌そうな声に、思わず謝ってしまう。

「はあ。かなり厳しいリハビリになるけど、ついてこれる?」

「はい」

「奇跡を信じることが、できるね」

「えっ……」

「奇跡を信じれば、あなたがたも、こうやって歩けるんだよ」


先生はおもむろにKさんのそばへ行き、彼女のお腹まわりにベルトを巻いた。柔道着の帯みたいな素材で、へそのあたりでしっかりロックできるよう、ゴツい留め具がついていた。仮面ライダーの変身ベルトみたいだ。

「ふんっ!」

「うぐうゥゥゥゥッッ」


先生が腰を落としてベルトを持つと、Kさんとともに唸り声を上げて、ソファから立ち上がらせた。

ズオンッ。


山が動いたような迫力に、啞然とした。母を見ると、口元の前で手をあわせていた。

立ち上がらせたというよりは、力ずくで引っ張り上げたんじゃないのか、と言うのはよしておいた。

「ほらっ、ほらっ」

先生はベルトの右側をひねったり、左側をひねったりしながら、Kさんの体を抱えてねじるように振り回し、すり足で前に進ませる。

30センチも動いていなかったが、とにかく、歩いたといえば歩いた。

寝たきりの頸椎損傷の人が、他人の手を借りながらもこうやって自重を支えて立ち上がるというのは、それだけですごいことではある。

きつい訓練と努力に感動を馳せる一方で「果たして、これを歩けたと言っていいのか……?」という疑問も、わたしの思考をかすめていった。

Kさんを元のソファへ座らせ、先生は汗だくになっていた。額の汗を拭いながら、しかめっ面のまま振り向く。

「すごいでしょう。Kには、リハビリ中もずっとここに座って、あなたがたを見守ってもらうから。きっとパワーをもらえるだろうよ」

なにそれ、こわい。

かくして母とわたしは、Kさんのなんともいえない眼光を背中に感じながら、リハビリに励むことになったのだ。



先生のリハビリは、予想していたより、ずっと独特だった。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。