
飽きっぽいから、愛っぽい|空白の記憶に、視点を願う@鈴蘭台
「小説現代1月号」に掲載している連載エッセイ全文をnoteでも公開します。
表紙イラストは中村隆さんの書き下ろしです。

人生は間違いなくひとつだけど、紙の年表みたいに平面的ではなく、彫刻みたいに立体的だ。
眺める角度や高さによって、見えてくるものがぜんぜん違う。ひとつの人生を、たくさんの視点を行き来しながら、わたしは味わっている。
美術館で、絵画を楽しむようだ。
ハッとする。
ちょっとちょっと、わたしったらいま、ちょっと頭のよさそうなこと考えてたんじゃないの。急いでメモっておかないと。みみっちいわたしは、自分をかしこそうに見せる材料を余すところなく丁寧に拾い集めておく。
「岸田さん、もしかしてこのあとのご予定が迫ってますか?」
弾かれたように尻ポケットのスマートフォンを取り出して操作し始めるわたしを見て、熱心に話を聞いてくれていた記者さんが、あわてて声をかけてくる。
「あっ、いえ。すみません、思いついたことをすぐメモしないと気が気じゃなくて」
「へえ、エッセイストっぽい。なにを思いつかれたんですか」
「人生の視点です」
さっきまでゲラゲラ笑いながら、おばあちゃんが食材をなんでも冷凍するので困っているとか、昨日までDJ KOO氏と内田裕也氏を同一人物だと思っていて知人と話が嚙み合わなかったとか、そういうアホな話をしていた空気が一変したので、記者さんはギョッとしていた。
この日、わたしは人生ではじめてとなる書籍を出版し、人生ではじめてとなる一日七件もの連続取材を受けていた。
一件あたり撮影も含めて一時間、合計七時間。ご飯を食べるヒマもないが、糖分を使い切ると頭が使い物にならなくなってしまうので、編集部の人がわんこそばのように差し出してくれる金つばやマフィンを一口で飲み込みながら、取材に答えていた。
はじめての出版なので、どの媒体でも尋ねられることはだいたい同じだ。これまで歩んできた半生とか、どんな子どもだったかとか。
物忘れがひどい方で、日頃から何度も同じ話をしてしまうのだが、さすがに何時間かで七回も同じ話をするのは初めてだ。ディズニーランドのアトラクションを案内するキャストみたいな気分になる。
同じ話を意図的に繰り返すというのは、なかなか大変だ。どこまでなにを話したかわからなくなるし、申し訳ないけど、話しているわたしも退屈してしまう。
だからわたしは、「それからどうしたのって思いますよね、実はね」「ここからがおもしろいのなんのって」と、セルフで合いの手を入れ始めたり、身振り手振りをコロコロと変えてみたり、まあとにかく、話し方に貧相なバリエーションをつけて退屈を散らそうとした。
ディズニーランドのキャストも、こうやって台本通りの演技に変化や緩急をつけて、こっそり楽しんでいるのかもしれない。
だがそれも、五回目の取材を受けるころには疲れてグダグダになってしまい、わたしは諦めて粛々と同じ話をし始めた。
そのときに、気づいたのだ。
「同じ人生の話をしているはずなのに、微妙にさっきと話していることが違うぞ……」
たとえばさっき、亡くなった父親について印象深かったことを尋ねられた。最初は「ドラえもんの映画を観に行こうと騙されて、クリント・イーストウッド主演の暗い映画を観せられた」と答えたはずなのに、いまは「ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行こうと騙されて、スペイン風の宗教建築物を見学させられた」と答えている。
どんだけ自分の趣味のために我が子を騙す父なのかという懐疑心はさておき、後者は、話すまでわたしも忘れていたことだった。ひとつ前の取材を受けて「ああ、そういえばこんなこともあったな」と、深い海底からのぼってくる泡のごとく脳裏に浮かんだ。
どちらも真実だ。
家に帰ってから、どうして父はわたしを何度も騙して、自分の行きたい場所に連れていったのだろうと考える。子どものころはさっぱりわからなかったけど、今ならちょっとはわかる。
父はきっと、自分が素晴らしいと思うものを、素晴らしいと思える自分の価値観を、わたしに受け継がせたかったのだ。遺伝子を受け継がせたように。
それが父の喜びだったんだろう。大人になったわたしは、この世にはたくさんのものが溢れていることを知った。その中から気の遠くなる思いで素晴らしいものを見つけた時、大切な人にシェアすることの喜びも知った。
きっと父も、そういうことだったはずだ。
子どものわたしの視点、大人になったわたしの視点。
父との思い出は一つでも、視点が変われば、浮かび上がる意味や感情も違う。感謝や罪悪感も、新たにくっついてくる。
思い出をいろんな視点から眺められるようになった時。過去を、自分を励ますための物語として選びとれるから、人はより豊かでより強くなれるんだろう。
ただ、それとは正反対に。
何度思い出そうとしても、なにも浮かび上がってこない空白の期間も存在している。正確には、存在していると知った。
取材で「岸田さんは、どんな高校生でしたか?」と聞かれて、あんなにスルッスル滑り出ていた言葉が、急ブレーキをかけたように止まった。そして、軽い混乱が追突事故のように訪れる。
高校生であったことは覚えている。
神戸の鈴蘭台という最寄り駅で降りることも、制服を着ていた自分も、校舎のつくりも、少し霞がかっているけど、記憶の実体はある。
だけど、なにをしていたのかがわからない。
クラスメイトも先生もひっくるめ、わたしのまわりにいた人たちの名前を誰一人として思い出せない。
たぶん、つらかったんだと思う。
父が亡くなったときから、わたしには忘れるという才能が備わっている。つらく苦しい時期のことを、我が身を守るために、きれいさっぱり忘れてしまう。
中学生のときに父が亡くなったので、憧れの対象を失ったわたしは、どんな大人になりたいかを忘れてしまった。勉強も部活もいやになり、当時の成績に見合った高校へは進学しなかった。そうすると、たちまちまわりと話が合わなくなってしまった。わたしはその時はじめて、自分は勉強や読書がこんなに好きだったのかと気づき、好きなことを誰ともシェアできないつらさを思い知った。
学年でも有数のガラの悪い女の子たちの、ヤンキーの縦社会をそのまま持ち込んだ極端な上下関係で成り立っているバスケットボール部は、入部して半年後に、夜の部室に閉じ込められるなど散々な目にあって辞めた。
そして高校一年生の冬。母が病気で倒れ、下半身麻痺になった。眠れない日々が続き、学校と病院と家を大急ぎで行き来する生活がはじまった。
あと、くだらないことがもう一つ。本が好きで始めたアルバイト先の本屋が、一年と経たず強烈な経営難と人手不足に陥り、なぜかアダルトビデオの貸し出し担当を兼任させられたのはしんどかった。延滞の取り立て電話を一日何件もこなしながら、虚無に陥った。
一番不安定でつらかった時期、自分がどうやって日常生活を送っていたのかという記憶が、抜け落ちている。
取材では苦笑いをして、ごまかした。
でも、取材で話すまでもない、小さな小さな記憶のかけらみたいなものが、わたしの中にまだあるらしい。
いま、思い浮かんでくる順に、書き連ねてみる。
すっかり日が暮れてから校舎を出て、テニスコートの脇を一人で歩いて校門に向かっていると、だれかがしゃがんでうずくまっていた。「大丈夫?」とあわてて駆け寄ると、眠っていたイノシシで、腰を抜かしてしまったこと。
通学路の途中に、ボロボロの民家でやっている駄菓子屋があり、そこで出してもらう三十円のペペロンチーノが濃厚で美味しかったこと。店主のおばあさんが茹でた麵にせっせとふりかける、異常な旨味を放つ粉の正体がまるでわからなかった。
文化祭では他のクラスがうどん屋やフライドポテト屋を準備するなか、「神社をつくろう。なにもしなくてもお賽銭で売上入るし」というわたしの適当な発案がなぜか多数決で通り、物干し竿を買ってきて、鳥居を作る羽目になった。
当時まったく流行っていなかった、クロックスというゴツくてデカくて黄色いサンダルを母から「これ絶対に流行るから」とプレゼントされ、渋々ペタペタと履いていったら、入学早々に自己紹介より早くドナルドダックというあだ名がついたこと。クロックスはその三年後に、しっかり流行った。
どれも、断片的すぎる。
前後の流れがまったくわからないのに、一瞬のシーンだけがぱっと浮かんでは消えていく。取材で使えるような、教訓めいた思い出話ではない。
いまのところ、わたしの高校生活は、この無意味な記憶の断片がすべてだ。
つらかったわたしには、忘れ去った空白の記憶がある。だけど、断片的ではあるにせよ昔より、思い出せることが増えた。それはわたしが、つらくなくなったからだろう。過去を過去として、冷静に、懐かしく、愛しく捉えられるように成長したんだろう。
忘れるということは、頭からきれいさっぱり失われるわけではないのかもしれない。思い出してもつらくなくなったときに、ふと箱の留め具が外れるように、頭の奥から姿を現す。
いつか、もっと思い出せる日がくるんだろうか。
特に意味をつけられない記憶を、生きていけば得られる新しい視点で見つめれば、隠された答えに気づくことができるんだろうか。
いまより少し豊かになったわたしが、そこの角を曲がってくるのを待ち構えるみたいに。
わたしは、将来のわたしが記憶の空白を眺めることを、楽しみにしている。
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