処女作と童貞作|キナリなおすそわけ
今週分から、日記のタイトルをちょっと変えてみました。内容はあんまり変わらないよ。いつも読んでくださって、ありがとうございます。
いつもと変わらず一発書きなのですが、これを書き流すと表現することもあるそうです。かっこいいな。
ふだんガッツリ書いている文章は、普段からずっと考えて煮詰めていることだったり、少ないながらも推敲したりして、錬成して研磨していくので、貴金属をこしらえるイメージに近いです。
一方で日記は、クレヨンで書く絵に近い。消したり直したりせずに、日々で見つけた色彩や造形を画用紙に乗せていって、思っていたのとぜんぜん違う出来になったりもするけど。
ほぼ喋るのと同じスピードでタイピングしているので、まあ、そんな感じで書き流しを読み流してもらえると嬉しいです。
あとこちらの企画もようやくスタートできました!現時点で300件以上、申請もらっているので2〜3ヶ月待ってもらっちゃうけど、ごめんなさい。
6月8日(月) 処女作と童貞作
あるメディアの取材を受けていて、ライターさんから「岸田さんの処女作はなんですか」と聞かれた。
答えようとすると、すかさず「申し訳ありません。いまの言葉は不適切でした。デビュー作はなんですか」と言い直された。
びっくりして、答えるのを一旦やめ、わけを聞いてみた。
「昨今のジェンダー意識の変化にあわせて、処女作という言葉は使わないようにしています」
「な、なるほどー!処女っていう言葉があかんのですか。なんでやろか。女の人のイメージを押しつけるから?性的なイメージに結びつくから?」
そこでわたしは、気づいた。
「処女作はあるけど、童貞作はないですもんね。ああっ、母校はあるけど父校もないな。やっぱり片方の性別しか出てこん言葉って、使ったら不快に思う人が増えてるんですかね」
単純な好奇心が、ぶくぶくと泡のようにわき出てきて、わたしの目は輝いていたと思う。
ライターさんは「実はわたしも納得はできてなくて……以前、使って怒られたことがあるので、岸田さんにご迷惑をかけてはいけないと思ったんです」と、打ち明けてくれた。
他人の心に陰を落とすような言葉には敏感な方だと思っていたけど、処女作については考えたことがなかったので、こりゃ良い機会やぞと思い、ライターさんと調べてみることにした。
結論、なんで処女作って言うのか、よくわからんかった!
英語のVirgin(ヴァージン)には、男女の区別がないそうだ。これをただ処女と日本語で訳してしまったならわかるけど。英語では処女作のことをVirgin works(ヴァージン・ワークス)ではなく、Maiden works(メイデン・ワークス)と言うらしい。Maidenは女性にしか使わない。
ってことは、たまたまじゃなくて、あえて女性にしたんか。なんでや。
Maidenの語源となったドイツ語には、女性名詞と男性名詞と中性名詞があるらしく、作品を表すのは女性名詞だから「処女作」って言うらしい。ちなみに船や演説も女性名詞なので「処女航海」「処女演説」になる。
名詞の使い分けに、性別への強い意識、ましてや蔑視などの意味はなく、純粋な言語習慣だそうな。日本にはない考え方だから、気づかなかった。
もっといろんな意見を見ていくと「作品は作者が生むもの。出産という行為ができるのは女性だから、処女作なのだ」と言っている人もいて、それはそれで、おもしろい考え方だと思った。でも最近、男性でも妊娠する技術あるしな。
わたしはそもそも深い意味なく「処女作」より「デビュー作」という言葉を使うことが圧倒的に多かったけど、調べたことで改めて、今はどっちを使っても、使われても、べつに良いやと決めた。
ただそれは「処女作という言葉に傷ついた」という人に、面と向かってまだ出会っていないからだ。その出会いによって、わたしが使う言葉は変わるかもしれない。
文章を書く仕事をしていると、こういう言葉の葛藤によくエンカウントする。
そういうときは、過敏になりすぎないようにしている。使える言葉が減るというのは、すごく怖いことだから。
そのかわり、絶対になんとなくで終わらせないようにもしている。
「なんとなく、みんな使ってるから」「なんとなく傷つけそうだから」という島に不時着しそうだったら、面倒だけど、納得できるまで調べてみる。めちゃくちゃ面倒だけど。
これは前職が福祉というとてもセンシティブな業種だったからだと思う。差別にさらされてきた人たちに関わる言葉について、何度も何度も、会社の広報として考え続けてきた。
たとえば、わたしは「障がい者」ではなく「障害者」と書くようにしている。
これは、目が見えない・見えづらい人が、パソコンの画面に映る文字を、自動で読み上げて認識する機能「スクリーンリーダー」への配慮だ。ときどき「障がい者」を「さわりがいしゃ」と誤認識してしまうことがあるけど、「障害者」なら正しく読み上げられる。
とはいえ、最近は読み上げの精度も上がり、誤認識はどんどん減ってきた。
それでもわたしは「障害者」を使うことにした。
「害」を「がい」にすることで、マイナスなイメージを失くすという意味があるみたいだけど、わたしがいた会社では「障害は人ではなく、環境にある」と考えているので、人を傷つけるわけではないという結論だ。
ただ、これはあくまでもわたしの意見なので、誰かに押しつけたいわけではない。言葉は人を傷つける武器であってはならないとは思うけど、言葉を選ぶのは人の自由だ。
だから、メディアから「岸田さんの原稿ですが、うちにはこういう理由があって『障害者』を『障がい者』にしたいんです」と言われたら、もちろんそうしてください!と伝えている。
大切なのは、どの言葉を選ぶかではなく、その言葉にどの意味を選ぶかだ。
ものすごく面倒なことだし、投げ出したくなるけど、そうやって自分の辞書へていねいに積み込んだ言葉を使った文章は、それだけピュアな気持ちが乗りやすく、傑作になるのだと信じている。
まじめなこと書いちゃったから、肉まんが食べたい。老祥記の。
6月9日(火)慣れは薬にも毒にもなる
ひさしぶりに外で打ち合わせがあった。ひさしぶりに電車へ乗った。
そしたら、いつも自宅から渋谷に出るまで30分くらいなのに、90分くらいかかってしまって、打ち合わせに5分遅れて平謝りした。スタバのフラペチーノ飲みたいからちょっと早く出ようと思った、一年に一度あるかないかのミーハーな自分の衝動に救われた。
数ヶ月、家に閉じこもっていたわたしに、乗り換えという概念は早すぎた。
以前はマジでなにも見ずに雰囲気だけで、駅に着いたら向かい側の電車に歩いていって、乗り換えていたのに。なんか電車のたたずまい見るだけで、そいつが渋谷に行く顔つきかどうかわかったのに。
もう、そのへんの勘が、バカになってんの。てんでダメなの。
渋谷に行くつもりが気づいたら横浜の一歩手前にいた。あわてて、アプリで乗り換えを調べたり、駅員さんに聞いたり、電車の時刻表をにらんだりしたけど、めっちゃ大変。
慣れって、すごいんだな。日頃の「悩む」っていう小さなストレスを、どんだけ失くしてくれてたんだ。
慣れっていうのは「苦しみ」を見て見ぬふりして閉じ込めてしまう毒にもなるけど、薬にもなるって痛感した。
6月10日(水) 今週はなにしてもあかんわ
キナリ杯に全力投球したので、身体にまだガソリンが足りていない。給油が追いついてないね。今週はなにしてもあかんので、ゆっくりしようと思う。
昨日は電車の乗り換えに苦戦して、今日はめちゃくちゃ大切なインタビューをしてきたのに、楽しすぎてボイスレコーダーとかネックレスとか大切なものを現場にだいたい忘れてきた。むしろ忘れていった持ち物の方が多いわ。
梅雨が近づいてるからか雨ばっかりで、傘もアホほど失くす。折りたたみにしても失くすし、ちょっと高い傘買っても失くす。
グッズを作ることについて、全知全能のゼウスの次に才能がある方々と打ち合わせがあったので「持ち主から1m離れると爆音が鳴る傘がほしいです」と言ったら、親身に耳を傾けてくださった。
結局、外で爆音が流れると、まわりの人がびっくりしちゃうから、岸田に電撃が流れる仕組みはどうか、に落ち着いた。ゼウスじゃん。
6月11日(木)今年も真夏の方程式
映画「真夏の方程式」が好きで、毎年思い出したときに観ている。
東野圭吾さんの原作も好きだし、「容疑者Xの献身」も好きなんだけど、「真夏の方程式」は、田舎の夏休みの良さが全開で、映像の色彩や音楽がなんともいえず最高オブ最高。(だれかわたしに映画の褒め方を教えてくれ)
ところで、娘や息子を愛する父が悲しい目に合うっていうシーンがある映画は、ことごとく涙腺が崩壊する。悲しくて苦しくて、自分でもギョッとするくらい取り乱す。その感情の揺れ動きがあるから、映画って素晴らしいんですけども。
でも、わたしの母の場合は、子どもが悲しい目に合うシーンでそうなるらしい。そっちの方はわりと、わたしは大丈夫だなと思った。やっぱり人はみんな、自分に置き換えて、感情移入してしまうんだろうか。子どもがいるかどうかの違いってあるのかな。
あっ、動物が死ぬシーンは本当にだめ。涙腺がどうこうじゃなくて、出てきた時点でちょっともう耐えられなくなって一旦停止するレベルでだめ。どんなに名作でも、そこで挫折してしまうから、ちょっと悔しい。
6月12日(金)一点集中の愛よりも、分布の愛だ
佐渡島さんと話していて、気づいたことがある。
わたしが幸せに仕事ができていると感じるときは「上・横・ナナメ」の関係が、しっかりできているときだ。
上の関係は、親子や上司。
横の関係は、友人や同僚。
ナナメの関係は、ちょうどよく無責任な人。
上の関係は、ジャッジされたり、教えられたり、叱られたりといったことが起きる。わたしの場合は上司がいないので、この場合は母ということになる。
横の関係は、広くフラットに接してくれる。言わずもがなわたしに同僚はいないが、愉快な友人たちがいる。
ナナメの関係というのは、上でもなく、横でもなく、時に上になったり横になったりもするけど、基本的にはちょうどよく無責任にいろいろ言ってくれる人。物語に出てくる、なんか主人公にヒントをくれる、奇想天外だけどやさしいおじさんとか。そんなおじさんいたっけな。
佐渡島さん含め、コルクの人は、わりとこのナナメの関係になってくれていると思う。もちろん仕事なので、無責任ではないこともあるけど、そういう時はいい感じに無責任な人と引き合わせてくれる。
わたしはよく、愛について書くし、愛を与え求めることに興味があるけど、「上の人だけからたっぷり愛される」「横の人だけから広く愛される」では、なんかうまくいかないし、満たされない瞬間がくるなと思った。
わたしを支えてくれる愛というのは一人から与えられる量なのではなく、分布なのかもしれない。上からも、横からも、ナナメからも、ちょうどよく愛が分けられ、与え返せる場所に動いていくこと。移動する点Pがわたし。