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この道で合ってる、ずっと

弟の良太には、死んだはずの父が見えている。

とか言うて。


2年前の、春。

岸田家は限界も限界、玄界灘で小舟にしがみつきゲソを噛みながら、インド洋を目指しているような有様だった。

母は感染性心内膜炎で生きるか死ぬかの手術の入院、ばあちゃんは認知症がいよいよ、じいちゃんの葬式を準備しながら、わたしは実家を留守番しつつ働いていた。

生まれてこのかた規則正しかった生活リズムが大胆にジャズりはじめた良太は、ばあちゃんの作る醤油煮(醤油は思うてる倍)もあいまって、みるみるうちに健康診断の値が急降下。死ぬる。

もうあかんわ。

「戦略的一家離散を発令します!」

荒れ散らかったリビングで、わたしは宣言した。

良太は週に三泊四日、ショートステイに通うことに決まった。

同じダウン症で、作業所の仲間たちが通う施設だ。二階建ての新しい家で、それぞれ個室がある。

「いったん避難せえ。また会おう!週末に!ここで!」

実家がシャボンディ諸島と化した瞬間である。

良太はうなずき、持ち物をリュックに詰めはじめた。

そして、カレンダーの前に立ち、

「ん、わかった。ここね、ん、はいはい」

出発日を書いていた。

ちょっと、胸が痛んだ。


初めてのショートステイは、順調のはずだった。

毎晩、仲間とテレビやゲームで遊んでいるという一報を聞き、

ホッ。

台所にて醤油を醤油で煮ているばあちゃんが寝静まってから、わたしはやっと仕事に取りかかれた。

たまった原稿を書き終えて、気づいたら、朝になっていた。

ソファで、横になったとき。


……ピンポーン!


インターフォンが鳴った。

時計をみる。

朝の5時である。

なんだ、なんだ。

そーっと玄関に近づき、ドアスコープを覗く。

良太が立っていた。


朝の5時である。

白色のシャツに半ズボン、手にはボロボロの紙袋ふとつ、背負っているリュックはパンパンにふくらみ、閉じた傘が突き刺さっていて。

裸の……大将……?


ぶったまげて言葉を失いながら、ドアを開ける。

「たらいま」

タロ芋の発音で言い、良太はキビキビと玄関に入ってきた。あらまあ、お元気なこと。

朝の5時である。

裸の大将がどうしてここに。

リュックと紙袋の中には、施設に置いてくるはずの着替えやマグカップまで、ぜんぶ入っている。ズシンと重い。

施設からここまで、歩けば30分はかかる。
良太の足なら、1時間。

わたしは泣きそうになってしまった。

そんなにさみしかったのかと。

重い荷物を持って、朝にトボトボ歩いて、施設を逃げてくるぐらい、さみしかったのかと。

想像しただけで、かなり、きつい。しんどい。鼻の奥が痛い。

「ごめん、ごめんなあ……良太……」

せめてものインスタントの味噌汁とおにぎりで、裸の大将をねぎらった。

それらを丸呑みし、ぷう、とおならをしたあと、

「ほな、しごと、ます」


良太は立ち上がった。

「えっ……えっ、えっ?」

「ぼく、しごと」

「作業所、いまから行くん?」

「あい」

目頭まできていた涙も引っ込むほどの急展開。なにが起こったのか、わけがわからなかった。

大きなリュックを背負い、いそいそと玄関へ向かう良太を、追いかける。

「お泊まりがイヤやったんちゃうの」

「ああ、それは、その、あの、ない、ます」

事の顛末はこうだった。

良太には、慣れ親しんだマイルールを、変えることがむずかしい。

施設に泊まってようがなんだろうが、家の玄関から靴をはいて、作業所へ働きに出かける、というのが彼の伝統儀式だった。

つまり家の玄関から出るためだけに、帰ってきたのだ。伝統儀式だから。

当然、施設は大騒ぎだった。シンプルに脱走者である。それも昨日までゲラゲラ笑っていた男が。

われわれは、コメツキバッタのように電話で謝った。

入院中の母に報告すると

「いたいいたいいたい、傷口が!傷口が開く!」

冷や汗をかきすぎて、死にかけていた。


それにしても。

良太は、どうやって歩いてきたんだろうか。

1時間もかけて。

地図も見ずに。


施設に戻るまでの道のりを、良太と一緒に歩いた。

途中、大きな建物を横ぎった。

うっすいピンク色の壁の、済生会兵庫県病院。

そうだ。
ここはあんまり通りたくない道だった。

わたしも母も、この近くを通るときは、できるだけ病院のほうを見ないようにしている。

良太だけは、たまに、おかしなことを言う。

「パパ、おる」

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。