『藤子・F・不二雄がいた風景』が読めるタイプのタイムマシンすぎた
わたしにタイムマシンを教えてくれたのは『ドラえもん』だった。
あのタイムマシンには、船時法というルールがある。過去へ戻っても、地球の歴史を変えるような行為をしてはいけない。
ルールを破れば、タイムパトロールのお縄についてしまうぞ!
わたしは、密かに思っている。
タイムマシンは、とても素晴らしくて、とても悲しい発明なのだと。
なぜ突然、こんなことを書きたくなったかというと、
『藤子・F・不二雄がいた風景』
という本を読んだからで。
藤子・F・不二雄生誕90周年を記念して作られたまとめ本で、これが、むちゃくちゃ良かった。
一言でいうと、タイムマシンみたいな本だ。
本を開くと、
藤本先生(藤子・F・不二雄先生)のサインがある。
えっ、時空、飛んだ?
これっ……ペンをキュッキュってやった時のインクだまりとか、にじみとかっ……再現度がすさまじくてっ……!
「ほんまのサイン本なんちゃうの!?」
と、うっかり信じてしまうような。数秒後に「そんなわけ!」って、笑ってしまうんやけど。
時を超える、脅威のこだわり加工。このサインだけでも、買う価値ありますんで。
この本がタイムマシンやと思ったこだわりは、他にもある。
藤本先生が生まれた1933年から遡るようにして、原画、写真、インタビューが大量に載ってるんですけども。
インタビューの人選、思いきったなあ!
藤本先生と同じ時代に、同じ場所で、生きていた人たちのインタビューしか載ってないの。
何気にこれは、すっげえことだと思っていて。企画編集した人の強い意志を勝手に感じて、拍手しそうになった。
本をぽんぽこ売りまくろうと思うと、つい、旬な人を出しちゃおうと思うはずなんです。いまドラえもんに関わってる芸能人だけでも、たくさんいるから。
でも、そういう人は誰も出てこない。どんだけ作品を語れる人でも、この本の中には入れない。
彼らは、藤本先生に会ってない人なので。
インタビューに登場するのは、トキワ荘にいた漫画家さん、アニメーションの監督、小学館の編集者さんなど。存命中の藤本先生と会っていた人たちだけ。
インタビューが、全部、よくて。ひとり読み終わるたびに、熱いものが込み上げて、目を閉じ、万物に祈りたくなる。
でも、なんで込み上げるのか、わかんない。
こんなことを言うていいかわからないけど、この本を読んでまず思ったのが、
名言がないこと。
ホォ〜とうなずく言葉や、思わず笑ってしまう言葉はたくさんある。でも、短い一言だけで強い感動を爆発させるような、わっかりやすい名言がない。
藤本先生はたぶん、そんな風に壮大な言葉を、残そうとしなかったんだろうな。
強い感動ではないけど、深い感動がある。
時間差で、グワーッとくる言葉がある。
例えば、初代『ドラえもん』の担当を務めた編集者・河井常吉さんのインタビューを読むと。
わたしは、わけのわからん涙が止まらんくなった。
新人だった河井さんは、藤本先生との打ち合わせで緊張して、いつも10秒ぐらいで退散してしまったそうだ。ある日、突然藤本先生の前で、幼少期の思い出を話し続ける機会に恵まれる。
何十年も経って、こんな細かい動作を覚えてるってさ。
相当、相当、嬉しかったからだと思うんですよ。
この時の河井さんの緊張が、疑問に、信頼に、喜びに少しずつ変わっていったのが、文章からもビンビン伝わってきて。
仕事場のソファの上で、あの藤本先生が話を聞いてくれる風景まで、ボワッと浮かんでくる。思い出話のすべてが、河井さんの喜びにあふれている。
河井さんも、自分の幼少期の話の何がおもしろいか、まったくわかってないんです。それがおもしろいなあって。いいのかな、いいのかな、って不安になりながら、無我夢中で藤本先生に話し続けてしまう河井さん。
そして、藤本先生は、その河井さんのエピソードを活かして、漫画に……するわけでもなく!
するわけでもないんですよ!
こんなん、そういう話やと思うやないですか。違うんです。ただ、ただ、嬉しそうな藤本先生と河井さんの姿が伝わってくるだけ。
なんの話?
たぶん河井さんも、なんの話って思いながら、話さずにはいられなかったんちゃうかな。
決して色褪せない、名前のつかない、大切な話をわたしたちにわけてくださったことに、ありがとうございますとお伝えしたい。
コロコロコミックの創刊に携わった編集者・平山隆さんのインタビューも、わたしは好きだ。
生活感がボタボタあふれる、細かすぎる話。
平山さんの素朴な驚きと、バスに乗ってから胸に広がったであろう喜びが、伝わってくる。
人生には、みんな、そういう記憶があるんだよ。
あれはなんだったのか、意味も名づけようがない記憶。
それなのに、なんか嬉しくて、
なんか忘れられない大切な記憶。
言われた時のことを、何度も、何度も、その意味を考えるたびに再生して、誰かに話して、風景のように焼き付くんでしょう。
藤本先生自身は、相手を喜ばせるつもりなんてなかったとしても。それがあまりにも普段通りの姿だったとしても。
この本には、そんな風景のような、言った方にとってはなんでもない言葉が、たくさん散りばめられている。もうここにはいない存在と共有した、喜びの記憶であふれている。
『藤子・F・不二雄のいた風景』は、名言はなくても、名シーンにあふれている本です。
人を感動させるために作られたのではなく、自分だけに湧き上がった唯一無二の感動を抱きしめるような、シーンばかりが集まっている。
ここまで時を超えて、何気ない風景を何枚も何枚も綴られている作家が、他にいらっしゃるだろうか。藤本先生の魅力を、あらためて噛みしめる。
そういう藤本先生にあこがれる自分のことが、少し誇らしくなる。
わたしにとって、タイムマシンのように思い出される人は、やっぱり父だ。
わたしの父は、わたしが中学二年生の時に亡くなった。まさか急病になるなんて思ってもみず、最後の最後まで、わたしと父はケンカしていた。
ごめんねと言えなかったあの日から、わたしは、とにかく父のことを知りたくて、生きている。
お線香を上げに来てくれる人には、父の同僚や友人がいたので、お願いして父の思い出話を聞かせてもらうことがある。
みんな喜んで、父の話をしてくれる。
どんだけ父が情に熱く、仲間思いで、ユーモアがあって、立派な人間だったのかを誰もが教えてくれる。
その語りは、父のためでもあるし、わたしのためでもある。本当にありがたいことだ。でもわたしは、どこか申し訳ない気持ちに暮れてします。
その思い出話は、父が愛されていたことを知る喜びであっても、父を理解できる喜びからは程遠いからだ。
「あなたのお父さんは仲間思いの人で、こんなことを言ってたんですよ」
そんな風に父の名言を教えてもらって、そうかあ、と思う。どうしてだか、わたしの頭に風景が浮かびきらない。父の声も再生されない。
心のどっかでわたしは、父はそんなつもりで立派なことを言うような人やないんとちゃうか、と疑っているのだ。わたしが覚えているのは、立派という言葉は似合わない、普通の父だった。
めんどくさがりで、てきとうで、勢いづいて言うことがコロコロ変わるのにそれが全部おもろい、ずるい人だった。
むちゃくちゃ自分勝手なことを言うと、立派という意味ありきで、差し出してくれた父の思い出話に、わたしはずっとピンとこない。
父の気持ちは誰にもわからなくて、わたしにもわからなくて、だから、そこに意味を想像するのは、せめてわたしであってほしい。わたしの勝手であってほしい。
ある時、父の後輩の方が、思い出話をしてくれた。
あらかたしゃべり終えて、コーヒーを飲んで、わたしが袖にスプーンをひっかけて落とすのを見ながら、
「そういえば、お父さんと初めて東京に出張したことがあって。新橋だったかな、とにかく駅を出た瞬間、お父さんは犬のうんこを踏んだんですよ……」
長丁場の語りで疲れていたんだろう、その方はボーッとして、小さな笑いをこぼしながら話しだした。
「そしたらお父さんは、即座に『テリブル東京や!』って叫んで。あれは意味わかんなかったな」
なんの話?
でも、なぜか聞いた瞬間に、東京の匂いが、似合わないスーツに身を包んだ父が、浮かれた高揚が、父の姿と声が、わたしにブワッと押し寄せた。
わたしの知らない東京で、わたしの知ってる父が、楽しく困っていた。
そういうよくわからない風景をわたしは、生きてる時の父からもっと、聞きたかったのか。わかりたかったのか。
泣けてきた。
『藤子・F・不二雄がいた風景』という読むタイプのタイムマシンに出会ってからというもの、わたしは、寝ても覚めても、タイムマシンのことを考えている。
もしも22世紀に、タイムマシンが完成したら。
わたしは、どの過去に戻るだろうか。
あの夜に戻って、疲れてる父を病院へ押し込んで、亡くならないように、がんばるんだろうか。
考えても、考えても、答えが出ない。
父に会いたい。
けれど、わたしはいま、父を失ったから、父のことをわかりたいと切望している。わかろうとして書いている。向いてないにもほどがある会社員をやめて、作家になっている。家族で問題を乗り越え、強くなっている。
藤本先生の作品やインタビューに心を動かされて、喜びに満たされながら、今、これを書いている。
過去を変えれば、全部、なかったことになってしまう。
いざ、タイムマシンを前にして、父を救いにいけない自分を想像すると、申し訳なさに足がすくんでしまうけど。
ところがどっこい、藤本先生は、天才だ。
タイムパトロールと船時法という、優しさでしかない天才的なしくみを、わたしに残してくれた。
もう一度、そのルールを思い出してほしい。
“過去へ戻っても、地球の歴史を変えてしまうようなことをしてはいけない。”
そうか。そうなのか。
わたしの父は、わたしがまだ知らない、とんでもない偉業を考えていたに違いない。父が生きていたら、歴史を変えてしまうのかもしれない。
いや、もしかしたら、わたしの方かも。わたしがこれから作家として、書いて、書いて、書きまくることで、歴史が変わるのかもしれない。
そっか、じゃあ、仕方ないね。
わたしは、過去を変えることをあきらめた。
あきらめて、猛烈に救われた。
父を救えなくていい。ただ、タイムマシンに乗って、風景を見に行きたい。タイムマシンはまだ完成していないから、タイムマシンに乗るように、思い出して、想像をして、書いて、父のことを知っていこうと思う。
『藤子・F・不二雄がいた風景』、とてもいい本だったので、ぜひ読んでみてください。