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ゆでたまごは、美しい人の美しい話なのか

向田邦子さんのエッセイ「ゆでたまご」が、SNSで話題になっていた。嬉しい。声が裏返った。

好きで好きで好きすぎるがゆえに、SNS上の反応ではまだ誰も書いていない感情がわたしのなかにあるので、いてもたってもいられず、恥も外聞もなく乗っかってみる。あとから恥ずかしくなってくると思うので、気が済んだらこのページは跡形もなく爆散する。


ゆでたまごは、向田邦子さんが「愛」について語る、文庫なら3ページに満たないエッセイだ。

男どき女どき」に収録されているので、詳しくはおのおの手にとってほしい。

ざっとしたあらすじは、

小学校四年生の向田さんのクラスには、片足と片目の悪い“I”という子どもがいた。秋の遠足で、Iさんの母親が「これみんなで」と風呂敷と古新聞に包んだ大量のゆで卵を向田さんに押しつけ、向田さんはひるんだが、断ることができず受けとった。母親は歩いていくIの背中を見守っていた。運動会の徒競走で、片足をひきずりながら一人だけ残っているIが、走るのをやめようとした時、女の先生が飛び出し、ゆっくりと一緒に走ってゴールしたあと、抱きかかえるように付き添った。向田さんは、愛という言葉を見ると、いつもこの光景を思い出す。愛とは小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動であるのだと。

という具合だ。

まさか自分に向田邦子作品のあらすじを書くチャンスが訪れるとは思わなかったので、いま、とても高揚している。ここまで冷えた麦茶を三杯飲み下した。


はたしてこれは、美談なのだろうか。

Iさんの母親や、先生は、美しい行動をした、美しい心の持ち主なのだろうか。

「泣けた」「美しい」「温かい」での一言で終わる前(その感想を抱いている人も一切否定しない)に、一旦、一旦わたしの話を5分だけ聞いてほしい。損はさせない。

実はそんな一言では紹介しきれない、向田邦子さんの無限の愛の広がりが、このエッセイには存在する。……と、わたしは勝手に思っている。


そもそも、Iさんの母親や先生の行動は、受け取り手によっては美しいどころか、迷惑で厄介きわまりない。


ちょっと、想像してみてほしい。

小学校四年生の遠足の日を。まだ小さな身体でわっせわっせと背負うリュックサックの中には、お弁当、お菓子、水筒、ピクニックシートなど、前日から詰めた荷物。みんなが集合し、非日常感にワクワクしながら、さあ行くぞ!と思っていた矢先。

同級生の母親から、まだポカポカ温かい、でかくて重くてしかも汚れた風呂敷包みを押しつけられるのである。文字通り、遠くまで足を伸ばす遠足の楽しさは、身軽さに比例するというのに。

仲のいい同級生ならまだしも、向田さんはIさんのことを「性格もひねくれていて、かわいそうだと思いながら、疎んじて」いた。

案の定、向田さんは「重いのはいやだな」とひるんだ。わたしでもそうする。でも、Iさんの母親は「みんなで食べて」と頭を下げるので、いやとは言えずに受けとってしまう。わたしでもそうする。

これは向田さんだから、いつまでも見送る母親の姿を見て、いろいろと思うところがあって受けとったものの、他の子どもだったらどうだったろう。無粋なことを言うけど、断れないから厄介で、重いから迷惑だ。


運動会で、走るのをやめたり、とびきり遅くなったりする生徒に、大人が駆け寄るという展開はめずらしくない。ようやくゴールした瞬間、まわりから拍手喝采が起こることもある。

でも、これで余計に恥ずかしい思いをした人はいないだろうか。自分の力で走りきれないことを感動されるより、さっさと棄権したいか、助けてもらわなくていいから最後まで走りたいかは、もちろん大人に伴走してもらいたいかは人それぞれだ。

Iさんの先生の行為だって、子どもによっては、救いにもなるし、厄介で迷惑にもなる。


ゆでたまごは、なんかいい話なんだけど、なんかいやな感じもじんわり滲む。それこそが、この作品の最大の魅力だとわたしは考える。


子どものためを思って、ゆで卵を大量にゆでて、風呂敷に包んで同級生に託すことも。運動会でうまく走れない子のために、助けに入ることも。

受け取り手によっては、美しい行為でも、正しい行為でも、なんでもない。

子ども本人がそれを望むかをたずねないままに、衝動で飛び出してしまったけど、悪気のない思いやりが善意がわかるからこそ子どもは断れない。これが迷惑で厄介な行為とわたしが名づける理由だ。

向田さんも、これらの情景を詳細に書きとめているが、そこに対して「感動した」とも「正しい」とも、自分の感情を明らかにしていない。ただ結末で「愛」といわれれば、それを思い出す、と述べているだけである。


向田さんは、きっと「厄介で迷惑でどうしようもない行為を、わかっていながらも、いてもたってもられずやってしまう人間」を愛しいまなざしで見つめていたのではないかと思う。

それは、許しに近い。

押しつけの優しさに、押しつぶされてしまいそうな時がある。断れないからこそ、行き場のないモヤモヤは恨みに変わるときがある。

でも、それをせざるをえなかった人の気持ちを、時間を越えて向田さんは受けとっている。それはもう、徹底的に固定観念を取り払った想像力で。見たものを、見たままに受け取るのは、大人になるとなんと難しいことか。

そして向田さんは「それは愛だったんだね、わかるよ」と、許している。

向田さんに描かれた母親や先生の姿を見て、過去の自分のことを思い出した人は、少なくないはずだ。向田さんの言葉は、苦く息の詰まる過去を、余白のある記憶に昇華させてくれる。

「あの時も、そうだったのかもしれないな」という、わたしたちに許しの言葉を与えてくれる。

向田さんはその眼差しと筆力で、言葉にできない、言葉に縛らないからこそ無限の愛を表現した。人々の「どうしようもなさ」を許し、愛し、生きづらい世の中を力強く生きていこうよという、未来のわたしたちへの莫大なエールを感じる。


……と、わたしは勝手に思っている。もしかしたら話はもっと単純かもしれない。わたしがひねくれているだけで。


わたしも、ゆでたまごに救われたひとりである。

二年前、知的障害のある弟がコンビニで万引をしたかもしれないというエッセイを書いた。

たくさんの感想が寄せられて嬉しかったが、そのなかで

「店長は自腹を切って、会社から怒られるかもしれないリスクを背負ってまで、他人を助けなければならないのか」

という、現役のコンビニ店員さんからの嘆きが聞こえた。

彼は、称賛されている押しつけの善意に、押しつぶされてしまった。もちろん、わたしのエッセイを褒めてくれる人にそんな意図があったわけではないが「店長さんが素晴らしい!」「この行為は美徳だ!」という言葉だけが独り歩きしていくと、愛は途端に縛られ、収縮し、鋭利になって、誰かを刺す。

わたしの筆力が足りないばかりに、コンビニの店長さんの、やむにやまれぬ自然な衝動は、美談という名詞がついてしまった。社会のものさしになってしまった。彼の行為そのものではなく、従業員への迷惑やリスクを考えてでも、飛び出してしまった彼の愛に、わたしは感謝を伝えたかっただけなのに。


美しい行為だ、美しい心だ。そう思えるのは、自分のなかにそこへ共鳴する美しいアンテナがあってこそだと誇らしく思う。

一方で「なぜそのような行為をしたんだろうか」と、裏側に広がる無限の愛を想像しては、至らなさを悔しく思う。

美しく見える衝動に一抹の「どうしようもなさ」「みっともなさ」があると、わたしはなぜか嬉しくなる。

そもそも、愛は美しいものでも、称賛されるものでもない。愛があるからこそ、人は人を傷つけ、執着することもある。ただ、愛の在り処に気づかなければ、慮れない物語がある。

わたしがゆでたまごで心を掴まれて揺り動かされたのは、先生や母親の行為自体ではなく、向田邦子さんのまなざしにだ。

向田邦子さんの、愚かさや歪さすらも捉えて離さない愛のまなざしをこの心に宿したいと願うが、まだまだそれは叶わないので、せめてこの自分勝手な考察を、と彼女への尊敬とお礼に変えて。

「うるせえぼけ、黙って素直に読むくらいできんのか」と、ここまで読んで怒っている人は、もうおっしゃる通りである。行き過ぎた好意は、ろくなことにならん。


彼女の息づかいを全身で知りたくて、愚かなわたしは一編ずつエッセイや小説を模写したり、お墓や旧居を訪れたり(その下心を見抜かれて二羽のカラスに襲われたり)、レシピ本を入手していて同じ手料理を振る舞ったりしている。その効果のほどは、お察しの通りである。道は遠い。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。