夕暮れの大脱走(姉のはなむけ日記/第15話)
三週目のグループホーム体験入居が、はじまる。
週末、いったん実家へ帰ってきた弟が、ふらつきながら部屋を出てきた。足がもつれている。とはいえ、どう見てもわざとなので、もつれるというか、小粋なステップを踏んでいる。
「ちょっと、なんかぼく、しんどいねん」
「しんどいん?」
「ねつあるねん」
「マジか。体温計はかったるわ!」
「いいねん、いいねん」
弟は、小粋なステップでわたしの横をすり抜けていく。テレビ台の小さな引き出しから、薬の箱を取り出した。
「くすり、のむねん」
箱に入った錠剤をぽろぽろと手のひらで受けて、お茶と一緒に飲み込む。すこし間があって、弟がハアーッと重いため息をつく。
「しんどいねん、ねつが。やすみます」
そうか。しんどいのか。
その薬はビオフェルミン(整腸剤)やけどな。脇に体温計を挟んでみたが、平熱だった。
一連の行動が、母には覚えがあった。
何年か前、福祉作業所にちょうど通いはじめたとき、弟はこうなった。つまりは仮病なのだ。
そのときは
「お昼ごはんのおみそ汁で、大やけどさせられたから、やすみます」
と弟が言っていた。
福祉作業所のスタッフさんに裏を取ってみると、昼食に味噌汁はついていないらしく困惑していた。
「熱があるなら、病院に行こか?」
母が言うと、弟はしぶしぶといった様子で、グループホームに戻っていった。ボストンバッグに着替えを詰めるのに、ゆっくりのっそり、二時間くらいかけていた。牛歩戦術。どれだけ、行きたくないのか。
グループホームへ泊まってる間、あれだけ早く寝なさいと言ったのに、弟はまた深夜二時になるたびに、電話をかけてきた。廊下に響かないよう、小声で。
「つぎ、なみちゃん、いつかなあ?」
「また週末、良太が家に帰ってくるタイミングで、わたしも戻るよ」
「あのーう、ぼく、カラオケ、いいですか」
「ええよ」
しばらく週末は、弟の接待をすると決めていた。慣れない環境で頑張っているのだ。なんぼでも、歌ったらええのだ。
しかし、次の日も、その次の日も、まったく同じ電話がかかってきた。
「カラオケ、いいですか」
さすがにわたしも、これはいかんと思ったので
「ええけど、もう夜中に電話したらあかんで。わたしも寝てるから」
と、あらためて叱った。
「あー……そうですか、ごめん、なみちゃん。ごめんなさいね」
電話の向こうで、弟が何秒か黙ったあと、小さく苦笑いしていた。
何事もなく、週末がやってきた。
わたしは今晩にも京都から神戸へ戻るための荷づくりをしていた。弟は今ごろ、福祉作業所の仕事が終わって、バスで実家へ帰っているだろう。
さて、そろそろタクシーを呼ぼうかと腰を上げた、矢先。
母から着信。
「奈美ちゃん、もう家でた?」
「いまから出ようかと」
「あのな……」
母が一呼吸、黙った。
「良太の行方がわからんくなった」
「どっ、えっ、なっ、どゆこと!?」
「福祉作業所からバスに乗って、うちへ帰ってくるはずやってんけど……」
弟は何年もそのルートで通勤をしている。バスの路線も多くないので、今までに間違えたことはない。福祉作業所から歩いてすぐのバス停だから、スタッフさんが付き添うということも、今はしてない。
「バス停に立ってたところまでは福祉作業所のスタッフさんが見てはって。そこから一人で、別の場所に行ったみたい。家の近くにはおらんのよ」
そこそこ大変な話かと思ったが、あまり大変に聞こえないのは、母がちょっと笑っているからである。笑うといっても、おかしくて笑っているわけではなさそうだ。呆れとか、戸惑いとか、諦めの混じった苦笑い。
やっと気づいたが、母と弟の笑い方は似てる。
「良太に電話してみた?」
弟がスマホを持っていてよかった。安心感が違う。
「した、した。バスに乗ってるっぽい。けど、いまどのへんか聞いても、漢字がわからんから伝えられへんみたいで」
たしかに行方がわからないというわけだ。
命が無事で、バスに乗っていることがわかるだけで、“どうしてるんやろう”の心配より、“どうしたもんかね”の困惑の方が勝っている。
はっと思い出した。
わたしのスマホと、弟のスマホには、Zenlyが入っている。友だちと位置を共有できるアプリ。いまのナウいヤングたちは、このアプリを使って急に遊ぶ約束をとりつけたりするというので驚きだ。
東京ディズニーランドへ二人で遊びに行ったとき、はぐれたら面倒だからと、入れていた。すっかり忘れていた。
「わたし、良太の位置わかるわ」
Zenlyを開いた。弟が口をポカンと開けた、やたらにマヌケな顔写真が地図上を移動している。
実家とは真逆の方向に、ぐんぐん離れていく。
これは……。
「イオンモールへ向かってるわ」
「なんでや!」
たしかに神戸市北区の民たちは、なにはなくとも、暇さえできればイオンモールへ吸い寄せられる習性を持っているが。なぜ、弟がいま、このタイミングでイオンモールに。週末なので、お弁当代も使い果たし、小銭もほとんど持っていないだろうに。
平日のストレスが大爆発して、爆買いでもしたくなったんだろうか。
「あっ!良太から電話がかかってきたから、一度切るわ」
そう言って、母と通話が切れた。
とりあえず、ここでわたしができることは何もない。粛々とリュックサックを背負い、家を出た。弟よ、無事であれ。
顛末は、電車に乗ってる間に、母から届いた続報で把握した。
福祉作業所が終わると、弟はバス停まで歩き、実家行きではなく、イオンモール付近行きのバスに乗り込んだ。
バスの運転手さんへ「イオン、いきますか?」と聞いたらしい。
そしてイオンモールが近づき、弟は降りようとする。しかし、降りられなかった。小銭がなかったからだ。弟のスマホにはPaypayが300円分ほどチャージされていたので、それで払おうとしたら、交通系ICカード以外は使えないと断られてしまったのだ。
そこで、運転手さんも、おかしいと気づく。
どういうやり取りをしたかはわからないが、弟のスマホで、運転手さんが母と通話をすることになった。
「ちょっとね、なに喋ってはるか、僕もわからなくて。困ってるんですわ。なに言うてるんか、僕にはまったくわかりませんから。ここでどうしても降りるって言うてはるんですけど、お金もないようですし」
運転手さんは困り果てていた。
時間どおりに運行しなければならない業務中に、大変な迷惑をかけてしまったのは、わたしたちである。母は今月何度目かわからぬ平謝りに徹した。
でも「なに喋ってるかわからない」とされている弟を想像すると、なんとか身振り手振りで伝えたくて、歯がゆかったろうなと思う。
母が迎えに行こうとしたが、それよりも早く、中谷のとっつぁんが動いてくれた。母が焦りながら事情を説明したら「大丈夫ですよ!すぐに車で向かいますね」と、弟を迎えに行ってくれたのだった。
予想外なことが、起こってばかりである。26年も姉をやっているはずが、まだまだ、弟の考えていることがわからない。
ただ、これだけはなんとなく、わかっていた。
行方をくらまして逃亡するくらい嫌気がさしてるなら、もう、グループホームの入居はとりやめになるかもしれないな、と。
実家に戻ると、母と、弟も帰っていた。
薄々わかっていたが、わたしの前では「おう!」とケロッとした顔で迎える弟である。母の視線に気づくと、得意げな手を、ささっと引っ込めた。
「良太、なんでイオンに行ったん?」
「あのな、かばん、かばんで、バスのって、そしたら、ダメですって。ぼく、降りたかったのに、ダメ、ダメー!って。かばんが、ぼくのですって」
弟が早口でまくし立てる。わかる。姉ちゃんも、やらかしたときの第一声は、こんな感じになる。なにも伝わらない。
「良太はカバンを取りに行こうとしてんな」
母が横から、説明する。
「あー……そう、そうです」
弟がうなずいた。
わたしはそこでやっと気づいた。イオンの近くには、グループホームがある。弟はイオンへ行こうとしたんじゃなく、グループホームへ戻ろうとしたのだ。ひとりで。
なんなんだ、その使命感。
「今日、家に帰ってくる日やっていうのを忘れてて、着替えの入ったカバンをグループホームへ置きっぱなしにしてたんやって。それに気づいて、戻ろうとしたんやね?」
「そうです」
あの感じの説明で、ここまで読み取っている母が名探偵すぎる。弟がうんと小さいうちから、同じような聴取を繰り返してきたのだ。
「あいさつ、いってきますって」
「グループホームの人に、挨拶もせなあかんってね」
弟は、動きはマイペースだが、性格はキッチリしている。挨拶や整理整頓は、やらないと気がすまない。律儀きわまりない。
大騒ぎの正体は、ふたを開けてみればそれだけのことで、わたしは腰がへなへなと抜けそうになった。なにをしてくれてるねん、とツッコミを入れたくて仕方がない。
けど、弟が、“家へ帰る日を忘れていた”というところに、胸をホッとなでおろした。帰りたくて、帰りたくて、どうにもこうにもならない、ってわけじゃなかったのか。挨拶しようと思い浮かぶくらい、グループホームのスタッフさんを大切に思っていたのか。
「せやけど、もう一人でなんも言わんと、バスに乗ったらあかんで!」
母が鬼の形相になり、きつく言い聞かせた。弟はあからさまにシュンとした。ふらふらとソファから立ち上がり、ビオフェルミンを探しにいった。
あとでわたしは、外へ出かけるふりをして、弟に電話をかけた。
「あい」
「良太、すごいやん!ひとりで荷物取りに行こうとしたんやろ!」
「……うん、まあ、そうやね」
怒られると思ったのか、おそるおそる相槌を打っていた弟の様子が変わった。
「運転手さんに“わからん”って言われて、オカンと電話つないだんやろ。怖かったやろうに、泣いたり怒ったりせず、頑張って伝えようとして。アンタはえらいわ」
「えー、そうかなあ」
まんざらでもなさそうである。
「ほんでバス降りて、中谷さんのお迎えもジッと待ってたやん。オカンは怒ってたけどな、わたしはえらいと思うで!」
とにかく、とにかく励ました。
弟が、ひとりで飛び出そう、と勇気を持てる世界だったことが、どこか誇らしかった。
弟は昔から、うまく喋られなくても、道や景色をよく覚えている。目の記憶力がいいのだ。イオンモールのある方向を覚えていた。バスに乗るだけの自信があった。それだけでわたしは、じんわり感慨深い。
無責任にその気持ちを伝えたかったのだが、すぐに電話で、鬼の声がした。
「コラッ!あんたは!なに言うてんねんっ!」
母である。わたしは面食らった。なぜ母が電話口に出るのだ。
「良太はな、電話がかかってきたら、絶対にスピーカーにするねんで。覚えときや」
右から左に筒抜けだった。知らなかった。家に戻ったわたしは、母からしばかれるかと思うほど、ゴリゴリに叱られたのであった。
晩ごはんを食べる前に、わたしと弟は、おつかいに出かけた。
どちらも母から絞られたあとなので、できるだけ重くて、ありがたがられるものを、選んで買って帰ろうと思った。
スーパーの棚の前で、弟が立ち止まる。普段なら、弟は見向きもしない棚。
「これ、かうわ」
ビールだ。
うちの家は、誰ひとりとして、お酒を飲まない。もしかして弟は、今日をもってグレてしまうのか。わたしはビクビクした。
「だれに?」
「おとうさん」
「おとうさん?」
「中谷さん」
弟は、自分のpaypayで、ビールを一本買った。中谷のとっつぁんへの、ねぎらいの品だった。そうやね。ずいぶん、心配かけたもんね。
きみはまた来週、そのビールを持って、グループホームへ帰るんやね。