飽きっぽいから、愛っぽい|エッセイを書くということ @パソコンの前で
キナリ☆マガジン購読者限定で、「小説現代9月号」に掲載している連載エッセイ全文をnoteでも公開します。
表紙イラストは中村隆さんの書き下ろし、今回が最終回です。
わたしはなんのために、エッセイを書いてるんだろう。
二ヵ月前、ちょうど暑くなってきたころから、途中で力尽きるように、書くのをやめてしまう原稿がどっと増えた。下手になったなあ、と落ち込んでしまう日もある。
最近、気づいたことがある。
いや、本当はずっと前から気づいていたけど、気づかないふりをしていたことが。
わたしは、本当は、わたしのことが大嫌いなのだ。
外ではつとめてノホホンと、楽しそうにやってはいるから、忘れてしまいそうになるが。
日常のちいさなことで蹴つまずいては、なんでわたしはこんなにダメなんやろか、と頭を抱える。しくじりを思い出しては、恥ずかしくなって「あわばばば」と街ナカで大声を出してしまう。
自分を嫌いなままで、生きていくのはしんどい。
わたしは、わたしを好きになりたい。
そのためにやったのは、過去のわたしを利用することだ。
かつてわたしは、幼くて、弱くて、青くて、あまりにアホだった。あわばばば。目をそむけたくなるような過去をグイとつかまえ、土俵に引きずりだし、まわしを摑んで引き倒す。過去を見下ろしながら、わたしはこう言い放ってやるのだ。
「今のわたしは、あんたよりもちゃんとしてるからな」
土俵でじたばたしている過去を、しょうがないヤツだなと蔑んでみる。そして、立派な名前をつけてやる。
学びとか、気づきとか、反省とか。過去を語りなおすことで、予想もしなかったおもしろい笑い話や、胸をつかれる話ができあがったりすると、ホッとする。
幼くて、弱くて、青くて、アホなわたしはそこにもういません。だってわたしは、もう、その過去に立派な名前をつけて、決別したのだから。それができるのは、今のわたしが、真っ当に成長したから。
そんなふうに思えたとき、わたしは、ちょっとだけ今のわたしを好きになれるのだ。
過去のわたしへの強烈な否定が、現在のわたしの価値を肯定する。
ああ、しまった。もう連載は最終回だというのに、こんなイヤな出発点で、位置についてしまった。でも走り出すしかない。
わたしはずっと、父に褒められたかった。
この連載がはじまったとき「筆を伸ばす、私を思う」という話を書いた。小学生になったばかりのわたしは、父に連れられた西宮浜で、堤防に絵を描いていいと言われた。緊張してなかなか描きだせなかったが、やっと絵筆を押しつけると、父は「ええやん。うまい、うまいわ」と褒めてくれたという話だ。
噓だった。父がわたしを褒めたなんて、噓だ。
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