いなくなった、あの人のこと
今年の3月ごろ、足を運ぶのにダントツで気が重い場所は、役所だった。
母が感染性心内膜炎というやばい病気で入院。
祖母の物忘れが急加速し、介護認定。
ダウン症の弟と祖母が一緒になるとトム&ジェリーからユーモアを抜いたような様相になることが増えたので、弟のグループホーム入居。
十年も精神病院で過ごしていた祖父が亡くなったので、相続。
わたしが東京から神戸へ出戻ることになったので、引っ越し。
一気に押し寄せてきたので、事あるごとにわたしは役所に行っていた。クエストを進行しに行ったはずが、なぜかいつもクエストを受注して帰ってきたような気がする。
書類を作るための書類に押す印鑑を証明するための書類を作るから、家に郵送する書類と他の書類を集めてもう一度来てね、みたいな。ドラクエの石板集めの方がまだ簡単。
でも、手続きが面倒というだけで、気が重かったわけじゃない。
手続きって、お金をもらうことでもあるから、慎重な手順になるのは仕方ない部分もあるし。
それよりもね。
こう。
窓口の担当の人と、しゃべるのがね。
「はあ。娘さん、家でできる仕事なんですよね?わざわざ、おばあさまと弟さんを施設にお願いしなくてもいいんでは?」
はじめて窓口に案内されたとき、「生活福祉課 東海林」と名札をぶら下げた男性に言われた。丸い眼鏡と、微笑むように太い眉が目尻に向かっていて、真面目で朗らかな人なんだなとホッとしていたけど、それはただの下がり眉で、彼は真面目で真顔なだけだった。
祖母のデイサービスと、弟のグループホーム利用を相談したくて、ここへ来た。デイサービスとグループホームという仕組みの存在にたどり着くまでにも、ずいぶん時間がかかったのだ。心身ともすでにヘロヘロだ。
「えっと、東京でまだ出演や取材の仕事があるし、四六時中いっしょだと気が散って仕事も集中できないので……」
「はあ。引っ越すんだったら転職の予定は?時短とかバイトは考えました?」
「ないですね。いま家族で働けてるのはわたしだけですし」
「はあ。でも執筆業ってこれ……」
「それで食べてるんで大丈夫です!」
東海林さんは怪訝そうにわたしを見る。
「加藤浩次さんと!一緒に!出演してるんで!」
福祉に頼る前に、隣街にあるハローワークに頼ったらどうだ。そんな空気を彼からびしびし感じたので、食い気味に言った。名前の知られてない執筆業なんて、そんなもんである。特に田舎では。
いろいろ口上を試してみたが「加藤浩次さんと一緒に出演してるんで」が田舎では最も強力な通行手形になると知ったので、月1の不定期出演だろうがなんだろうが、わたしはそう言っている。一度「文藝春秋に載ったんで!」と言うと、「あの家の子は文春砲に撃たれてね」という文脈でご近所に使われてしまったから気をつけねばならん。
とりあえず福祉の窓口に行けば大丈夫!寄り添ってくれます!というネット上の励ましを鵜呑みにしていたので、寄り添うどころか突き放されとるやないか、とべそをかいた。
「はあ」という、ため息と相づちの悪いとこどりをした言葉を発せられるたび、手押し相撲で土俵に向かってドスコイされてるような気分になる。
「はあ。じゃあ、グループホームの方から案内しますね」
「お願いします!」
「どこのグループホームの利用を希望します?それともショートステイから始めます?」
「ほ?」
グループホームとショートステイの違いが、よくわからない。
「はあ。利用日数はどうお考えですか?」
どうお考えと言われても。
なにも考えていなかった。とりあえずここに来れば、この切羽詰まった状況をどうにかしてくれる。そんな甘い気持ちでいた。
「とりあえず週2で、そんで本人が気に入ったら週5とか好きなだけ!」
ものすごく元気で金に困ってる学生バイトの面接みたいな答え方をしたら、東海林さんはこれまでに一番大きなドスコイをこぼした。
「………はあァァァ。あのねえ、利用日数には上限あるの知ってます?いつまで通うとかそういうの考えてます?」
知りません。
考えてません。
ごめんなさい。
生きてて申し訳ありません。
「なにも知らずに来ちゃってすみません……あの、そこから相談させていただけますか……」
「はあ。あー、じゃあちょっと待ってくれます?」
東海林さんはポッケに寸胴でも入ってんのかと思うくらい重そうな腰をあげて、カウンターの奥へと引っ込んでいった。
「んじゃあ、これに記入してください」
しばらくして、東海林さんが三枚の紙を持って戻ってきた。まだ温かかった。
「ここに名前、ここに住所、ここは弟さんの生年月日……」
東海林さんは、記入項目をひとつひとつ、鉛筆で薄く下書きしていく。
こんなに面倒くさそうなのに、そんな読んだらわかるような項目を下書きしていくんか。この人の面倒事の基準はどうなってんだ。
「で、こっちの紙にも、ここに名前、ここに住所、ここは性別に丸を……」
限りなく同じことを、またいちいち、鉛筆でなぞっていく。同じ説明が何度も続くので、疲れておネムなのもあり、つい適当に「はい、はい」と答えてしまったら
「いや、障害等級についておたずねしたんですけど?」
真顔でピシャリと詰められてしまった。ごめんなさい。すみません。
それから何度も役所に行ったが、窓口に出てくるのはいつも東海林さんだった。ドスコイ!
入り口で整理券を配っている人たちはみんな笑顔で親切なのに、その奥で東海林さんが座っている姿があって、その落差がきつかった。
生きたいと願うだけで面倒そうな扱いをされるのが、きつかった。
「一度、岸田さんのお宅にケースワーカーがうかがいますんで」
ある日、東海林さんから電話がかかってきた。ニコリとも笑っていないのが電話越しに伝わってきた。
ケースワーカーとは、福祉事務所で働いてる地方公務員だ。わたしのように、生活に困っている人の相談に乗り、時には家庭訪問をしながら、どうやって支援すべきかの計画を練ってくれる。らしい。
どんな人が来るんだろう。
おそろしかった。
ここまででわたしは、役所や福祉に、過度な期待をしてはいけないと決めていた。教訓は「あたりはきつくて当たり前」だ。
だから、その人がはじめて家へやってきたとき、びっくりした。
「こんにちはあ、甲斐です。こんにちはあ、お邪魔しますう」
甲斐さんと名乗る、40代後半くらいの小柄なその女性は、家にあがるまでずいぶん時間がかかった。
なぜなら、わたしだけではなく、のっそのっそと沼から這い上がってくる妖怪のような動きの祖母や、なんだなんだと壁の端から様子をチラ見する弟にも、ゆっくり目線をあわせて、名刺を差し出してくれたからだ。
あと興奮して暴れまくる犬の梅吉にも、名刺を差し出しそうな勢いの愛想であいさつしてくれた。
「お話は大体、役所から引き継ぎました。こんなに若いのに、お一人でさぞ大変でしたね。もう大丈夫ですよ」
席についた甲斐さんが、おっとりしてるけど確かに感情という抑揚のある口調で、言ってくれた。
ずっと誰かに言ってほしかったことを、言ってくれた。
ぼろりん、と涙がこぼれた。
「あの、ずっと、わたし、どうしたらいいかわかんなくて、でもわたしが頑張んなきゃ、弟とか、ばあちゃんとか大変だし、いまもずっとわたしがいないとケンカしてて、こないだも窓ガラスがわれて」
土砂のように、とりとめもない言葉があふれ出た。
うまく話せない弟と、我を忘れる祖母が、罵詈雑言で追いかけあった末に粉々に割ったガラス戸を指さした。
岸田家のなかで一番、他人に見られたくない場所。だけどずっと誰かに気づいてほしかった場所。
一瞬、甲斐さんは言葉を失くして。
「岸田さんは、えらいです。本当にえらいです」
なにを話したかあまり覚えていない。
甲斐さんが支援に必要なひとつの質問をするたび、みっつくらい、いらん心の内を話してしまったように思う。
これが電化製品のことなら、パパッと「値段優先で」とか「機能重視で」とか一言で即決できるのに。家族のことになると、油ギトギトの余計な情報をわんさか伝えたくなる。
目的はシンプルに「祖母と弟を安全に外へ出す時間を作りたい」なんだけどな。「弟は家でゲームするのが好きで」とか「認知症の人がいっぱいいるとこに祖母が行くのはちょっと不安で」とか、矛盾した希望が、ものごとを複雑にしていくのはなんでだろな。話すだけ話したら、ちょっと楽になっちゃった気もして、結局どうしたいのか、たまに自分でもわからなくなる。
わからなくても、今この場という座標で、溺れながらもがいてる状況をどうにかしたい。その執念だけが、心の底から気管支を逆流し、口から炸裂する。
甲斐さんは、一度もさえぎらなかった。
持ってきた分厚い書類のファイルに、わたしが話すたび、ペンを走らせていた。
約束の三十分が、矢のように過ぎた。はっとする。結局なにをどうすればいいか、決められていない。言葉ばかり、あんなに尽くしたのに。
「それじゃあ一度、事務所に持ち帰って、お電話しますね」
そうして甲斐さんは帰っていった。
土日を挟んで、週明け。甲斐さんから電話があった。東海林さんじゃないことに安堵した。
「弟さんが通いやすそうなグループホームをいくつかリストアップしました。今から郵便で送りますね」
「ありがとうございます!」
「これはお節介かもしれないんですけど」
甲斐さんは、笑顔が目に浮かびそうな声色のまま、そっと前置きした。
「できれば少人数で、利用者さんと運営さんの距離が近くて、自由時間やレクリエーションが多いグループホームが弟さんには合ってると思うんです。ちょうどその条件にあうところに話をしてきまして」
「すごい!それは嬉しいです!弟はみんなとおしゃべりするのが好きなので」
でもそんな条件、わたしは訪問のときに一度も伝えたことがなかった。どうしてわかったんだろう。
「岸田さんのお話を聞いていたら、なんとなく、人とかかわることが得意な弟さんなんだろうなと思って。あと、いま通われている作業所にもお電話して、普段の過ごし方も聞いたので……」
わたしは、ダウン症の弟を、ただ家から追い出したいだけじゃなかった。
楽をするために、他人に面倒を押しつけたいわけじゃなかった。
ただ介護をしてほしいと願っていたわけじゃなかった。
幸せに生きてほしい。わたしがもし死んでしまっても、家族以外のたくさんの誰かに頼って、たまには頼られて、我慢も協力も酸いも甘いも経験して、健康に自立してほしい。
だけど、そんな贅沢言ってらんないし。
だってうちは、福祉に頼ってるから。福祉は平等だから。幸せじゃなかったとしても、助けてもらえるだけで、ありがたいから。
そう思っていたので。
「おしゃべりするのが好きな弟さんには、そのままでいられる場所を」
幸せを選んで生きていいんだよと崖っぷちで言ってもらえた気がして、また泣いてしまった。この時期のわたしは本当に、涙腺が弱かった。乳児より弱かった。
場所としても、雰囲気としても、第一希望のグループホームは残念ながら満室だった。
でも、甲斐さんが間に入ってくれて、グループホームの運営者さんたちの協力もあり、事情が事情だからと、母が退院するまでの体験利用という形ですぐに入居させてもらえることになった。
退院後は、空きを待つか、別のグループホームに入居を検討しないといけないけども、とりあえずの手段ができたというだけでありがたいし、なにより。
「弟さん、元気に過ごされてますよ。デザート食べてます」
「今日は食後にみんなでトランプゲームをしました」
弟がいない家で、不安で犬を抱きながらウロウロしていた姉は、送られてきた写真を見て、むせび泣いた。
あんた、甘いもん嫌いで、食べへんかったやん。トランプなんて、ルール知らんはずやん。それなのに、楽しそうやん。どうしたん。
よかったなあ、よかったなあ。
じたばたする犬の毛で涙を吹きながら、何度も、何度もこの写真を見た。たぶんわたし、死ぬ間際にも見ると思う。生涯一番好きな弟の写真が、もしかしたら、わたしのいない写真になるのかもしれない。
弟は、たまに家に帰ってきても「グループホームいっていい?」と言うようになった。好きなだけいったらええ。姉ちゃんは嬉しい。
「岸田さん、スッキリ見ましたよ!いやーっ、わたし、さっきまでテレビに出てる人と電話してる!不思議ですね!」
甲斐さんの電話は、いつもこういう一言からはじまった。話すのが楽しみだった。あなたのおかげでどんなにいま弟が楽しそうに過ごしてるか、伝えても伝えきれなかった。
そんな甲斐さんの電話を一度だけ、ブチッと切ってしまったことがある。
「もしもし。岸田さん、ちょっと今よろしいですか?」
「あーっと、すみません!これから出演で!またすぐ折り返します」
そしてわたしは、慣れない出演の仕事でいっぱいいっぱいになり、折り返すのをすっかり忘れてしまっていた。直前で段取りの確認に焦っていたので、だいぶ早口で、それこそドスコイな対応をしてしまったはずだ。
そのまま母が退院し、甲斐さんが電話をする先も、母になった。一ヶ月、二ヶ月と経つ内に、最初は心待ちにしていた甲斐さんの電話も、いつしか、当たり前になってしまった。
先日、母がぽろっと言った。
「甲斐さん、辞めはってんて」
びっくりした。
「うそやろ?なんで?」
「さあ、いきなりやし……ええ人やったのに、残念やなあ」
甲斐さんは、なにも言わずに、いなくなってしまった。
あんなに楽しそうに仕事をされていたのに。どうして。
楽しそうに?
果たして、本当にそうだったか。
今、思い出すと、わたしが最後に聞いた甲斐さんの声色は少しだけ沈んでいたような気もする。わからない。愚かなわたしは、自分のことばっかりで、そんなことすらも忘れて、折り返さなかった。
「すみません、あの、他の方のお話が長引いてて、ちょっと遅れてて……」
甲斐さんが困ったように、遅刻の連絡をしてきたこともあった。わたしにとっては、甲斐さんがたった一人のケースワーカーだったけど、甲斐さんの担当はたくさんいる。謝りながら遅刻をするほど、甲斐さんは話を聞いていた。たぶん、わたしのような、とりとめもない事情と情緒を洪水のようにぶちまける人の話を。
甲斐さん、あの時、疲れた顔をしてなかったか。
「事情が事情だと思うので、ちょっとわたしも上司と東海林さんに相談しますね」
こう言ってくれたとき、イレギュラーな交渉をしてくださって、わたしはすごくありがたかった。でもこの相談は「すみません、もう少しかかりそうで……融通が効かないことばかりで、嫌な思いをさせてごめんなさい」と甲斐さんが何度か説明してくれた。
甲斐さん、あの時、板挟みになってたんじゃないのか。
甲斐さんはいつでも優しかった。いつでも話を聞いてくれた。いつでも力になってくれた。いつでも一歩先をいきながらも、振り向いたままやわらかく受け止めてくれた。
甲斐さん、あの時、しんどかったんじゃないのか。
すべてはわたしの妄想だ。そんな気もする、としか言えない。
なんらかの事情でこの土地を離れたけど、どこか別の場所でまたケースワーカーをやってるかもしれない。別の仕事をやってみたくなっただけかもしれない。宝くじが当たってハワイに永住してサーフィンしてるのかもしれない。いきなり辞めたなんてことはなくて、ただ、うちに言うタイミングがなかっただけかもしれない。
そうであってほしいと願う。
願ってるのに「もしかして」ばかりが頭をよぎるわたしは、過去のわたしを許せていない。
今すぐ、甲斐さんに電話をかけなおせ。素っ気ない対応をしたことを詫びろ。そして元気に言え。いつもありがとうございますって。今うちは大丈夫なので、遅れても全然気にしないでくださいって。わたしが介入できることなんてなんもないけど、それでも言え。
甲斐さんは、どんなにしんどくても、福祉を受けるほど困っている人の前で、なにも言えないんだから。
しんどいのに、しんどいと言えない絶望は、わたしが一番、わかっていたはずだから。
一方的にわたしが吐き出したしんどいという言葉だけを受け止めて、甲斐さんは、いなくなってしまった。
優しい、ってなんだろう。
甲斐さんは、優しい人だった。
だけど、なにも意識してなくて天然で優しい人もいれば、優しくあろうと努める人もいる。優しさにはキリがない。頑張ればどれだけでも、人は人に優しくできる。
でも、優しさは無限に湧き出る超常物質じゃない。
体力を、心を、平たくいえば命を削って、優しさを分け与えている。
福祉の窓口には、今日も生活に困る人々が殺到している。生きるのにギリギリ精一杯の人は、目の前のことしか見れない。わたしもそうだった。
荒野をさまよって、窓口にたどりついたとき、期待をする。
「きっとこの人は、助けてくれるんだ。自分に起こった辛いことをぜんぶ話せば、きっとわかってくれるんだ」
カウンターの向こう側にいる、たった一人にすがる。そこで優しくしてもらえなかったら、期待した分だけ、絶望する。恨む。怒る。
わたしにとってはたった一人でも。担当者にとっては一人じゃないのに。
助けを求めて窓口にやってくる人々は、多いと一日で百人を越す。百人すべてに、優しさを分け与えることが、とりとめもない話を聞きながら語らない本音を救いあげて寄り添うことが、果たしてできるだろうか。
福祉は、命を守るためにある。でも守りきれないときもある。そんなとき、優しい人は「本当に自分はちゃんとできただろうか」と悩む。ちゃんとしても、どうにもならないこともあるのに、自分を責めて、頑張ろうとする。
そんなもん、身が保たんのじゃないか、とわたしは思う。
東海林さんは、淡々としてる。ため息もつく。簡単なことをまどろっこしく説明する。無駄話なんて受付けてくれない。
東海林さんは優しくないんだろうか。
もしかしたら、そうすることで、自分の心を保ち続けてるんじゃないか。甲斐さんはいなくなった。東海林さんは今も窓口にいる。何人も、何人もの困ってる人の手続きをしている。淡々と。誰に嫌われようとも。福祉は誰にも平等な制度であって優しさの権化ではない。
仕事を止めないことが、東海林さんの優しさとも言える。
以前、スッキリに出演したとき、恋人が子どもを虐待死させてしまったという母親のニュースを見た。つらかった。
暴力を知りながらなにもできなかったというのは、母親が保護者としての役目を果たせていない。果たせていないのには、なんらかの理由がある。お金の理由、心の理由、家族の理由。
守るというのは、かばうという意味ではなく、その自分じゃどうしようもできない理由を他人と探り、ともに解決を目指すこと。
子どもを守るには、親を守らなければならない。
要介護者を守るには、介護者を守らなければならない。
でも、その親を。介護者を。
守ろうとするのも、また人なのだ。
甲斐さんや、東海林さんたちだ。
彼らのことは、誰が守ってくれるんだろう。それは、国が?公務員としての安定した雇用が?給料が?
それもそうだけど、毎日のように他人の人生を目の当たりにし、時には暮らしにまで介入し、勝手に失望され、怒鳴られ、“誰にでも平等にやって当然”と言われる彼ら彼女らは、それで本当に守りきれているのか。
母親のニュースの報道で
「役所や児童相談所の人がもっとちゃんと対応していれば……」
と苦言を呈する人たちの声が目立った。
この母親の件については、そうかもしれん。そうじゃないかもしれん。わたしがしんどいのは、甲斐さんのような人が「どんだけ頑張ってもこんな風に言われるのか」と、糸がぷつんと切れてないかということだ。
そしてまたひとり、わたしのような人の前から、甲斐さんのような人が消えていく。
その手にある分厚いファイルには、一人ひとりの壮絶な人生が綴られていて、何冊も、何冊も、棚におさまっている。
ここまで長ったらしくダラダラと書いて、なんの結論もないんだけど、ずっと喉奥に詰まってたことを書いた。
それでもわたしはまだ東海林さん、苦手なんよ。怖いし。ただ、いつも帰り際に「ありがとうございました」と、言えるようになった。わかんなかったら、怯まずに「ここもう一度教えてください」って頼むようになった。
悪い人ってわたしの周りにはあんまりいなくて、自分にとって都合が悪い人がほとんどだ。
「優しくしてほしい」という都合を、わたしは捨てた。そしたらなんか、東海林さんの「はあ」が減ったような。でも日によっては減ってないような。
一度、甲斐さんに
「東海林さんって怖いですよね、ああいう人が窓口にいると大変ですよね」
と愚痴をぼやいてしまったことがある。
甲斐さんは苦笑いしながら
「でも東海林さん、きっちりしてるから助かりますよ」
と言った。人の数だけ、優しさの形がある。
自分が嬉しいと思う優しさの形を受け取ったとき、ありがとうと、言っても言い足りない気分になる。
週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。