[小説]声
これが最後の仕事になる。
できることなら、最後になんてしたくない。でもだめだ。日を追うごとに、働き続ける自信が腐り落ちていく。
総合病院の受付の裏側、患者からは見えない事務室がわたしの仕事場だ。デスクの上に積み重なっている手紙を、一枚、そっと手に取る。
ひどい字だ。
差出人の名前もない。
『待合室の金魚の目つきが悪い!通院のたびに動悸がする!』
知らんがな!
そう言いたい。もう捨てたい。ああ泣きたい。それでもわたしは、この紙の折り目をていねいに伸ばして、ペンを取らねばならない。
返事を書くために。
……本当は、こんなはずじゃなかった。
25歳で仕事を辞めてまで、看護助手に転職したのは、患者さんに寄り添いたかったからだ。医師や看護師のように命を救う資格は取れなかったけど、せめて、心は救いたいと思った。
朝も晩もテレアポで商品を売ることだけに追われていた三年前、肺に穴をあけて入院したわたしのそばにいてくれた、看護助手のあの人みたいに。
この仕事を、誇りに思っていた。
数時間前までは。
病室のシーツ交換を終えると、
「そこの青服さん。ちょっといいかな」
看護師長に呼ばれた。
「今日から新しい仕事をお願いしたいの」
「は、はいっ」
勢い余って大きな返事をした。やった、新しい仕事だ。覚えの悪いわたしは、シーツ交換と備品の補充の繰り返しから抜け出せなかったのだ。
「これなんだけどね」
看護師長から差し出されたのは、紙の束だった。
「患者さまの声、って知ってる?」
聞き慣れない言葉に戸惑う。患者さまの声、患者さまの声。記憶を探って、探って、なんかそんな名前をどこかで見たなと思い当たったが、
「エレベーターの前に箱が置いてあるでしょう」
わたしの返事を待ちきれず、看護師長が答えた。
「でね、これがその箱の中身」
「は、はあ」
「全部読んで、返事を書いて、掲示板に貼り出してほしいの」
わたしは息を飲んだ。
「これを全部?」
紙の束は片手じゃ持ちきれないほどの量だ。ひるまずにはいられない。
「何日かにわけて、少しずつやればいいから」
「や、でも」
「なに?」
「シーツ……交換……」
「患者さんのお世話も、別の人に代わってもらって」
わたしが言い終わる前に、看護師長が早口でかぶせる。相手が誰であっても、わたしはいつもこうだ。
「やっと慣れてきたんで、その」
「あのね。さっきの患者さんとのやり取り、見させてもらいました」
看護師長は困ったように首をかしげたが、糸目の奥はギラリと光っていた。
「やっぱりちょっと、青服さんはしゃべりすぎかなって」
喉の奥からすっぱい味が逆流しそうになった。昼休憩も惜しんで飲むように食べた、スティックパンが戻ってきそうだ。
「患者さんを楽しませてくれるならいいの。でも青服さんはね、口が動くわりに、ちょっと手が遅いっていうか」
「すみません。前の仕事のくせが抜けなくて」
「なんの仕事だっけ」
「墓石の電話営業です」
前職では、電話口で怒られたり、無言で切られたりが日常茶飯だった。一秒でも沈黙するのが怖くて、とにかくしゃべり続けて、大げさに相槌を打つのが身に染み付いていた。墓石を売るために必死だった。
あれは電話だから、どうにかなった。口と手を同時に動かしながら、患者さんに気を配ることの難しさは、看護助手になってから知った。
「墓石?」
師長は、鍛え抜かれた口元の筋肉だけで笑った。
「それ、絶対に患者さんの前で言わないでね」
無言の圧に負けて、わたしは押し黙る。
沈黙が気まずくて、とりあえず紙束に視線を落とし、一枚めくってみた。
ちょっと期待していた。ひょっとしたら、わたしたちみたいな看護助手への、ねぎらいの言葉もあるんじゃないかって。
『雑用の人の服が真っ黒で、喪服みたい。不愉快です。』
でっかい、でっかい文字で、書き殴られていた。
震え上がった。わたしは、今まさに着用している黒色の野暮ったいカーディガンをできるだけ視界から外した。制服なのに。制服なのに。
「無理です。こんなのに返事するなんて」
「患者さんは先生の前だと強がっちゃうの。だから、こういう声を寄せてくださるのは、本当にありがたいことなのね」
「声っていうか罵声じゃないですか!」
「あなたの勉強にもなると思う」
「よく見たら、かなり古い日付のもあるみたいですけど」
看護師長の眉がほんの少し、ひくついた。聖母のようなほほ笑みをたたえているが、明らかになにかを隠していた人の仕草だ。
「あら、そお。誰もやる人がいないくて、箱ごとほったらかしだったからねえ。青服さんがやってくれると助かるわ」
「今さら開けるのよしましょうよ。そんなパンドラの箱」
「青服さん」
看護師長が、ピシャリと言った。
でも、それはわたしの名前じゃない。“青服”ってのは、わたしたち看護助手が着ている制服の色だ。つまりわたしは、ここで一年間働いても、ろくに名前すら覚えられていないというわけで。
「病室のことはしばらくエンディに任せるから、安心してね」
「エンディ……」
数秒して、わたしより後に入った看護助手の新人・遠藤くんのことだと気がついた。なんてこった。あっちはもう、あだ名までつけられてやがる。
看護師長は、ポケットの中のPHSが鳴ると、急に忙しそうにして立ち去っていった。わたしは紙の束を持ったまま、しばらく突っ立っていた。
日中は全員が出払っているので、静まり返った事務室の机に向かい、わたしは渋々とはいえ心を決めた。
こうなったら一日でも早く、患者さまの声を読んで、返事を貼り出してしまおう。そうすれば、わたしは患者さんのお世話に戻れるのだ。
これも勉強、勉強……。
己を奮い立たせて、紙をめくる。
『採血がヘタすぎる。死ね。』
絶望的な気持ちになった。
ざっと目を通していく。一時が万事、こんな内容だ。
投書っていう言葉は、よくできてると思った。投げ捨てられるように書かれるんだな、声ってやつは。
叱咤激励から激励だけを抜いて、隠し味に怨念と鬱憤を少々、理不尽でジャッといためて皿に出したような声ばかりが綴られている。これに答えられるのは看護助手ではなく、もう、陰陽師の領分ではないか。
何度も書きなおし、やっと、
『大変申し訳ありません。貴重なご意見はしかるべき部署に共有して、対策を検討します。』
なにか謝ってるようでなにも謝っていない、なにか約束するようでなにも約束しない、空虚の返事を書けた。
それを師長に見せた。
「うん、いいじゃない」
やけに、あっさりだ。
「怒られませんか」
「書いた人は読まないし、大丈夫でしょう」
「読ま、ない……?」
「うちは急性期治療の病院だからね。患者さんは長くても三ヶ月までしか入院しないし」
手紙の日付は一年前だった。
わたしの返事は、送り手に届きすらしないんだ。唖然とするしかなかった。黒鉛で汚れた手をぎゅっと握りしめる。
患者さんに寄り添いたかった。ありがとうって言われたかった。今のわたしは、目指していた場所から一番遠いところにいるんだ。
一週間はがまんしたけど、ついに心が折れた。
この病院を辞めよう。未経験で無資格なんかじゃ、どこの病院でも受からなくて、やっと採用されたのに。悔し涙が染み出した。
重い足取りで廊下に出て、虚しい返事を書いた紙を貼り出していく。
「んふふ」
澄ました笑い声が、すぐそばで聞こえた。
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