有頂天ホスピタル〜入院食革命〜
『いたいよー』
入院している母からのLINEだ。
早朝、朝、昼、晩、深夜。時報のように送られてくる。
『いたい、なんもできない、つらいー』
開腹手術を受けて、一週間。まだ傷がじくじく痛むという。
『わたしがいま一番やりたいこと、わかる?』
『わからん』
『寝返り』
ごろんごろんもできず、車いすにも乗れず、ひたすら腹の痛みを耐える母。
『起きるのもしんどい、ごはんも見たくない。ずっといたい。ちょっとでも気を抜いたら病む』
病んでるから入院しとるんやで。お見舞いも禁止されている今、わたしにできることは『そうかあ』『かわいそに』と、相槌を打つぐらいだ。
それぐらいしか。
相槌すらもバリエーションが枯渇しはじめた。励ますために新しいLINEスタンプを買ってみた。根気よく励ます方も、なかなかしんどい。
そんなある日。
入院先の病院の厨房に、緊急の修理が入った。
ただでさえ、そうそう美味しいとは言えない病院食。厨房がつかえないということは、作りたてというアドバンテージすらも消え失せるということだ。
『お弁当やんなあ、たぶん。うーっ、食べられへんやろなあ、イヤやなあ』
泣きっ面に蜂をくらって、母はベソをかいていた。冷めた米と、油っぽい弁当がなにより苦手な母。スーパーやコンビニで弁当を買ったところを一度も見たことない。
『まあどうせ食欲なかったから、なんでもええんやけど』
夕方、母からLINEがきた。
いつもの時報的弱音とは様子が違った。
『とんでもないのが届いたんやけど』
あっ、ご飯のことか!
なんやろう。かさ増し虚無スパゲッティの洗礼を受けたかな。緑の野菜やと思ったらバランやったんかな。おかずで入ってるオムレツの味が想像を上回ることはないよな。
想像で“もらいうんざり”しながら、LINEを開いた。
とんでもないのが届いてるな。
えっ、えっ、えっ。
なにごと?
ハンバーグの盛り付けがもう病院では見たことのない配置になってる。そうは置かんやろ。病院はそうは置かんのよ。
サラダのドレッシングも、そうは入れへんやん。あの、なんか、ペラッペラのパウチでさ、うまく切れんくてイライラするやつやん。いつもは。
あと、そのピンクのうっすいうっすい野菜。お前はこんなところに出てきてええ野菜とちゃう。もっと夜景とかと一緒に出てこい。
なんか、お品書きみたいなん、ついてるし。
わたしは見逃さない。なぜなら会食の席でわたしはずっとこの紙を見つめてるから。内容を暗記してもなお。緊張して、この紙ばっか読んでる。
『ごっついの食べてるやん』
『いやほんま、びっくり。運んできた人もびっくりしてた』
『味は?』
『むちゃくちゃおいしい。ホテルみたい』
神戸ポートピアホテルって、書いてるしな。
『夢かと思った……』
狐につままれたような心地で、母は完食したそうだ。
朝。
夢じゃなかった!
ウォルドフサラダ!?ハネデューメロン!?
病院なのに知らんオシャレ飯がいっぱい出てくる。ダッサイ入院着でみんなこれ食べてるんだ。
『ってか、ご飯と牛乳って絶対に合わんくない?』
『せやねん。ご飯を選んでしもててん。パンにしとったら、いつものティッシュペーパーみたいな食パンやなくて、ホテルの焼き立てパンやねん。あわてて変えたわ』
システムが、システムが突然の革命に追いついてない。
それからというもの。
『いたいよー』の定時報告のかわりに、
ダダン!とか、
ドゥドゥン!とかの雑な効果音とともに送られてきた。和食まであるんか。
アクアパッツァとスープに、なんとデザートのパンナコッタまで付き始めた。正気か。
あまりの豪華さに、うちの母は病院でなにかしら違法な賭博をしており、誰かを蹴落として、序列により豪華な食事を食らっているのではないかと疑いはじめている。賭博破戒録カイジの地下労働施設を参考にするなら、母とは対照的に、ししゃも3本しか与えられていない哀れな患者がいるはず。
あっ、もうこれは完全に、賭博ですわ。勝ってますわ。一生に一度は見てみたい、親が違法賭博で勝つところ。
『わたしらよりええもん食べてるやないか』
この日のわたしと弟の夕飯は、足りないミンチ肉を補うために、ハンバーグとしての概念を保てるギリギリまで豆腐を混ぜた豆腐ハンバーグだった。ケチった分だけ、ふわっふわ。
『タッパーがあればわけてあげたい、この美味しさ』
めちゃくちゃ楽しそうやんけ。
母は、ご飯の時間が楽しみで楽しみで、仕方なくなっていた。
痛くて起き上がるのも無理だと言っていたのに。お腹をすかせるために、リハビリをがんばって、意味もなく車いすに乗ってウロウロしているらしい。
そして、配膳されると、ウッキウキで写真を送ってくるのだ。
最初はわたしが、病室にいる母を励まそうと、街のクリスマスツリーやショーウインドウの写真を送っていたのに、立場が完全に逆転した。
代わり映えしない病室に缶詰になってる人が、こんなにいっぱい、写真を送ってくることが未だかつてあっただろうか。
母からかかってくる電話も、明るい話題ばかりになった。
退院したらどこへ行こうとか、どんな服を着ようとか。
『トゥモローランドで買った服がそっちに届くから受け取っといて』
もう買っとるがな。
賭博をしていないとなると、気になるのはお値段である。
もともと、入院食は一食あたり500円と決められていた。
あんなもんが500円で出てくるわけがないのである。神戸ポートピアホテルのレストランの相場を見ても、2000円はするはずだ。
となると、後から請求されるのではないか。
『ちょっと、お金がどないなってんか聞いといてや』
『えーっ』
『しゃあないやん。後から払えませんてなって、胃からお返ししまっさともできへんし』
母は乗り気じゃなかったが、しぶしぶ配膳係の人に聞いてくれた。
結論、赤字であった。
お値段据え置きで、足りない分は病院が負担しているらしい。なんて太っ腹な病院かしらと思ったが、そうでもないはずだ。
この病院は、全国的にも有名なある大学病院の分院なのだが、そもそも大学病院の経営は大変なのだ。コロナ禍になってからは、数億円規模で赤字を出しているというニュースも見た。
それなのになぜ。
『よく太らせて、食べようとする的な……?』
『健康やったらええけど、うちら病人やで』
確かに。うまい話のわけがわからない。
うまい話のわけがわかったのは、それからすぐのことだった。
『わかった、わかったで』
懐石風の朝食をぺろりとたいらげた母から、報告があった。
『病院長さんが、そうしようって決めたらしい。せっかくの機会やから、面会もできへん患者さんたちに美味しいもの食べてもらおうって』
『ええ人やん』
『いやそれがさ、ここで働いてる職員さんたち、ええ人ばっかりやねん』
母が言うには、ガーゼの交換や寝返りの手伝いをしてくれるのが、看護師さんだけではなく、若いお医者さんたちもだという。
時には雑用のようなことも、お医者さんが率先して手伝っているのだ。
『なんでや?』
『病院長さんがそういう方針にしてるんやって』
『そうなんや』
『大きな手術も患者さんも少ないっていうのはあると思うけど、お医者さんも看護師さんも優しいわ。顔をあわせて話す機会が多い分、気持ちのこともよくわかってくれるし、ホッとする』
なるほどなあ。
そんなに詳しい話を聞き出せるなんて、母には探偵の素質があるのでは。
『ちゃうねん。休憩のたびに、先生たちが話しにきてくれるねん』
『えっ』
『さっきも一時間ぐらい話してた』
『なにを』
『なんやろう……なんで医療の仕事についたかとか、やりがいとか、お子さんのこととか、あっ、あと、上津台あるあるとか』
神戸市のチベットと呼ばれる北区の……ニュータウンの……あるあるを……?
『わたしもなあ、人の話聞くの好きやから。思わず泣いてもうたりしてなあ、嬉しいわ』
それはもはや、カウンセリングとかの才能ではないだろうか。うちのオカンが病室で開業できそうなことになっている。
以前、母はわたしに言った。
人に優しくできるときは、自分が優しくあれるときやと。
心の余裕があるから、母は心地よい距離で話を聞けるのだ。あんなに痛い痛い、病む、と言っていた母の余裕を作ったのは。
そう!
神戸ポートピアホテルの入院食だ!
すごいなあ。
本当に食べものって、人の心と体に影響するんだなあ。美味しい食べものは、人を幸せにして、その人がまた別の人を幸せにするんだなあ。
入院中の楽しみって、退院できることだけど、それはちょっと遠い楽しみだ。もっと、小さくても近い楽しみがあった方がいい。その日の天使。生きるというのはそういうこと。
母以外の患者さんは、どう思ってるんだろうか。
こっそり検索してみたら、いらっしゃった。
退院なのに、もうちょっといたくなる病院。わかる。
それはそれでえらいことになるぞと思っていたら、厨房の修理が終わったので、普通の病院食に戻ったらしい。
母はがっかりしてるかと思いきや、
『美味しかったけど、ホテルのご飯を毎日食べてると思ったら、バチ当たらんかとソワソワするわ。これぐらいがちょうどええね』
とのことだった。
以下は、キナリ★マガジン読者向けの、しょうもない思い出話。
神戸ポートピアホテルのご飯といえば、わたしにも覚えがある。母と違ってこちらは少し悲しい序章から始まる。
わたしは、他人の弁当を盗んだことがある。
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