噺家は口で払うか肩の雪
死にかけていたところを、落語家に救われたことがある。
あれは、2018年3月9日のこと。
流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じるどころではなく、わたしは韓国の雪山で凍えていた。死を覚悟していた。
勤めていた会社の命令だった。
建物のバリアフリーをアドバイスする会社で、
「韓国の平昌で、パラリンピックの視察をしてこい」
とのこと。
当時のわたしが許される発言は「はい」か「イエス」か「ありがたき幸せ」の三種類のみ。年度末の激務の中、かすめ取るようにパスポートを取得し、韓国に降り立った。
ソウルの都会さに浮かれていたが、平昌へ向かう列車の窓を眺めてると、様子がだんだんおかしくなってくる。
や、山奥……すぎんか……?
冷静に考えれば、スキー板でブッ飛ぶような競技をするんだから、当然である。
バスをドナドナ乗り継ぎ、山頂に近づくと、
「ふ、ふ、吹雪!ごっつい吹雪!」
豪雪で、視界が真っ白になった。
気温は、マ、マ、マ、マイナス15度。
怯えに怯えたとて、もう遅い。
バスは、式典が行われるスタジアムに到着した。
乗客が悲鳴をあげ、一斉に駆け込む。
「さむっ、さむっ……はよ中に……!」
中に入った。
屋根と外壁がなかった。
アホの建築だろうか。
わたしと同じく、日本の企業やら省庁やらから集められた一団は、ほぼ屋外であるスタジアムの、最上段の席に固められた。
すっごい、見晴らし!
すっごい、いい席!
……野ざらしである!!!!!!!
勝手のわからぬ海外の祭典に、母国連中が集まっているというのに、ろくな会話のひとつもない。野ざらしのお通夜会場。
「ねえ、開会式、楽しみですねえ」
などと、社交辞令を口にしようにも、
なんも見えん。
すげえ音を立てて殴りかかる雪。
なんも言えん。
ジャジャーン!
派手な音楽が鳴り始めたが、開会式どころではない。
寒い。寒すぎる。
鼻水まで凍りついている。
周りを見渡せば、低体温症でバッタバッタと観客が倒れて行く。ここは地獄か。
会場スタッフが、大きな白いカバンを配りはじめた。
防寒用のノベルティだという。
温情!待ってました!
わらにもすがる思いで受け取り、中身を取り出す。
ペラッペラのレインコートであった。
ほぼ、ゴミ袋。
われわれは黙って、ゴミ袋を頭からかぶった。
社長も、部長も、町長も、秘書も、みんなでかぶった。
突如として雪山に表れた、風船太郎の一団。
あまりの寒さと情けなさで、死を覚悟する。
「死んでまうわ、これ」
絶望的な気持ちになっていると、
シュポポッ♪
日本にいる社員から、メッセージが届いた。
『家でテレビ見てるんですけど、岸田さん、映りませんねえ』
返事をしようにも、手がかじかむ。
『NHKの実況、めっちゃすごいですよ!』
……実況?
スタジアム内ではもちろん、実況の声なんか聞こえない。アナウンスも韓国語だから、何が行われているのか、いまいちわからん。
あ、あかん、気が遠くなってきた。
寝たら死ぬど。
視察団への取材で付き添っていた、テレビ記者さんを呼び止めた。
「NHKの実況がおもろいらしいんですけど、ちょっと見してくれませんか」
記者さんは、小さなモニターを持ってきてくれた。
なんだなんだ。
周りの人たちも、野次馬で集まってくる。
モニターの中では、わたしたちのいるスタジアムが中継されている。
……別に、ふつうの淡々とした実況やないか。
がっかり。
「あっ!」
記者さんが、声をあげた。
「もしかして、副音声じゃないですか?」
音声を切り替えた。
男性の軽快な声が、たちまち流れた。
愉快なおじいちゃんって感じで、ちょっとおもしろそう。
でも、本当におもしろさは、そこじゃなかった。
『引き続き実況は、全盲の落語家・桂福点さんとお送りしております』
声の主が紹介され、わたしは仰天した。
ぜ、全盲?
聞き間違いでは?
まったく目の見えない人が、
生放送の実況中継を……?
どうやって?
未知すぎる状況でハラハラしてると、選手入場が始まった。
NHKの実況は、福点氏とは別に、本職のアナウンサーがふたりいて、実況は彼女たちが進行していく。
「いよいよ選手入場です」
「まずはギリシャの旗が見えました」
映像を見ながらアナウンサーふたりが説明するのに対して、
「ええ、ええ」
最初、福点氏は相づちを打っていた。
わたしの胸がキュッとなった。
障害のある人は、
会話で置いてけぼりになることがある。
わたしの弟もそうだ。
さみしく相づちを打つしかない時がある。
つらいな。
福点氏も、弟みたいに、置いてけぼりされてるのを聞くのは。
「イタリアの選手団です」
「ほう、イタリア!」
突如、福点氏が、調子よく話し始めた。
「イタリアってーと、持ってる国旗は何色ですか?」
「赤色、白色、緑色です」
映像を見ながら、アナウンサーが答える。
「そりゃあ、陽気な色!はあー、そうしたら、選手の方たちも陽気そうにしてるんじゃないですか?どうです、お顔は明るいですか?」
なんで陽気だとわかるんだろう。一瞬おどろいたが、赤色はリンゴやトマト、というように言葉で知って、彼は覚えているんだろう。落語の噺にも、色はたくさん出てくるのだから。
「お顔は……はい、明るそうです!でもちょっと緊張してるかもしれません」
「そうですか、そうですか」
「あっ、手元の情報によりますと、彼は初出場です」
「はあ、そりゃあ、緊張しますわな!」
はっはっは、と福点氏は豪快に笑う。
声の明るさが心地良い。
わたしは、イタリアの選手の表情に注目した。ああ本当だ。ちょっと顔がこわばってる。でも初々しくて、共感できる。
……っていうか、この実況、
質問の数が多い!
超超超、矢継ぎ早!
騎手はどんな髪型?
ユニフォームはどんな印象?
選手が乗ってる車いすの形は?
ポン!ポン!ポン!
テニスの球出しみたく、福点氏がどんどん質問を繰り出す。実況とは思えん、めくるめくテンポ。間に扇を叩く音すら挟まりそうなほど。
最初は、台本があるのかと思った。
しかし答えるアナウンサーも、必死である。
ちょっと、ちょっと!
これ、放送事故なんちゃうの!?
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