「もうあかんわ日記」をはじめるので、どうか笑ってやってください
トップの写真は「いま実家の神戸にいるよ、母のお見舞い行ってくる」と、わたしが東京にいる友人に送ったものだ。
返ってきたのは。
「眉毛は?」
の一言である。
眉毛がない。うっすらとあるけど、いつものように描いてないし、髪と同じ色にあわせてない。つまりはすっぴん。東京では考えられない。
いいよね、慣れ親しんだ田舎の地元って。こうやって気軽に外出できるし、メイクする手間もないし。楽だわ。ここで、ていねいな暮らしをしよう。
んなわけ、あるかい。
ていねいな暮らしをしてるんじゃなくて、眉毛を描いたところで、この町では誰もわたしの眉毛などに興味を持ってくれないのである。
いやごめん、べつに神戸市北区をディスっているわけではない。神戸市北区民は振り上げたクワやらカマやらを降ろしてほしい。
三ノ宮へ向かう電車のきっぷが、二駅区間550円(日本一高い)だったときは口汚くディスりまくったが、それも市営化で280円までに下がった。
正確には、わたしのごく近しい生活圏内にかぎって、だれもわたしに興味を持ってくれない。
母が大手術のうえ、入院した。
いままで、騙し騙しウェ〜イと見て見ぬふりをしていた問題が、ここぞとばかりに一気に噴出した。天から兵糧攻めをくらっている。
まず母の入院は、いろんな事情で控除や保険の効かない費用が80万円近くかかる。快方に向かっているとはいえ、感染対策で、ずっと会えない。しんどい。
そうするとわたしが岸田実家の留守を治める城主となったのだが、この城が問題だらけで。もうね、謀反しまくり、であえであえ。
もともと「ちょっと物忘れ激しくなってきたな」と思っていた同居のばあちゃんが、なんか、一気にやばいことになった。
10分に一回「ママはどこにおるんや?」「学校は行くんか?」と聞いてきて、冷蔵庫にあるすべての食材や作りおき料理をソースと牛乳で煮込み、腐らせる。わたしがオンラインで会議してようが出演してようが、「はよ寝なさい!」と突撃してくる。足が痛いんだか、忘れてるんだかで、お風呂にも入らなくなった。
今日も、大切な仕事の打ち合わせとリハーサルと録画があったのに、「入らないで!」という貼り紙も無視して、部屋に突撃してきて「そんな子どもが仕事なんて、やらしい!」とみんなの前で怒鳴られた。はずかしかった。
ダウン症の弟は、身の回りのことを自分でだいたいできるんだけど、ばあちゃんだけタイムスリップしているので「子どもやから、あたしが言って聞かせな!」と意気込み、弟に「歯磨きしなさい!」「着替えなさい!」とキレ散らかし、そんなもんすでにやっている弟は困惑して、最終的にはキレた。
心優しく、争いが嫌いな弟なので、手を出したり、怒鳴ったりということはない。ただ、言葉にならないもどかしさで、床をドスンドスンと踏み鳴らし、顔を真っ赤にして、目にいっぱい悔し涙をためて和室に閉じこもる。
この前は、ついに、ドスンドスンの末、扉のガラスが割れてしまった。一緒にガラスを掃除しながら、弟は、ぽろりと泣いた。ガラスを割る前に、うまく説明ができないことが、つらかったにちがいない。
ばあちゃんだって、悪気はない。タイムスリップしているだけで、とにかく孫たちをしっかりさせなきゃという優しい責任感で、自動的に動いている。なにより10分後には、きれいさっぱり忘れてる。
コミュニケーションをとってどうなる問題でもないので、もう、二人のために離す方がいいと思った。戦略的一家離散だ。
具体的には、ばあちゃんはデイサービスやショートステイに行ってもらい、弟はグループホームで生活してもらい、土日だけ集合する計画を立てている。
そのために、ばあちゃんの介護認定と、弟のケアプラン策定の手続きをしているんだけど。
手続き、体力と気力のすべてを持っていかれるほど、めちゃくちゃ大変。
お国の制度で、どんな人にも確実に行き渡るように作られているので、基本的にはインターネットではなく、対面と書類で、自宅訪問や区役所訪問での手続きだ。
「正式な手続きをするための、仮手続きの前にやっておく、事前挨拶」というわけのわからん名目のために、わざわざ半日時間を空けたり、執筆や会議の仕事を調整したりする。
担当してくれる人は、いい人が多いけれど、振り切れるほど冷たい人もいて、どっと疲れる。わたしは親の仇かと思うくらいの対応もあった。
それが、ばあちゃんと弟、同時進行である。
そのまっただなか、10年以上安定して入院していたはずのじいちゃんが、ぽっくり亡くなった。ドッタバタのうちに通夜と葬儀を終えた。いまから墓じまいと、相続の手続きがある。
退院してくる母は、体力と筋力がゴリゴリに落ちているので、それにあわせて家具を買い替え、組み立てた。
そうしたら、なぜか洗濯機と掃除機と電子レンジがいっぺんに「俺たちはもうここまでかもしれん」と悲鳴をあげた。ぜんぶ買い替えた。
うちにいるトイプードル2匹(わたしが連れてきた梅吉と、母が捨てられる寸前で引き取ったクーちゃん)が、ばあちゃんに追い回されるストレスなのかなんなのか、情緒不安定になり、おしっこをまきちらす。掃除で一日が終わる。
回復にもよるけど、一年くらいは、母は働けないかもしれない。家計を担えるのはわたししかいない。書き続けないと、ライフラインが止まる。
現代社会が抱える闇の全部盛りが、かっぱ寿司のすし特急に飛び乗ってやってきた!?!?!?!??!!
ひとつ、ひとつ、問題を力づくでクリアしていっても。
体力が削られて一息ついた状態で、さらにでかい問題が立ちふさがり、限界突破してる体力をさらに持っていかれ、気力がスリの銀次に持っていかれる。
よく、介護のパンフレットの表紙の写真なんかには、祖父母に優しく笑って語りかけているシーンがある。
あんなもん、実際は無理やて。
少なくともわたしは。
家族だから無理だ。愛しているから無理だ。
あんなふうにいつも優しくできない。
だって、わたしがどんだけがんばっても、心穏やかに接しても、ばあちゃんはすぐ忘れて叱ってくる。弟は簡単な話しかできないから、言いたいことがぜんぶは伝わらない。それでもずっと一緒にいないといけない。
それがストレスで、部屋に引きこもってる自分のことも、申し訳なくて後ろめたい。
一番悲しいのは、ここには、わたしの話で笑ってくれる人は、だれもいないこと。
チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言った。
わたしことナミップリンは「人生は、一人で抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」と言いたい。悲劇は、他人ごとなら抜群におもしろいのだ。
ユーモアがあれば、絶望に落っこちない。
常々そう思っていたけど、気づいたのは、ユーモアは当事者に向けるものじゃない。
だって、ばあちゃんと弟にユーモアで話しても、なんも通じないし。
悲劇を喜劇に変えるためのユーモアは、そこにいない聞き手、つまり第三者にしか向けられないものなのだ。
「やっば!そんなことあるんや!ウケるわ!」
「ばあちゃん、すごいな!」
理不尽なこの日々を、こうやって笑い飛ばしてもらえたら、わたしはそれで救われる。同情も憐憫もほしくない。やるべきことも全部わかっているので、家に来て手伝ってほしいわけでもない。ただ、笑ってほしい。
だって、このストレスフルな時間も、心のどこかでわたしは「たしかにしんどいけど、これはこれで、おもしろいよな」って思っているのだ。そういう明るい自分を、わたしは見失いたくない。
でも、このままやったら、もうあかんわ。
そんなわけで、前置きが長くなりましたが、の読者さんにお願いがあります。
今日から母が退院して落ち着くまで、毎日21時に、noteで日記を書きます。
時間のある人は、どうか、読んでいってください。読んでくれる人がいるだけで、わたしは、語る意味があります。悲劇をわたしがnoteで書けば書くほど、喜劇になっていきます。
タイトルは「もうあかんわ日記」です。もうあかんので。あかんくなる前に、助けてください。
毎日2エピソードくらい書いていきますが、ひとつは無料で、もうひとつはキナリ★マガジン読者さん限定で読めるようにします。迷ったらくだらないほうをマガジンにします。
読んでくれるだけで嬉しいんですが、コメントやツイッターで感想書いてくださると、ぜんぶ心で嗚咽しながら読んでます。
で、「俺ももうあかんわ」という人は、noteで書いたらいいと思います。いっぺんやってみてください。喜劇になるから。
では、明日から21時、ここに集合でお願いします。もうあかんわ。